シェフィルの秘密04
「あひぇぇぇ〜……」
シェフィルの口から、間の抜けた声が溢れ出す。
「ほひぇぇぇ〜……」
アイシャの口からも、同じぐらい間抜けな声が出てくる。
間が抜けているのは声だけではない。シェフィルもアイシャも光悦とした……というにはあまりにも締まりがない、だらしない顔付きになっていた。
緊張感も失い、周囲の警戒が疎かになる始末。確かにこの辺りの生物は今まで自分達を襲う素振りすら見せておらず、今も多くの生き物がシェフィル達の横を通り過ぎている。だとしても無視している理由が未だ不確定な以上、突然豹変する可能性は否定出来ない。油断するべきでないと、シェフィルも頭では理解している。
だが、それでも顔と頭の緩みを抑えられない。
今し方食べたチカウゾが、あまりにも美味だったがために。
「(この星に、こんなにも美味しいものがあったなんて知りませんでした)」
口いっぱいに広がる魅惑的な味。
それが『甘い』という味覚である事を、シェフィルは一応知っている。地上の生物達の身体にも糖質はあるので、甘さ自体は存在するのだから。だがどんな生物の肉もそれを遥かに上回る渋味や苦味を宿しており、食べたところで甘いと感じる事はない。味覚に反応があるだけ、というべきだろうか。
だがチカウゾは違う。ハッキリ甘いと感じられる。いや、甘過ぎて、糖の塊を食べているかのよう。ここまで甘いと最早味覚に対する暴力。思考停止は情報処理が追い付かなくなっただけでなく、ドーパミンやセロトニンなど幸福感を感じる神経伝達物質が、過剰な甘味に反応して異常分泌されているからか。
チカウゾがこんなにも美味しい理由は、一応考え付く。
天敵がいないからだ。そもそも地上の生物が何故不味いのかと言えば、捕食者から身を守るため毒や老廃物を身体に蓄積しているため。天敵がいないのであれば、そんな守りは必要ない。むしろ毒の生成・蓄積にエネルギーを使うため、浪費ですらある。思う存分糖やアミノ酸を溜め込み、繁殖や飢餓に備える方が合理的だ。それ故にチカウゾの身体には毒がなく、たっぷりと糖を溜め込んでいるのだろう。
そして生物の味覚は毒を避けるだけでなく、生存に必要な物質を集めるためのセンサーでもある。甘味はエネルギー源である糖質や脂質、旨味は身体の材料であるアミノ酸に対する感覚。それらを好ましいと感じる事で、より多くの摂取を促す。美味しいものをいっぱい食べてしまうのには、合理的な理由があるのだ。
こうした理由からチカウゾはとても美味しく感じられるのだろう――――と、理屈は考えられる。しかしそれを差し引いても、あまりにも美味い。ここまで美味い生物など、存在し得るのか? そんな事を考えていたシェフィルは、ふと思い出す。
「(そういえば、なんかアイシャが言っていましたね。人間は美味しいものを追求する中で、生き物自体を作り変えてきたって)」
美味しいものを食べるため、そのための命を作り出す。
品種改良と呼ばれる行為だ。人類文明のした事が、他の文明に出来ないとは思えない。ならばこのチカウゾも、美味しく食べるために作り出された生物種なのではないか。そう考えればここまで極端な美味しさにも納得がいく。
無論、シェフィルは人類文明で作られた食べ物なんて知らないので、これがどれほど美味しいのかは分からない。そこで文明出身者であるアイシャの意見を伺おうと、彼女の方へと振り向いた。
「うぐぐぐ……」
丁度その時、アイシャは随分と悔しそうな顔になっていた。声にまで悔しさが滲み出ている。
その癖バリバリとチカウゾを食べているので、美味しいとは思っているらしい。顔と態度が一致していないと、シェフィルは思う。
「どうしましたか、アイシャ。変な顔になってますけど」
「……どうもこうも、悔しくて」
「何がですか?」
「この生き物よ! ただの生肉を囓っただけなのに、私が作った料理より美味しいじゃない! というか地球の料理でもここまで美味しいものは早々ないし!」
「へぇ、そうなんですか。確かにアイシャの料理よりも美味しいですね」
シェフィルは正直な感想を述べる。
悪気はない。あくまでも事実を述べただけだ。アイシャが言うように、チカウゾの肉はアイシャが作った料理よりも美味しかったのだから。
ところがその言葉を口にした瞬間、アイシャの手がシェフィルの口に伸びる。
避けようと思えば躱せたが、躱す必要性を感じなかったのでシェフィルは動かず。アイシャの手は難なくシェフィルの口を正面から掴み、塞いでしまった。
「良い、シェフィル。人間というのは、本当の事だけ言えば良いってもんじゃないのよ?」
アイシャは優しい言葉で窘めてくる。
言い方は優しいが、目が笑っていない。シェフィルも本能的にこれは逆らわない方が良いと判断。こくこくと頷く。
「よろしい。社会の中ではね、時には沈黙が正しい事もあるの」
「はぁ……そういうもの、なのでしょうか」
「そういうものなの!」
力強く断言され、シェフィルはまたも頷いた。人間社会で生きてきたアイシャがそう言うのだから、きっとそうなのだろうと納得する。
「ところで、もう一匹捕まえますか? チカウゾならまだ近くにいっぱいいますし」
「……良い。お腹いっぱいになっちゃったから」
それから次の食事を提案してみるも、アイシャはぷいっとそっぽを向きながら拒む。
なんだか機嫌を損ねてしまいましたねー……そう思ったシェフィルであるが、原因がよく分からない。恐らく先程の言葉が問題らしいが、事実を言う事の何が悪いのか。
それでも機嫌は直してほしいので、どうにかしたい。何か面白いものでもないだろうかと、辺りを見回してみる。
結果として、面白いものは見付からなかった。周りは相変わらず平坦で傷一つなく、一直線に伸びる道があるだけ。生き物は多種多様だが、今までの道中で見たものばかりだ。なんとも変わり映えのしない――――
と思いきや、『変化』が起きていた。
「(……見られている?)」
今まで生物達は、シェフィル達の事など見向きもしなかった。視線すら向けず、捕まえても捕まった事すら分かってないかのように動く有り様。障害物程度の認識だったと思われる。
ところが、今は違う。
相変わらず障害物扱いなのか、避ける程度で特段何もしてこない。だが触角や複眼が、頻繁にシェフィル達の方を向くようになったのだ。観察している、というほど見られてはいないが……明らかに関心は抱かれている。
何故いきなり自分達を意識するようになったのか? 理由があるとすれば、自分達が今し方チカウゾを食べた事だろう。この地に生息する生物を捕食した事で、何かしらの生物だと認知したのかも知れない。
それ自体は、なんら不思議ではない。「こいつら他の生物を襲うんだ」と理解したのなら、警戒ぐらいするのが当然だろう。むしろ未だ警戒しかしないのかと、その能天気さを怪訝に思うぐらいだ。
しかし、全ての生物が、種を問わず同じ行動をしてくるのは何故なのか。
「(……殺すのは控えておきますかね)」
楽に捕まえられる獲物と考えていたが、どうにも得体が知れない。今は問題が起きていないが、これからもそうとは限らない。無論、どんな問題が起きるかなんて見当も付かない。
獲物として狩るのは止めておくのが無難か。
此処に暮らす生物を獲物として利用出来ない以上、この場所は生存に適さない。よって生き延びるためには、地上を目指す必要がある。そしてこれは急いだ方が良い。得体が知れないからこそ、何時、何が起きるか分からないからだ。
「アイシャ。周りの生き物の雰囲気が変わりました。どうやら私達がこの生き物を食べた事で、警戒されたようです」
「えっ!? ま、まさか攻撃してくる……?」
「今のところそういった気配はありません。ですが何かをきっかけにして、そうなる可能性は否定出来ません。刺激しないように……油断しないようにしましょう。あと此処で暮らすのは止めです。地上への帰還方法を探しましょう」
「う、うん。分かったわ」
アイシャにも事情を説明。恐怖に引き攣りつつも、アイシャはこくんと頷く。
幸いにして、美味なチカウゾは栄養満点の食材だった。カロリーや水分は十分に補給出来たので、しばらく食事は必要ない。体力も回復したので、万が一戦闘になっても力を十全に発揮出来るだろう。
シェフィルは立ち上がり、アイシャの手を掴む。怖がる彼女の手は、微かにだが震えていた。握ればその動きを感じ取るのは容易い。
すると無意識に、シェフィルはその手を強く握ってしまう。
「あっ……」
そしてアイシャが弱々しい声を出した途端、シェフィルは無意識に繋いでいた手を離した。まるで弾け飛ぶような勢いで。
「ふぇあっ!? す、すみません、強く握り過ぎましたか? あ、いや、それとももう手を繋ぐのは止めます!?」
「う、ううん。そうじゃないの。ただ、強く握られて驚いただけで……えっと、手、繋いでくれる……? なんか怖いし……」
ゆっくりと差し出される、アイシャの手。
シェフィルは思わず、息を飲んでいた。
何故息を飲んだのか? アイシャの手が美味しそうに見えたのか? シェフィルにもさっぱり分からない。そもそもちょっと強く握っただけなのに、どうして自分の心臓がバクバクと波打っているのか。
やはり自分の身体は何かおかしくなっているのではないか。そんな懸念がまた想起される。
ただ、顔を赤くしているアイシャを見ていると……自分の体調なんてどうでも良くなってきて。
「わ、分かりました。しっかり繋ぎましょう。ええ」
アイシャが望む通りに、シェフィルはその手を先程よりも強く繋ぐのだった。
……………
………
…
変化のない道のりだった。
かれこれ一時間は歩いただろうか。シェフィルは意識して一定の歩行速度で維持しており、通ってきた道は今まで通り極めて直線的かつ平坦。障害物や危険な生物もいないため、立ち止まる事もしていない。移動距離の算出は容易く、ざっと四〜六キロほど移動した筈だ。
しかし床も天井も壁も、今のところ何一つ変化が見られない。相変わらず傷も切れ目もなく、分かれ道すらなかった。時折現れる直角の曲がり角の存在だけが、自分達が移動している事を証明してくれる。
気が狂う、という感性はシェフィルの中にはない。現実をありのままに受け入れて、情報として解析するだけなのだから。だがアイシャが辛そうな顔をしていれば、この環境が普通の人間にとっては極めて耐え難いものであるというのは分かる。
「アイシャ、大丈夫ですか? 少し休みますか?」
「う、ううん。平気……まだ歩けるわ」
体調を尋ねてみると、アイシャは元気さをアピールするように笑顔を見せる。尤も疲れを隠しきれない顔は、却って休ませるべき状態である事を示していた。
地上への脱出を優先したい、と今のシェフィルは考えている。されど急いでいる訳ではない。確かにこの辺りの生物に懸念は抱いているが、それが『何時』現実になるかは分からない。一秒後という可能性もあるが、永遠に訪れない可能性も現時点ではあるのだ。
「(実際、一時間も経ったらアイツら急にこちらを無視するようになりましたし)」
行き交う生物達は、チカウゾを食べた直後はシェフィル達に意識を向けていた。しかし今ではすっかり無視するようになっている。
時間経過で生物達の認識が変わった、と考えるのが自然だ。理由が分からないので安堵は出来ないが、無関心な方がシェフィル達としては行動しやすい。あまり油断も楽観も出来ないが、脅威度は引き下げて良いだろう。
ならば今は休む方が良い。安全な時だからこそ、何時か来る危機に備え、体調を万全にしておく。
「いえ、やはり休みましょう。此処までの道のりでかなり地下深くまで下りましたが、その影響なのか吸熱量が増加しています。体力をかなり消費している筈ですから、休憩は多くするべきです」
感覚的な話ではあるが、一時間前にいた場所よりも此処は『寒い』。
厳密にはシェフィルが言ったように、身体から奪われる熱量が多い。地上とは比較にならない量だ。このままでは凍り付いてしまうので、全身の細胞が熱の生産を増やしている。当然その分エネルギーや資源を多く消費しているだろう。
シェフィルにとっては然程苦ではないが、まだまだこの星の住人としては新参者のアイシャからすると辛い筈。冬ほど苛烈ではないものの、無理をすればアイシャの体力が尽きて行動不能に陥るかも知れない。それは無防備な姿を晒すも同然であり、多少のリスクを負ってでも避けるべき危機だ。
「……うん。ごめんなさい、すぐ疲れちゃって……」
「疲れる事は悪くありませんよ。ほら、此処で座っちゃいましょう」
謝るアイシャに休憩を促すシェフィル。アイシャも、やはり本当は疲れていたのだろう。こくんと無言で頷くと言われた通りその場に座った
「ぴゃあっ!?」
瞬間可愛らしくも、異常を伝える悲鳴を上げた。
「アイシャ!? どうしましたか!?」
「う、ううん。なんでもないの。その、地面が変な感じで……」
「地面が?」
どういう事なのか? 続きを促すようにシェフィルは首を傾げるも、アイシャは中々話そうとしない。
されど隠そうとしているようにも見えない。
どうやらアイシャ自身、何に驚いたのか説明出来ないのだろう。答えを得ようとして、アイシャはぺたぺたと平らな地面を触っている。
シェフィルも気になったので、地面を触ってみる。すると、確かに微妙な違和感を覚えた。常に感覚を研ぎ澄ませて生きているシェフィルでさえ違和感程度にしか感じないのだから、アイシャが上手く説明出来ないのも仕方ない事だろう。
シェフィルは目を閉じ、意識の大半を自分が触れている平らな地面に向ける。手で感じたものを詳細に解析し、数学的な情報を『言語化』していく。
そうして一つの答えに辿り着いたが、シェフィルはすぐには納得出来なかった。
「これは……鼓動……?」
脈打っているのだ。地面が、周期的に。
そんな馬鹿なと思いながらも、念入りに調べるほど感覚は確信へと変わる。
単に揺れ動いているだけなら、なんとでも説明が付く。小規模な地殻変動や、巨大生物同士の戦いなどが原因となるだろう。シェフィル達が地下深くへと落ちる原因になった、原種返りの破壊行為とそれに伴う地形破壊も可能性の一つだ。
ところが此処で感じ取った振動は、周期的かつ同じ強さで繰り返されている。生きるか死ぬかの闘争で規則正しい攻防が繰り広げられるとは思えず、地殻変動だとするには、定期的に止まっている時間があるのが気になる。地滑りや地殻の動きなら、絶え間なく一定速度で進行するものだろう。
そうした違和感を除外し、率直に感じ取った印象が『鼓動』という表現だった。
「(しかも方角は、私達が向かっている先ですか)」
鼓動であれば流れていく方角も特定出来る。そして念入りに調べた結果は、自分達が行こうとしていた先から伝わってくるというもの。
この先に、何かがいるのだろうか。
曖昧なものに恐怖するような、非合理的思考はシェフィルの中に存在しない。しかし不確定要素を軽視するのもまた非合理というもの。
出来れば、あまり進みたくない。
……だがそれは、この場に留まる事と同義だ。反対方向へと進む道が崩落した岩で塞がっている以上、戻るという選択肢は端から存在しない。地上に戻れる可能性があるとすれば、この道の先にしかないのだ。
勿論、そもそも地上に戻れる可能性自体ないかも知れないが。その場合は此処に留まり、此処で暮らすのが最善の選択だ。予測も出来ない何かに近付くより、得体は知れないが食べられるものであるチカウゾを殺す日々がまだマシだろう。
どちらが正しい選択か。この場所に関する知識がないシェフィルには、確信を持って答える事は出来ない。
――――出来ないが。
此処に来てからずっと不安そうなアイシャの顔を見ていると、居着くという選択肢は選ぶ気にもならなかった。
「確かに妙な感じがしますね。とはいえ進まなければ地上への道も見付かりません。今までよりも慎重に行きましょう。アイシャも、何かおかしな点に気付いたらすぐに教えてください」
「う、うん。分かったわ」
シェフィルは警戒を促すだけに留め、アイシャと共に先へと進む事を選んだ。
アイシャが此処にいたくないのなら、此処から抜け出そう。
なんとも非合理な判断理由だ。果たして命を賭すだけの価値があるのだろうかと、自分でも疑問に思う。
「もう疲れも取れたし、先を急ぎましょ! こんな変なところ、長くいたくないもの」
けれどもアイシャが笑いながら自分の決断を肯定してくれれば、それだけで十分だとも思ってしまう。
本能の警告を無視して、シェフィルは更に地下深くへと歩を進めてしまうのだった。




