侵略的祖先種04
トゲトゲボーの森を、シェフィルは素手で掻き分けながら前へと進む。
全方位を埋め尽くすトゲトゲボーによって、視界はないも同然。掻き分けなければ、一メートルどころか五十センチ先も見通せない。少しでも前が見えるよう、両手を前に突き出すようにしながらトゲトゲボーを押し退けていく。
アカウゾの体組織を塗りたくったお陰で、そっと触れる分にはトゲトゲボーの棘も刺さらない。それでもチクチクと、掌に微かな痛みを感じるが。退かしきれなかったトゲトゲボーが足や顔をなぞり、そこからも痛みが走る。
塗りたくったアカウゾ体組織は、決して永続するものではない。トゲトゲボーと擦れた部分は剥がれ、時間経過でも劣化していく。そうして効果が薄れると、身体に走る痛みが強くなる。引き際を判断するためにも、この痛みは常に意識しておかねばならない。
加えて猛獣の気配を取りこぼさないよう一時も気を緩めない。十数センチ間隔で密集するトゲトゲボーによってシェフィルの姿は覆い隠されているが、獲物を狙う捕食者も同じなのだ。
シェフィルにとって、これらは慣れた行いだ。だからどんどん先に進む事も出来る。出来るが、やる訳にはいかない。
今日は後ろから、アイシャが付いてきているのだから。
「う、うう……」
小さく呻きながら、アイシャはシェフィルの後ろを歩く。シェフィルがトゲトゲボーを押し広げて作った道を通っているのだから、本来ならシェフィルより歩みは速くて当然なのだが……実際にはかなり遅い。シェフィルが気を遣わないと、すぐにでも置いてきぼりになりそうなぐらい。
理由は分かっている。アイシャはビクビクしていて、時折足が止まっているからだ。恐らくトゲトゲボーと触れた時の、チクチクする感覚に怯んでいるのだろう。
シェフィルはアカウゾの体液が持つ効果をよく知っていて、尚且つ切り傷なんて怖くない。だからどんどん進んでいける。対してアイシャはそれを一々怖がっている。これでは歩みが遅くなるのも当然だ。
情けない、と言うつもりはない。幼い頃のシェフィルも似たような感じだった。この星に来たばかりのアイシャは、経験という意味では幼い頃のシェフィルと同じ。知らない、慣れていない事を馬鹿にするのは、過去の自分を侮辱するのに等しい行いである。
幸い、今の時期は生き物の数が豊富だ。元々家の近くで食べ物集めを済ませようとしていたので、早足で進む必要はない。シェフィルが歩くスピードを大きく落とすと、それに気付いたアイシャは安堵したように息を吐いた。
「さてと。この辺りで食べ物を探すとしましょうか」
「う、うん。分かった。えっと……」
「とりあえず、今回は私が捕まえていきます。アイシャは、何か食べられそうな奴がいたら教えてください。勝手に捕まえるのは駄目ですよ? 触るのすら危ない奴もいますから」
注意事項を伝えると、アイシャはこくこくと何度も頷く。危険性については十分理解してくれたようなので、安心してシェフィルは食べ物探しを始めた。
食べ物探しと言っても、やり方はとても簡単。周りにあるトゲトゲボーを力強く揺らすだけ。
しかしたったこれだけで、敵の襲撃と勘違いした何千もの小さな生き物が湧くかの如く飛び出す。
「ぎょわーっ!?」と叫ぶアイシャ。情けない声を聞き流しながら、シェフィルは飛び出してきた生き物達を観察する。数は極めて豊富であり、ぱっと見た限り種類も多様だ。ガサガサと走り出す足音が四方八方から聞こえてくる。足下の地面も微かに蠢き、土壌生物も豊富なのが窺える。
実に多くの命がいる。しかしこの多様な生物の全てが、味を気にしなければ食べられるという訳ではない。
「ひぇぇぇ……あっ。しぇ、シェフィル、この丸い奴、食べられそうじゃない?」
例えばアイシャが見付けた生き物も、そうした食べられない生き物の一種。
怯えながらも、ちゃんとシェフィルの指示を覚えていたらしい。とても偉い! と心の中で褒め称えつつ、シェフィルはアイシャが指差す生き物を見る。
その生き物はトゲトゲボーに張り付くように停まっていた。直径は七センチほどで、形は凸凹とした球形をしている。体色は鮮やかな赤色をしており、白いトゲトゲボーの上ではとてもよく目立つ。
見た目の肉質は柔らかで、凹凸や色のグラデーションはさながら弾力のある肉のよう。鮮やかな色合いに理由もなく『食欲』を唆られるのは、人間の本能がこういった色合いのものを好んでいるからか。
基本的にシェフィルは本能に従うタイプだ。しかしこの赤い生き物を欲望に任せて食べるべきでない事は、過去の経験から知っている。
「それはゲリゲリですね。食べない方が良いですよ」
「え? 毒でもあるの……あっ。ゲリゲリって、そういう?」
「はい。食べるとお腹を下します。そもそも不味くて食べられたものではありませんし」
あれは物心が付いたばかりの頃の記憶。母の忠告を無視して、本能の赴くままゲリゲリを食べた事がシェフィルにはあった。
まず、味が酷い。焼けるような苦さと、絡み付くような臭さが舌にこびり付く。唾液で薄める事も出来ず、不味いものに慣れた今のシェフィルでも一時間ぐらいは顔を顰める羽目になるだろう。
そして食べてから数時間後、酷い下痢に見舞われる。
猛烈な腹痛が延々と続き、消化されたものが即座に排泄されていると思うぐらい水っぽい便が出るのだ。それがざっと三十時間程度続く。
ただの下痢、と甘く見てはならない。下痢とは大量の水分を含んだ便であり、即ち本来身体に吸収される筈だった水が垂れ流しとなっている事を意味する。長期間の水分喪失は生命に関わる異常事態。空腹などで体力がない時に見舞われれば、脱水で死んでしまう事もあり得る。
これは大袈裟な話ではない。シェフィルは知らない事だが、下痢による死者というのは、宇宙開拓を始める前の人類にとって無縁なものではなかった。一時は地球全土で毎年五十万人以上の子供が、下痢による脱水で亡くなっていたほどである。貧困国では上下水道の整備も儘ならず、国民は汚染された水を飲まねばならない状況故に生じた悲劇だ。医療体制への投資が不十分で、適切な治療を受けられない環境も死者を増加させた要因である。
シェフィルが暮らす此処惑星シェフィルは、貧困に喘いでいた大昔の人類文明よりも遥かに不衛生。そして何より、此処には『不十分な治療』すらない。身体の不調は自力で治すしかなく、失敗すればそのまま死ぬ。
おまけに腹痛で動けないところを天敵に狙われたら逃げる事さえ儘ならない。シェフィルも母の看病があったから生き残れたが、一人だったらあの頃に死んでいただろう。
「なのでこれを食べるのは好ましくありません。あ、料理で食べられるように出来るなら話は別ですよ! 確かそういう事も出来るんですよね?」
「今回は無理。そういう料理もあるけど、それは経験則の積み重ねで、こうすれば食べられるって学んだ結果よ。食べられないものを食べられるように調理するには、たくさんの『失敗』が必要ね」
ひょっとすると料理でどうにかならないか、という気持ちで尋ねてもみたが……アイシャからの返事は否定的なもの。
失敗とはつまり、積み重ねた亡骸の事だろう。過酷な自然界に挑むのだから、相応の失敗があるのは頷ける。
頼れる母がいる時や餓死寸前、或いは自分の遺伝子を引き継いだ子供がいるならばまだしも、今この時、二人で危険な賭けをする必要はない。
「じゃあ、諦めましょう」
「はーい」
すぐに気持ちを切り替えて、シェフィルは再び食べ物探しを行う。
とはいえ、中々良い食べ物は見付からない。
例えばトゲトゲボーの間を行き交う、大きな虫も食べられない。この虫は体長六センチを誇り、ぶよぶよとしたイモムシ型の身体から生やした四枚の肉質突起状を左右に広げている。脚は生えておらず、厚みがあって身体よりも硬そうな頭部には触角が生えているだけ。パッと見ただけでは目どころか口も見られない。
この生き物をシェフィルはプニムシと呼んでいる。母によるとウゾウゾに匹敵する繁栄を遂げた種族であり、外見から区別は出来ないが、この地だけで何百もの種が生息しているらしい。個体数も非常に多く、春以降見掛けない時はないと言っても過言ではない。天敵も多いが食べ尽くされる事はなく、それどころか稀に大発生を起こし、惑星の数パーセントの面積を覆う大群が大地を荒らしていく。
最大の特徴は『飛行能力』がある事。大気が存在しない惑星シェフィルでは、羽ばたいたところで推力は生まれない。つまり一時的な跳躍以外では空を飛べない環境だ。ところがプニムシの仲間だけは、どういう訳か空を飛べる。母曰く統一変換理論を応用したものらしいが、統一変換理論なるものがシェフィルには分からない。
つまりよく分からない理屈で空を飛ぶ生き物という事だ。トゲトゲボーが生えてきた頃に姿が見られるようになるが、口が見当たらないため何を食べているのかも不明。謎多き生物である。
プニムシは飛び回る生き物だが、その動きは緩慢なため捕まえるのは難しくない。しかしその身に含まれているのは、嘔吐を引き起こす猛毒だ。少量でも胃がひっくり返るような気持ち悪さを感じ、それまでに食べたもの全てを吐き出す羽目になる。プニムシは再生力に優れた生物でもあり、吐き出された肉片からでも再生可能。そうやって脱出し、敵から生き延びるという訳だ。
プニムシは資源量が豊富なため、これを食べられるよう進化した生物は多い。しかし人間であるシェフィルにそのための能力はなく、プニムシは食用に適さない生物である。
他には体長八十センチほどの生物・ミビビが発見出来た。ミビビは太く短い四足を持つ生き物で、頭から尾の先まで細く柔らかな毛で覆われている。背中には三列の小さな背ビレがあり(これが『ミビビ』の由来である)、頭は丸くて可愛らしい。主食はトゲトゲボー、その中でも比較的柔らかい先端部分だが、身体が小さいので届かない。そこで太い足を使って押し倒し、柔らかな先端だけを食べるという習性を持つ。
ミビビは見た目や食性通り大人しく、仕留めるのは難しくない。だがその身には吐き気と頭痛を引き起こす猛毒を持つ。この毒性は食物であるトゲトゲボーから摂取し、濃縮したもの。少量であれば悶え苦しむだけで済むが、満腹になるまで食べれば……吐き気は自律神経の麻痺に、頭痛は脳内神経伝達の乱れへと変わる。これらは生命活動に直結する働きであり、此処が狂えば死に至る。決して食べてはいけない種だ。
他には食べると血圧が急上昇して目や鼻から出血を伴う毒を持つ生物や、ピンポイントに目だけに毒性が集まり一時的に(目の再生が完了するまでの間)失明する種もいた。また一滴でも液状体組織に触れれば肌が爛れるほどの刺激性を持つ種、神経を麻痺させて心停止を引き起こす種、血管を凝縮させて血流を止めてしまう毒を持つ種……
「って、毒持ちの生き物ばかりじゃない!? なんでこんな急に毒だらけになってんのよ!」
等とそれぞれの種が持つ毒性について話していたところ、アイシャから感情的なツッコミが入った。
実際冬の直前や春になったばかりの頃は、危険な毒を持つ生物はあまりいなかった。精々メンメンを餌としている、有毒大型生物ぐらいなものだろう。
しかし現在、この地に生息する生物の大半は毒持ちだ。春になってからまだ五百時間(暦換算で二十日程度)程度しか経っていないうちにこの変様。この星についてまだまだ知らない事の多いアイシャからすれば、いきなり周りの生き物が毒だらけになったように感じたかも知れない。
されど長くこの星で生きてきたシェフィルにとっては普段通りの変化であり、何より説明可能な、理屈のある『分かりやすい』事象だ。
「何故か、と言えば生き物の数が本格的に増えてきたからですね。ある程度天敵が増えると、単純に繁殖能力が優れるよりも、毒を持っている方が生き残りで有利になります」
要はウゾウゾ・アカウゾの関係と、同じ理屈である。毒を作れば天敵からの捕食を避けやすくなり、毒を持たない生物よりも生き残りやすい。生存競争を繰り広げれば、やがて殆どが有毒生物に置き換わる――――
理屈としてはこれで正しい。今目の当たりにしているのはその結果だ。シェフィルも幾度となく見てきた光景である。
……そう何度も見てきた。だからこそ覚える違和感もある。
早過ぎる、と。
「(うーん。今ぐらいの時期なら、毒なしの生物も三割ぐらい見られる筈なのですが)」
生存競争というのは、簡単に勝敗が決するものではない。どちらが『有利』かというのはあるが、それは勝利を保証するものではないからだ。
不利だからといって、必ずしも淘汰されるとは限らない。故に生存競争による生物相の推移は、極めてゆっくりと進行していく。減り方はあくまでも徐々に、何世代も掛けて変化していく。
それにウゾウゾのように、大した毒もないのに繁殖力だけで優勢を保つ種もいる。また天敵が毒への耐性を持てば、毒性よりも繁殖力の方が重要になる。毒を持つだけで勝てるほど、生存競争は甘くないのだ。
だが実際、今この地の生物は殆ど猛毒の種ばかりになっている。あまりにも変化が急だ。
何かがおかしい。とはいえ、では何がおかしいかと問われると答えに窮する。この状況を生み出す原因は幾つか思い付くが、推測でしかない。
「ん? シェフィルー。あれ、なんか動物が倒れてる感じじゃない?」
「はい?」
理由を求めて考え込みそうになっていたシェフィルだったが、アイシャから声を掛けられて我を取り戻す。
そしてアイシャが指差した方角を、特段疑問にも思わず見た。
――――シェフィルは、考え事をしている間も周囲の警戒は怠っていない。猛獣の気配があれば即座に感じ取り、自ら思索を打ち切って臨戦態勢に移行しただろう。
しかし思考にリソースを割いていた事は変わりない。故にアイシャの言葉の意味を、ほんの一瞬だが考えるのが遅くなった。
もしも言われた瞬間に考えていれば、間違いなく違和感を抱いた。
周りで茂るトゲトゲボーの高さは二メートル超え。視界は完全に塞がっていて、五十センチ先すらろくに見えない。だから小さな生き物なら、余程近くでなければ発見すら困難である。
ところが、アイシャが『あれ』という言い方をするぐらい離れた位置に、確かに何かがいた。何かがいると分かってしまった。
それはその何かが、途方もなく大きい事を意味していた。無数のトゲトゲボーでも覆い隠せず、僅かな隙間から姿が見え隠れする大きさだ。一メートルや二メートルなんてものではない。
この意味を理解して、シェフィルは大きく目を見開いた。
「……いや、まさかそんな」
「シェフィル? どうしたの?」
「……………アイシャ。慎重に近付きましょう」
真剣な面持ちのシェフィルを見て、アイシャは息を飲みつつこくりと頷く。
シェフィルはゆっくりと前進。アイシャはシェフィルが着ている毛皮の裾を掴みながら、一緒に付いてくる。
二人揃って件の生物へと歩み寄る。
近付く中でシェフィルは確信した。そこに倒れている生物が、この地に棲息する生物の中で『最大』の獣であると。そしてアイシャも、説明せずとも理解したに違いない。何しろこの獣の身体は、全長十メートルを超えているのだから。ここまで巨大な生命体は、アイシャにとっては母以来の遭遇だ。
しかもアイシャからすれば母以外で見た、母達の一族よりも遥かに巨大な生命体。驚きからアイシャがシェフィルにしがみついてくるのも、仕方ないとシェフィルは思う。
とはいえ大きさは問題ではない。現にこの大きさの生物は、この地に生息している種の一つなのだから。
「……死んでいます」
問題なのは、その巨大な獣が死んでいる事。
そして死因が、半分砕かれた頭や引き摺り出された内臓などから、明らかに何かに襲われた結果である事だ――――




