シェフィルの秘密03
地下深くに広がる『道』は、シェフィルが想像していたよりも長く続いていた。
落下地点から既に十分ほど歩いたが、未だ道は続いている。分かれ道はなく、直線と直角が延々と続くのみ。平坦で、変わり映えのしない景色だ。床や壁の断面は相変わらず切れ目もヒビも入っていない状態で、あまりにも変わらない見た目故に自分達が実は一歩も動いていないのではないかという錯覚まで覚えてしまう。
ただし感覚を限界まで研ぎ澄ませば、一つの『違和感』に気付く事が出来た。
「(この道、少しずつではありますが地下へと向かってますね)」
真っ直ぐに見えた道であるが、実際には極めて緩やかな斜面であり、地下へと向かっていたのである。その傾きは『文明』を感じるほどに一定。この調子で、何処までも続いていると確信させた。
地上を目指すのであれば、反対側へと行くべきだったかも知れない。そうは思えども、しかしシェフィル達と共に落ちてきた岩によって、今進んでいる道の反対側の塞がっていた。二人で掘り起こすには何十時間も掛かるだろうし、掘ったところで正しい道があるとは限らない。
それに今は地下深くへと向かっているが、最後までそうとは限らない。この道が『何故』地下へと向かっているか分からない以上、何処かで地上へと傾きが切り替わる可能性もある。
……合理的に考えれば、不安を抱くにはまだ早い。しかし人間の感情は非合理なものだ。
「ね、ねぇ……なんか、この道、進んで良かったのかしら……?」
非合理なアイシャは、この状況に不安感を抱いているようだった。或いは自分が感じたものを言語化出来ず、故に理性的に分析する事が出来なかったのかも知れない。
一層強く握ってくる手に少なからずどぎまぎしつつ、アイシャを落ち着かせるためシェフィルは自分が感知した情報について話す。
「ど、どうやらこの道は僅かにですが傾いていて、地下へと向かっているようですね。多分それが不安の原因かと」
「えっ!? この道地下に進んでるの!? も、戻っ……ても、道がないのよね……」
「ええ。ですからこの先を進むしかありません。まぁ、まだ十分しか歩いてませんし、この先どうなっているか分からない以上、気にしても仕方ありませんよ」
シェフィルの意見に、恐らく納得はしていないのだろう。アイシャは未だ不安そうな顔をしている。
しかし合理的に考えればその通りだというのは分かったのか、アイシャはこくりと頷いた。ほんの少し不安も晴れたのか、繋いでいる手の力が緩む。
その事に少なからず『惜しさ』を感じつつ、シェフィルは淡々と前に進む。
……厳密にはほんの少し歩を早めた。
何故ならシェフィルは不安を抱いていた。ただし「この道が何処に続いているのか」等のような、考えても仕方のない非合理な理由からではない。アイシャと手を繋いでいる間に起きる体調不良に対しても、不快感や不安は感じていない。
シェフィルが気にしているのは、もっと具体的な危険。遭遇すれば直ちに命を脅かされるシチュエーション――――
なんらかの敵対的生命体に出会う可能性だ。
「(このままだと後退出来ませんね)」
ここまでの道のりは、傾きや直角の曲がり道はあれど、全て一本道だった。この状況で危険な生物と鉢合わせた場合、逃げようにも来た道を戻るしかない。だが分かれ道がないので、曲がって翻弄する事は不可能。しかもシェフィル達と共に落ちてきた岩によって、道は途中で塞がっている有り様だ。
相手が諦めてくれれば良いが、そうならなければ行き止まりで追い込まれてしまう。仮に諦めてくれても、進む先にその危険生物が居座るだけで、前に進めなくなってしまう。未だ脱出口はおろか、食べ物や寝床も見付けていない。先に進めなければ、いずれ飢えによりシェフィル達の命は潰えるだろう。
つまり敵と出会った場合、現時点ではどれだけ危険でも戦うしかない。厳密に言えば、シェフィル達が今いる道は幅五十メートルもあるので、大きく迂回するという手もある。しかし大岩どころかトゲトゲボーすらないこの道では、迂回する姿は丸見えだ。おまけに数百メートルもの直線が続くので、視認もしやすい。相手がその気になれば、難なく追跡する事が出来る。
襲う気満々の相手との戦闘は、回避不可能と考えた方が良い。どうにか出来る程度の敵であれば良いが、桁違いの実力を持つ存在だったなら……
「(腕の一本で済めば良い方ですかね。片腕が残っていればアイシャは抱えていけますし)」
いざとなれば何を切り捨てるか。その優先順位を定める。
このタイミングでそれを考えておいたのは、結果的にだが良かった。
考えが纏まったところで、自分達が向かおうとしていた先からたくさんの『気配』がやってきたのだから。慌ててあれこれ考えるより、遥かに意識を集中させる事が出来る。
「アイシャ。何かが来ます」
「ふぇっ!?」
シェフィルが警鐘を鳴らすと、アイシャはシェフィルの腕にひしっと抱き着く。極めて動き難いが不思議と嬉しくなる自分の気持ちを頭の片隅に追いやりつつ、シェフィルは正面をじっと見据えた。
気配……微かにだが届いている電磁波の存在から、相手の動きや大きさを推定する。
発せられる電磁波の輪郭から予測するに、大きさは一メートル程度だろうか。接近する速度は時速二百キロ前後。この動きが全力疾走とは限らないが、明らかに『急ぎ』の速さだ。明確な目標を定めて移動していると考えて良い。
体長と速さから相手の実力を推測するに、シェフィル自身よりも数段劣る……大きさ相応のものだろう。爪や牙、甲殻などの有無にもよるが、戦闘能力も飛び抜けて高くはあるまい。
勿論毒針のようなものを持っていた場合、実力関係なく死の恐れがあるため油断は禁物だ。しかしそれだって棘などの、如何にもそれっぽい器官を警戒すれば避けられる可能性は高い。危険度は低から中程度と見積もって良いだろう。シェフィルであれば問題なく倒せる。
相手が一体だけであれば、という注釈は必要だが。
「あ、これヤバいです。なんか滅茶苦茶いっぱい来ます」
「え? ……ええええぇえぇええっ!?」
シェフィルが感じ取った気配は無数にあった。
十や二十なら、ちょっとばかり無理をすれば切り抜けられたかも知れない。だがどうやらそんなものではないらしい。百か二百かそれ以上か……
いくらなんでも多過ぎる。しかも適度に分散していて、道幅いっぱいに広がっているようだ。これでは迂回して回避するのは困難。だが来た道を戻っても行き止まり。
取るべき対応は二つ。無理やり前に進んで強行突破するか、静かにこの大群をやり過ごすか。どちらの選択をすべきか判断するには、まだ情報が足りない。
「アイシャ、覚悟を決めましょう。まずは刺激しないよう心掛けつつ、相手の様子を観察です。危険な生物とは限りませんから」
「そ、そそ、そうよね! 危険とは限らないわよね!」
アイシャは自分自身を奮い立たせるように、強い言葉でそう叫ぶ。
そう、危険とは限らない。だが安全とも限らない。危険でない相手を刺激して怒らせるのも、危険な相手をぼんやり眺めるのも、どちらも命を失うミスだ。
自分の命を守るため、そしてアイシャの命を奪わせないため、シェフィルは正面を睨み付けるように観察。
果たして相手はこちらを認識しているのか。シェフィルとの距離が縮まっても移動速度は変わらず、ついにその生物は視認出来る距離まで迫った。
「ひぃっ!?」
アイシャにも見えたらしく、彼女は怯えきった悲鳴を上げた。そしてシェフィルの背後に隠れてしまう。シェフィルはアイシャを隠すように堂々と立ちながら、件の生物を見る。
その生物は、予測通り体長一メートル前後の大きさをしていた。
しかしその身体は極めて扁平で、厚さは十センチほどしかない。見た目の肉質はぶよぶよとしており、蛆虫に似たもの。薄っすらとだが体節構造が確認出来る。腹部末端は丸みを帯びており、パッと見ではあるが毒針などの危険な器官は見られない。
頭部には四つの目があり(全て顔の正面側に付いている)、いずれも複眼。そして口器は鋭くて細い、ナイフのような形をした二つの顎で作られている。顎は左右に動き、咀嚼よりも切り裂いて飲み込むのに適した構造だ。触角は生えていないため、恐らく視力に頼って周囲を認識している。
脚も特徴的だ。まるで触手のような、細く柔軟な脚を何十本と持っている。足の長さは二十センチほど。これを高速で、蠢くように動かして身体を運ぶ。足先には吸盤があるのか、壁や天井にも難なく張り付き、地面と変わらない速さで駆けていく。
アイシャは悲鳴を上げたが、シェフィルからすれば然程不気味とは思えない。顎や体節の構造が地上にいる生物と似ており、恐らく地上の生物と『繋がり』のある種だと感じたからだ。つまり基本的な生理機能や情報処理速度、肉体を動かすメカニズムは地上の生物と似ている可能性が高い。
だとすればシェフィルが予測した相手の身体能力は、実物と大きな誤差は生じていないだろう。予測に誤差がなければ、当初の見込みも当たっていると考えて良い筈だ。
よって予想通り、どうにもならない戦力差なのも確定した。
「(これは良くないですね)」
相手が地面を這うだけの存在なら、踏み台にして跳び越すといった真似も出来たかも知れない。
だが現れた生物……暫定的にチカウゾと名付ける……は大群だ。ぴょんっと一回跳んだぐらいでは避けきれない。半端に踏み付けても、反撃や転倒のリスクが生じるだけ。なら真正面から受け止めるべきか? それよりも道の隅に身を寄せた方が安全か。
そもそもこの生物は危険なのか? 棘や爪などは見られないが、顎は鋭く攻撃的。複数の目があり、それらの目がいずれも顔の正面にあるという事は、立体視を得意としている筈だ。食性は恐らく逃げ回る動物を積極的に喰らう、捕食者と考えるのが妥当。
されど身体の大きさはシェフィルよりも劣る。ならば襲われない? しかし相手は集団。この戦力差ならば数の暴力で押し潰せる筈だ。とはいえ生物は基本自分の命が大切なのだから、結果的に狩れるとしても危険な相手にわざわざ挑むとは限らない。大体本当に群れなのか。血縁関係も何もない、ただの集団行動という可能性もある。
分からないから、一旦様子見。
日和った訳ではない。下手に敵対し、総力戦となれば勝ち目はほぼない。可能な限り戦闘を避けるため、例え『先手』というアドバンテージを捨ててでもこちらから攻撃する方がリスクと判断したからだ。
行動の指針をある程度決めたところで、天井に張り付いて移動していた個体がシェフィル達の頭上に迫る。チカウゾの動きの一挙手一投足を見逃さないよう、極限まで集中力を高めて凝視。
対してチカウゾは、まるでこちらなど見えていないかのように素通りした。
「……おや?」
素通りされた事に気付いたシェフィルは、地面を走るチカウゾも攻撃せずに傍観。
地面にいるチカウゾ達も、シェフィル達には見向きもせず通り過ぎた。そのままではぶつかる個体も、まるでシェフィル達をただの障害物と認識しているかのように避けていく。
どうやら敵対的な生物ではないらしい。加えてシェフィルを避ける時、隣にいる個体を押し退けながら迂回していたので、仲間同士の連携もなさそうだ。
だとすれば、一匹二匹殺しても『敵対』する事はないだろう。
「……お腹が空いてきましたね」
「へ? あ、ちょ」
シェフィルが何を目論んでいるか察したアイシャが、止めようとしてくる。しかしシェフィルはその言葉を聞かず。
チカウゾの群れが粗方通り過ぎ、最後尾をいそいそと走っていた個体を一匹、シェフィルは片手で捕まえようとした。
するとどうした事か。チカウゾはシェフィルの手を避けもせず、あっさりと捕まった。おまけに掴んだ後も抵抗する素振りすらなく、しゃかしゃかと脚を動かすばかり。自分が捕まっている事どころか、前進していない事にさえも気付いていないように見える。
「おー、見てくださいアイシャ。こんな簡単に捕まえられましたよ」
「ええええ……」
シェフィルは満面の笑みを浮かべながら、捕まえたチカウゾをアイシャに見せ付ける。アイシャは驚いたように目を見開き、困惑を露わにしていた。
実のところ、シェフィルも驚いている。
大人しい生物というのは、地上でも普通に見られた。ウゾウゾなどは正にその典型で、捕まった際の抵抗も身体をくねくね動かす程度で極めて弱々しい。ほぼ無駄な抵抗で終わり、そのまま食べられてしまう。
しかしウゾウゾでも抵抗自体はしている。咥え方が甘かったり、或いはライバルと餌の奪い合いをしている時に少し身体を動かせば、口から落ちて生き残る可能性がほんの少し上がるからだ。限りなくゼロに近い確率だが、生存に繋がる可能性がある以上やらない理由はない。
ところがチカウゾはあまりにも簡単に捕まえられた。今だって走るような動きを繰り返すだけで、何一つ抵抗してこない。
「(なんでこんな簡単に捕まるのでしょう? こんなんじゃ天敵に襲われたらあっという間に食べられてしまうと思うのですが)」
考えようとするシェフィルだったが、その思考はすぐに打ち切る。
新たな気配が、またこちらにやってきたのだ。それも先のチカウゾよりも遥かに大きい、強大な存在だと思しきものが。
シェフィルが警戒心を強めたところで、アイシャも再びシェフィルの後ろに隠れるように移動。アイシャもなんとなく嫌なものを感じたのだろう。シェフィルも片腕を広げ、アイシャを自分の後ろへと移す。何かあっても、自分の腕がそれを受け止められるように。
しばらくその場で構えていると、やはり道の奥から新たな生物が現れた。
今度は、アイシャだけでなくシェフィルも思わず声を漏らしそうになる。何故ならその生物は、母の一族に似た外見をしていたのだから。
とはいえ瓜二つというほど似ている訳でもない。
まず体長。母の一族は十メートル近い体躯を持つが、現れた生物は高さ五メートルほどと母達よりもかなり小さい。特徴的である頭の『傘』も、母達より随分と小ぶりだ。傘の形は母達よりも平たく、縁に(鋭くはなさそうだが)ギザギザの切れ目がある。
しかし垂直に伸びている胴体や、根本から生える無数の触手、そして宇宙よりも黒い体色など、共通点も多い。同種ではなさそうだが……母の一族と共通の祖先から分岐した、或いは祖先種という可能性が高そうだ。
仮に、ハハモドキと呼ぶ事にした。もしも本当にハハモドキと母の一族が分類上近しいとすれば、戦闘能力も母達と同等の水準かも知れない。
襲われたなら一溜まりもない。抵抗する間もなく、一瞬で消し飛ばされるだろう。警戒しつつ万が一にも敵対的と受け取られないために、あまり敵愾心を見せないようシェフィルは心掛けていたが……そんなこちらの気持ちなど汲みもしないように、ハハモドキは横を素通りしていく。
脅威は、呆気なく通り過ぎた。
「うーむ。またこちらの事を無視しましたね」
「……そうね。まるでこちらの姿が見えてないみたい」
「ちょっと、調べてみましょうか」
疑念が確信に変わりつつある中、シェフィルは更なる『調査』を行うべく先へと進む。
チカウゾ達と出会ったあの場所が何かしらの境目だったのか。これ以降、無数の生き物達の姿が見えるようになった。
例えば天井を這う軟体動物。楕円形の形をした体躯は扁平で、足もないからか動きが鈍い。身体に纏う粘液で張り付いているようだ。移動中はまるで自らが張り付いている天井を舐めるかのように、頭部の先をもごもごと動かしている。
丸い身体から六本の足を生やした生物もいた。体長五十センチほどしかないが、足は三メートル近い長さを持つ。この長い足をしゃかしゃかと動かし、シェフィルよりも速く駆け抜けていく。身体に口や触角は見られず、何を食べているのか、どんな生態なのかはよく分からない。
他にも様々な、体長数センチ程度の個体や液体と見紛うほどの軟体生物など、何十種もの生物の姿が見られた。個体数も極めて豊富で、彼等が壁や天井を歩かなければ何度か道が詰まっていただろう。極めて豊かな生物相が出来ているようだ。
そして種によって形や身体能力には多様性があったが、一つ、共通する特徴が見られた。
「なんか、全然私達に襲い掛からないわね……?」
それはシェフィル達の姿を見ても、尽く無視していく事である。
「ですねー。なんででしょう?」
襲われないのは好都合だが、しかし理由が分からない。
原因不明の安全ほど頼りないものもない。なのでシェフィルは頭を働かせるも、とんと答えは浮かばず。
こちらの事が見えていない訳でないのは、チカウゾ達が自分達を避けるように動いた事からも明らかだ。他の生物達にしても、シェフィル達を一瞥すらしないが、行く先を塞いでいればきちんと迂回する。少なくとも認知はしている筈だが、まるで興味を示さない。
それどころか敵意や警戒心さえも見せなかった。シェフィルが今も掴んでいるチカウゾも、脚を動かす事すら止め、逃げるために抵抗する素振りがない。もしもこの生物が言葉を話したら、「何か用でもあるの?」と言わんばかりの無気力ぶりだ。自分より大きな生物に捕まる状況を、危険だと一切認識していない様子だ。
警戒心や捕食への積極性は、種によって大きく違う。しかしそれを差し引いても、この場所に生息する生物はあまりにも攻撃性がなさ過ぎる。こんな生物は、シェフィルには見覚えがなかった。
「理由はさっぱり分かりません。地上にはこんな無抵抗な生き物なんていませんでしたし……アイシャ。地球の生き物ではどうでしたか?」
「うーん……なんか大昔にいた生き物の中には、全然人間を恐れなくて、だから簡単に乱獲されて絶滅したとか、絶滅寸前まで追いやられたって種が幾つかいたけど……」
「ほう、そんな生き物がいたのですか。敵を前にして逃げないなら絶滅して当然だと思いますが、人間に見付かるまで何故生きてこれたのです?」
「天敵のいない場所だったから、って聞いた事があるわ」
アイシャの説明を聞き、成程、とシェフィルは思う。
天敵がいない環境において、敵に対する警戒心は必要だろうか?
遥か未来を予測して言うならば、必要だろう。平和というのは何時までも続くものではない。突然変異で出現した新種、他地域から移動してきた外来種など、様々な脅威により平穏は崩れ去る。
だが生物進化は刹那的な適応だ。今の環境に対して有利なものが生き残り、より多くの子孫を残す。
敵への警戒心を持つ事は、感覚器や筋力の維持に多大な資源を費やし、それを機能させるために多くのエネルギーを浪費する。もしも敵がいない環境でこれらの資源やエネルギーを使っても、全て無駄だ。なら敵への備えを全て捨て去り、一体でも多くの子を生んだ方が良い。生まれた子が敵に喰われる事がないのだから、ひたすら多くの子を生むのが繁栄する上では合理的だ。身体への負担、情報処理系の摩耗なども考慮すれば、長期的な生存率でも有利になるだろう。
つまり捕食者がいないのであれば、警戒心を捨て去ってしまう方がより生存能力が高くなるのだ。その結果、遥か未来にやってくる天敵に対応出来ず絶滅するとしても関係ない。今この瞬間の競争相手は同じ餌を食べる同種のみであり、同種間の生存競争を勝ち抜いたものが後世に残るのだから。
天敵がいないのであれば、この地に暮らす生物達が逃げないのも頷ける。
……天敵が、いないのであれば。
「(それはそれでおかしい話なのですが)」
十分かそこらの道のりで、シェフィル達は多種多様な生物と遭遇した。
生物数がこれだけ豊富なら、捕食者として生きる余裕は十分にある。生物の進化は、資源を利用する形で発展しやすい。『ライバル』がいないなら尚更だ。環境も、やや寒いとはいえそこまで悪くない。他の生き物を喰い殺す生き方をしても、なんら問題はない筈だ。
捕食者が誕生する予知は十分ある。なのに何故、この場所には捕食者がいない? 真新しい環境なら新種がまだ誕生していないだけかも知れないが、ちょっと歩くだけで片手では足りないほど多種多様な生物種を確認出来た。かなり長い時間と世代を掛けて進化してきたと考えるのが自然。
どれだけ考えても疑問と違和感は尽きない。
しかしシェフィルは一旦思考を打ち切った。疑問が尽きない事を延々と思考したところで、エネルギーの浪費にしかなならない。それに生態系の謎は確かに知っておくべき事柄ではあるものの、うんうん唸りながら今すぐ答えを絞り出す必要はない。
今、考えるべき最優先事項は自分達が生き延びる事。そしてそのための方法は、自分の手がしかと掴んでいる。
「ま、なんであれこの辺りの生き物に危険はなさそうですね。こいつ、此処で食べちゃいましょうか。天敵がいないという仮定が正しければ、毒もないでしょうし」
「そうね……ああ、うん、ついにそうねって一言目に言うようになってしまった。慣れって怖いわ……」
シェフィルの提案にアイシャは同意。同意した後に何故か項垂れたが、シェフィルに乙女の繊細な心の揺れ動きは分からない。
分からないままでも、上げたアイシャの顔には明るい笑みが浮かんでいるのだ。取り立てて気にする必要はあるまい。
この地で行う初めての食事を、二人は心底楽しみにする。
――――それが後に『危機』をもたらす行為だと、知りもせずに。




