絶対凍結気候10
家である横穴から飛び出したシェフィルの身に、強烈な寒さが襲い掛かる。
風はない。大気の存在しないこの星に、荒れ狂う暴風は生じないのだ。しかし静かな世界だからこそ、急速に失われていく身体の熱量を実感する事が出来た。
熱量の低下は体内エネルギー量の低下、即ち生命活動の低下を意味する。
冬の寒さは間違いなくピーク時より和らいでいる。だが、今のシェフィルを襲う熱量低下は、ピーク時を遥かに上回っていた。そしてその原因に、シェフィルは心当たりがある。
服一枚着ていない、完全無欠の全裸だからだ。
「(うーん。流石にここまではしなくても良かったですかねぇ?)」
どんどん冷えていく身体を認識し、シェフィルは今更したって意味がない後悔を覚える。
何故シェフィルが裸なのかと言えば、それはアイシャに自分の服ことボロの毛皮を着せたからだ。惑星シェフィルによって直接熱エネルギーを吸い取られる以上、どれだけ防寒性に優れた服でも保温効果は一切ない。しかしシェフィルが着ていた毛皮には、自ら『発熱』する性質があった。多少なりと熱を生み出せば、少しは吸収される量もマシになる。だから温かい、という訳だ。
今までアイシャと一緒に纏っていた毛皮も同じ素材で出来ている。二枚着せれば熱量も二倍だ。とはいえ緩和される寒さは微々たるもので、果たしてどれだけ効果があるかは分からない。むしろ食べ物を集める自分の体温を優先すれば、俊敏かつ的確に動き回る事が出来、結果的に迅速かつ多くの食べ物を得られたのではないか? とも思い始める。
どうも自分は未だ冷静になりきっていないようだ。シェフィルはぱんぱんと頬を二回叩いて気持ちを切り替える。今から家こと丘に開けた横穴に戻るのは時間の無駄。割り切って行動を起こすしかない。
「(兎に角、何か食べ物を探しましょう)」
シェフィルは周囲を見回す。
ピークを超えたとはいえ、まだまだ冬の勢いは強い。電磁波はほぼ吸い尽くされており、周囲は濃密な暗闇に閉ざされている。薄っすらとなら兎も角、ハッキリと視認出来るのは半径一メートルもない有り様だ。
おまけに冬の前半に起きていた嵐の影響で、地表面のあちこちが崩壊している。砕けた石やらなんやらがあちこちに散らばり、ごちゃごちゃしていて足下の様子が分かり難い。数センチぐらいの生き物が地面に転がっていても、油断すれば簡単に見逃すだろう。広範囲を見渡そうとしても同じ事になる。
正確かつ見落としなく見えるのは、精々三歩先までか。
出来れば素早く広範囲を探索したいところだが、求めているもの……冬の寒さにやられて凍結している生き物の数は決して多くない筈。確かに惑星シェフィルの冬は過酷であるし、今回の冬は不意打ち気味に訪れた。しかしこの星の生き物は、過去に例がない寒さも、準備不足で迎えた冬も、全て乗り越えてきたモノの末裔である。どんなに苛烈な冬だろうと生き残る力は備わっていて、よって地表面で凍り付いているのは少数派と考えるべきだ。
たくさんあるなら、多少の見落としを許容してでも広範囲を探した方が多く得られるだろう。だが少ししかないなら、一度の見逃しが大きな損失となる。ここは慎重に歩くべきと判断、シェフィルは一歩一歩踏み締めるように歩く。目だけではなく足先や肌感覚など、あらゆる感覚器を働かせて地面を探す。
全力で地面を観測すれば、直径一センチしかない塊を発見する事さえシェフィルには造作もなかった。
「っ!」
殆ど反射的な速さで、シェフィルは裸足で触れたそれを掴み、口に入れる。
ただし飲み込まない。もしかしたら毒のある生物かも知れないからだ。空腹感は限界に近いが、数学的思考により優先順位を設定。まずは安全性を確かめる。
最初に始めたのは、舌先で転がして相手の種類を特定する事。ウゾウゾなどあり触れた(そして良く似た種が非常に多い)生物だと厄介だが、今回は独特な形をしていたのですぐに分かった。
これは六本の足で大地を歩き回る虫・スィーだ。すぃ〜っと移動する事からシェフィルがそう名付けた。足先が平たくなっているのが特徴で、母によると『分子結合コントロール』なる方法でどんな場所でも滑るように動けるらしい。垂直の壁も登れる、中々凄い生き物である。
スィーの身体は丸くて硬い。普段なら噛み砕いて食べるところだが、今のシェフィルは身体が酷い飢餓状態にある。ほんの少しの消耗が致命的となりかねない。最終的には栄養となるにしても、今食べるものとしては好ましくないと判断。飲み込みたがる本能を抑え、ぺっと吐き出す。
「(他に何かありませんかね……むっ)」
次に見付けたのは、体長五センチほどの何か。これもまたすぐに掴み、口に放り込む。
触った時の手触り、それと口に含んだ質感と大きさ……複合的に考え、シェフィルはこれが自らがヤププと名付けた生物と気付く。
ヤププは普段地中に潜み、安全な時だけ地表面に姿を見せる生物だ。姿を見せる理由は、地上で産卵を行うためらしい。外見は太く長いもので、表面に白い毛をびっしりと生やした……例えるならば白い『ウンコ』みたいなもの。生える時は地面から直立しているので良く目立つが、危険を察するとすぐ地中に逃げてしまうため捕まえるのは困難だ。
しかし逃げる事に特化した身体は、防御力に乏しい。つまり消化に優しいという事だ。更に素早い動きを可能とする身には、多くの発達した筋肉、その筋肉が伸縮する際の摩擦で身体が傷付かないよう豊富なコラーゲンが存在している。筋肉は良質なタンパク質で出来ており、コラーゲンは端的に言うと脂肪分。高カロリーかつ高タンパクの、理想的な食べ物である。ついでに言うとウゾウゾよりは幾分美味でもある。
ヤププはかなり早い時期に冬支度を終わらせ、地中深くに潜ってしまう種。だからこの個体は冬に間に合わなかったのではなく、嵐による岩盤の崩壊に巻き込まれ、地上に放り出されてしまったのだろう。なんとも不幸な個体だ。
シェフィルはこのヤププを即座に噛み砕く。食べられると分かった瞬間、無意識に行動を起こしていた。
弱りきったアイシャに与えるなら、ヤププが最適だったというのに。
「……本能には逆らえませんか」
アイシャを助けたいと思いながら、いざ食べ物を前にしたら欲望に従ってしまう。頭と身体の意識がズレているようだ。
そして頭よりも、身体を突き動かす本能の方が正しい。
ヤププから得たエネルギーが身体に満ちた事で、鈍っていた五感の働きが少し良くなったのである。研ぎ澄まされた感覚はより広い範囲を捕捉する。広くなったといっても精々一歩分程度の拡大だが、三歩分の探知範囲が四歩分になるのだから大きな変化だ。
効果は早速得られた。少し歩いた先で、全長一センチ程度の小さなウゾウゾが落ちていたのを見付けたのである。ウゾウゾは冬が来る直前まで地表面付近にいる種。今回の急な冬の到来に、大きな個体は素早く地中深くに移動出来たが……幼く小さな個体は間に合わず。寒さによって凍結した後、嵐によって大地が捲れ上がり、地上に出てしまったといったところか。
哀れな個体を拾い上げて、一瞬の躊躇いもなく食べる。皮が硬いのでウゾウゾは消化の負担が大きいものの、ヤププを食べて回復した今のシェフィルならば問題はない。これも糧にして、更に体力を回復する。
またしばらく歩くと、今度もまたウゾウゾを見付けた。ウゾウゾは個体数が多く、それ故に嵐に巻き込まれる個体も多い。とはいえ此度見付けた、最大級のサイズである体長二十センチの個体が地上にいるのは稀であるが。大きな個体は力が強いので、冬が訪れてもそそくさと安全な地中深くまで潜れるというのに。
これは幸いと大型のウゾウゾを貪り食う。豊富なエネルギーを取り込んだら、また次の獲物を探す。食べては歩き、食べては歩き……少しずつ体力を回復させるシェフィル。
しかし、このまま完全復活というのは難しい。
「(そろそろ、身体が重くなってきましたか)」
エネルギーは回復した。しかし『スタミナ』は一層消耗している。足が重たく感じ、身体の動きが鈍くなっていた。
食べ物を消化・吸収した事で多量の酵素を消費した結果だ。酵素はタンパク質で出来おり、新しく作るにはタンパク質(正確にはアミノ酸)が必要となる。されど長い飢餓状態の影響で、シェフィルの身体には余剰タンパク質は全く残っていない。
そこでシェフィルの身体は貴重な食べ物から栄養を吸収するため、筋肉を分解してタンパク質を調達した。結果的に栄養を得て、シェフィルの身体は活力を取り戻したが……体内のタンパク質量はむしろ減っている。今のシェフィルの身体は、まるで虫にでも食い荒らされたかのようにボロボロだった。
この状態はいずれ回復するものだ。生産した酵素によって食べ物は消化され、失った分以上のアミノ酸が体内に取り込まれている。しかし分解した筋肉の再構成には、食べ物から得たアミノ酸が細胞に送られ、無数のアミノ酸からタンパク質を生産し、タンパク質を取り込んだ細胞が分裂して、ようやく筋肉の再生が完了する。つまり少なからず時間が必要という事。
具体的には、一回ぐっすり眠るぐらいか。
肉体は十分な栄養素を手に入れたとして、数学的情報で休息を要求する。本能のまま動く、大半の惑星シェフィルの生物ならばその通りに休息しただろう。シェフィルも身体の要求には素直に従うべきだと思う。
だが、それに従えばアイシャが飢えて死ぬ。
「(それではわざわざ外に出た意味がありません!)」
理性を、知性を持つからこそ、シェフィルは合理的な選択を拒む。
このまま動くと決めたなら、身体の方も疲労感などという無駄な信号は送らない。問題なく動くようになった足で、シェフィルは暗闇の中を突き進んだ。
自分の体力は十分回復した。次はアイシャを回復させるのに適した食べ物探しに集中する。
しかし中々見付からない。歩いても歩いても、見付かるのはウゾウゾのような小さな生き物ばかり。小さくても消化に優しくて栄養満点ならば良いが、そんな都合の良い生物は全く見当たらない。
「(流石にさっきのヤププしかいなかった、なんて事はないと思いたいのですが……)」
脳裏を過る、嫌な可能性。あり得ないとは言い難い考えに、シェフィルは思わず息を飲む。
事実、それは決して稀な可能性ではない。
ヤププは個体数の豊富な生物ではないからだ。総数が少なければ当然『不幸』な個体の数も少ない。加えてヤププは地中生活に適応した種であるため、休眠時はかなり深い位置まで潜ってしまう。深ければ深いほど、嵐による岩盤の粉砕から逃れられる可能性が高く、滅多な事では地上に出てこない。
おまけに冬越しを始める時期がかなり早めである。今回の冬は急に訪れたが、それが問題になるのは冬の終わりギリギリまで地上にいる種。早めに行動を起こしている種なら、いくら冬が奇襲的に襲い掛かってきてもなんら関係ない。
これらの理由から、凍り付いたヤププがもういない事は十分有り得る。ヤププしか適したものがいない訳ではないが、折角の理想的な獲物を食べてしまったのは失態と言わざるを得ない。
「何処かに、何か……!」
歩いて、歩いて、食べ物を探し回る。家からもう何百メートルも離れ、暗く静かな雪の中を進んでいく。
――――どれだけ苦労をしたところで、報われるとは限らない。
自然界で生きるものにとって、努力するのは当たり前。失敗しても慰めはなく、無情にも命は奪われる。厳しい世界であるが、されど努力をしなければ、得られるものは一つもない。
努力をしたならば、得られる『チャンス』を与えられる。後はそれを掴める優れた能力と……一摘みの幸運を兼ね備えているかどうかだけ。
シェフィルは、この二つを備えていた。
「……………!」
淡々と歩いていたシェフィルは、不意にぴたりと足を止めた。
シェフィルの本能は捉えたのだ。全てを吸い尽くす星の力が満ちる中で、微かに発せられた電磁波の存在を。
意識して凝視しても、その電磁波がシェフィルの目に見える事はない。『映像化』出来るほどの出力ではないからだ。だから見える景色は真っ黒な、全ての光が吸い尽くされた光景でしかない。しかしほんの僅かな、普段であれば『ノイズ』として捨てられてしまうほど小さな電磁波であれば、今のシェフィルの目にも届いている。
シェフィルの五感はそれを違和感、或いは直感として解釈した。
何かがあるという予感。シェフィルは自分の感覚を信じ、それを感じた方へと歩む。少しでも近付けば、より強い電磁波を感じ取れる。今度は意識に昇るほどの刺激であり、違和感は確信へと変わった。シェフィルの足は歩きから駆け足となり、視線は足下ではなく前を向く。
後は到着するだけ。
雪の大地に横たわる、大きな獣の亡骸の傍へと。その獣がシェフィルに見せていたのは背中側であったが、特異な見た目と大きさから正体を知るのは容易い。
「だ、ダラダラ……!?」
思わずシェフィルはその獣の名を呼んだ。
ダラダラ。シェフィルが名付けたこの獣は、シェフィルの暮らすこの地域の中では最大級の生き物である。
成体の体長は十二メートルを超えているものが殆どで、時には十九メートルに達する個体もいる。筋肉質で引き締まった胴体から、長く伸びた四本の脚と、二本の尻尾……厳密には退化した後脚らしい……が生えていた。四本の脚は非常に屈強で、地面に対して真っ直ぐに伸ばし、直立歩行で快活に歩く。身体は甲殻に覆われていない、比較的人間の皮膚に似た柔らかな外皮で出来ている。背中には二列の背ビレがあり、触れれば人間の皮膚ぐらいは簡単に切り裂くと予感させるほど鋭い。
首も長く、胴体部分とほぼ同じ長さをしている。首の先にある頭は細長く伸びた(シェフィルは知らない事だが、地球の生命で例えると馬によく似た)もの。口は大きな顎と小さな顎の四つで形成され、左右に分かれる構造をしていた。
如何にも地上を歩くのに適した身体付きであり、実際地中へと潜るのは苦手。このためダラダラは地上で冬を越す。しかも嵐や『外敵』を警戒するため、一切休眠状態には入らない。身体の中に溜め込んだ脂質を使い、ひたすら冬が終わるまで耐え続ける……ある意味シェフィル達人間と同じようなやり方だ。シェフィル達と違い、圧倒的な身体能力のお陰で目覚めてさえいれば嵐も外敵も脅威とならないが。
しかしその方法での越冬はやはりリスクが高く、エネルギー不足によって死んでしまう個体も少なくない。この個体も冬越しに失敗したのだろうか……
「(いえ、それよりも今はこれを食べましょう!)」
物事に一々理由を考えてしまうのは、人間としての性なのか。しかし今はそれどころではないと、シェフィルは理性的な思考を頭の片隅に追いやる。
ダラダラは大きさ通りの、圧倒的な力を持つ種族だ。シェフィルの身体能力では鬱陶しい虫けらを演じるのが精々。当然『狩り』で仕留めるなんて絶対に無理である。
それでも寿命などで死んだ個体がたまにいて、その肉を食べた事ならある。潤沢なタンパク質とアミノ酸、更には脂肪分も含んだ、シェフィルが知る限りこの星で最高品質の味を誇る肉だった。
美味しいのには理由がある。桁違いの強さを持つダラダラの成体には天敵と言える存在がおらず、肉質がどれだけ美味でも襲われる心配がない。気兼ねなく生きるのに必要な栄養を身体に蓄える事が出来、不味さの原因となる老廃物や毒素も不要なので蓄積する仕組みがない。このため(ウゾウゾなどと比べれば)非常に美味なのだ。
更にダラダラ肉は脂質が多くて高エネルギーかつ、肉質が柔らかなので消化しやすい。この生物の肉であれば、アイシャを回復させるのに最適だ。いや、これ以上の肉などこの星にはない。
「(確か、腹側に脂肪が溜め込まれていた筈です。あの塊を何キロか持っていけば、アイシャも回復するでしょう)」
すぐに肉(より正確には脂身)を持ち帰ろうと、シェフィルはダラダラの腹側へと回る。
――――シェフィルは、決して油断などしていない。
ダラダラを前にしても周囲の警戒を怠らず、不足の事態に備えていた。何よりこの大きな『食べ物』の近くには、絶対に会いたくない生物がいるかも知れなかったからだ。全ての感覚を研ぎ澄まし、僅かな違和感も無視しないよう意識していた。
されど先程述べた通り、自然界において努力が報われるとは限らない。
そもそも努力で他よりも優位に立てるのは、周りが然程努力をしていない時だけだ。自然界の生物は全員が死力を尽くして努力している。努力するのは基本であり、努力したのに云々というのはお門違い。それはスタート地点に立つための、最低限の事に過ぎない。
シェフィルは危険を避けるため努力した。しかしシェフィルが向かった、ダラダラの腹側にいたそいつも全力で自然界を生きている。
今回は、そいつの努力が実を結んだだけ。
「あっ……!」
それの存在に気付いた時、シェフィルは思わず声を出して驚き。
既に臨戦態勢を整えていた『そいつ』は、シェフィルが構えるよりも早く襲い掛かってくるのだった。




