凍える星の姫君02
何処までも続く白い大地。凹凸の殆どない、平坦な地形が地平線の彼方まで続いている。地表面に大気はない。あらゆる気体が凍り付き、雪として地面に降り積もっているがために。
明かりは存在しない。大地を照らす恒星と衛星が近くにないからだ。地上に降り注ぐ光は、満点の星空が放つものだけ。宇宙空間を眩く彩る輝きは、しかし地上を明るくするには些か物足りない。
寒く、暗い。それがこの星の全て。
ではこの星に生命の姿がないかと言えば、それは否である。何もかも、水どころか酸素も水素も凍りつく大地であるにも拘らず、生物の姿はいくらでも見られた。
しかも小さな微生物だけではなく、体長二メートルほどの獣だって存在している。
その獣は胴体が丸々としたもので、六本の太い足で大地を踏み締めなければ、簡単に転がってしまいそうな体型をしていた。体表面には真っ白な毛が隙間なく生え、白い大地の色合いに溶け込んでいる。毛に覆われた身体に体節構造はなく、甲殻も持たない。臀部からは尻尾が生えていたが、丸く太いもので、長さはほんの十センチ足らず。退化気味であり、殆ど機能はしていない。
丸みを帯びた頭部にはレンズ状の目が二つある。目は小さなレンズの集合体で、複眼と呼ばれるものだ。口は左右に開く大顎と小顎の四パーツで形成されている。顎の形は牙というよりペンチのような、太くて厚みのあるもの。その四つの顎を常にもぞもぞと動かし、時折地面に落ちている何かを拾い食いしている。なんとも能天気そうに見えるが、食べている間も警戒は怠っていないのか。頭にある二本の、扇状に開いた触角は忙しなく動いていた。
そのような外観の生物が、三十頭ほどの群れを作っている。群れの中心には体長一メートルもないような幼い子の姿も見られた。大きな成体に守られる形で、幼体は大地にあるものを拾い、ひたすら食べている。
――――そんな獣達を三百メートルほど離れた位置から眺める、『人間』がいた。
「……むぅー。相変わらず守りが固い」
唇を尖らせ、声以外の言葉を用いて人間は独りごちる。
その人間は少女だった。身長は百五十五センチとやや小柄気味。顔立ちはあどけなく、十代半ばぐらいだ。
腰まで伸びた髪の色は白く、さながら雪のよう。肌も白いが、血管の色味が全くなく、石膏で作ったような不自然な白さである。ただしそれは人間の肌としては、という前置きの上での話。白い雪に覆われた大地の中では、風景に溶け込む自然な色であった。
身体付きは華奢だが、筋肉は付いている。胸は平坦であるが、故に動きを妨げる要素はない。その身体を包み込むのは白い獣の皮で作られた粗雑な毛皮。肩に掛けたそれは腹や胸を覆うだけで、股ぐらは一切隠さず、それを恥ずかしがる素振りもない。背中には先端が鋭く尖った一本の白い槍(というより棒。木製ではなく骨のような材質)があるが、これは布と肌の間に差し込むという、かなり雑な仕舞い方をしている。
髪や肌など、多少人間味のない部分もあるが、その姿は紛うことなき人間である。しかし普通の人間は酸素が凍り付くという寒さの中で、地肌を晒せるほど防寒能力は優れていない。固体化した窒素や水素を裸足で踏んでいるのに平然とし、身体は震え一つ起こしていない異様さ。ましてやあらゆる大気成分が凍り付き、地面に落ちているがために真空となっている環境に、呼吸機器なしでいられるものではない。
なのに少女は、この地獄染みた環境を全く気にしていない。精々、やはりちょっと寒いのか足をもぞもぞと動かすだけ。人間としてどころか、生物としてもおかしい。
尤も、少女の異様さを指摘する者は此処にはいない。
【シェフィル。今日はあの生物を食料とするのですか】
少女の傍に立つ、体長十メートルにもなる『黒い身体の生物』に至っては、少女よりも寒そうな裸一貫でこの世界にいるのだから。
黒い身体の生物は巨大な身体の下部で無数の触手を蠢かせ、傘にある無数の瞳で人間――――シェフィルと呼んだ少女を見つめる。見つめられたシェフィルは黒い生物を見つめ返すと、じっとりとした眼差しを浮かべた。
敵意だとか嫌悪だとかではなく、単純に鬱陶しそうな目付きである。
「母さま……今は邪魔です。母さま達は大きくて目立つんだから、どっか行っててください。気付かれます」
【分かりました。離れた場所で見ています】
手心のない言葉を投げ掛けられたが、母と呼ばれた黒い生物は感情の機微を見せない。言われるがままこの場を後にする。
一人になった少女は、ため息を吐いてから再度動物達に目を向ける。
動物達は大地にあるものを食べるのに夢中で、シェフィルには目も向けていない。忙しなく動く触覚も、特段シェフィルのいる方を探っている様子もなかった。やがてこの辺りは粗方食い尽くしたのか、くるりと踵を返し、この場を後にしようとする。
シェフィルに背を向ける形で。
「……よし」
シェフィルは獣達の後を追う。屈んだ体勢で、足音を立てないよう静かに駆けていく。
獣達との距離は少しずつ縮まる。三百メートルあった間は、やがて二百メートル、百メートル、五十メートルとなり……
三十メートルまで詰めたところで、動きがあった。
獣達の一頭が、ぐるんとシェフィルの方を振り向くという形で。
「ッ!」
目が合った。そう認識した瞬間、シェフィルが取った行動は真横へと跳躍する事。
【プギィイイギャアアアアアアッ!】
そしてシェフィルと目が合った獣がしたのは、雄叫びを上げる事だった。
雄叫びと言っても声によるものではない。大気さえも凍り付くこの星で、空気の振動である声を媒介する物質は存在しないからだ。
飛ばしているのは電磁波。
百ギガワット級の出力を持った電磁パルスが、僅か〇・一秒間で周囲に撒き散らされる。この出力はある程度発展した文明で使われている発電施設――――原子力発電所の一時間当たり発電量に匹敵する。これを瞬時に放出するのは攻撃も同然。強力な電磁パルスを至近距離で受けたシェフィルは、身体に流れたサージ……逆流する電流により筋肉が張るのを覚えた。或いは張っただけで済んだ、というべきだろうか。普通の人間ならば電流から生じた発熱で、今頃レンジでチンされたように中身が茹で上がっている。
群れの一員である他の獣達はこの電磁パルスに反応するや、即座に走り出した。行く先は、シェフィルから逃げるように。
唯一逃げなかったのは、雄叫びを上げた個体。その個体は叫んでいる間に身体の側面をシェフィルの方へと向けた。それと同時に体表面を覆う体毛がざわりと蠢き、シェフィルがいる場所を狙う。
次の瞬間、獣の体毛が何十と『射出』された。
体毛は秒速一千メートルの速さで飛翔。シェフィルはそのまま転がるように移動を続け、体毛が飛んできた時その場にはいなかった。飛んできた体毛は地面に突き刺さる。体毛は硬質化しており、針のように真っ直ぐ伸びていた。長さは五センチほどで、貫通すれば十分内臓を貫ける。もしもシェフィルが立ち止まっていたら、今頃この体毛によって全身穴だらけとなっていただろう。
生命の危機であったが、シェフィルは怯まない。むしろにやりと、獰猛に笑ってみせる。
しかし獣は体毛の射出を終えると、すぐに逃げ出した。今の攻撃は交戦の意思表示ではなく、追ってこないようにという牽制。端から戦うつもりなどないのだ。こちらの出鼻を挫き、その間に逃げ果せようという作戦。
これは極めて有効で、先に逃げた群れの方は既に最高速度……時速三百キロ以上の速さで駆けていた。シェフィルに毛を飛ばした個体も走り出し、どんどん加速している。最高速度に達するのに一秒と掛かるまい。
対してシェフィルは針を躱すために跳躍し、体勢を崩している。ここから走り出すには〇・一秒程度の猶予が必要だ。そもそもにしてシェフィルが全速力で走ったところで、この獣達の俊足には追い付けない。足の速さが全く違う。
ではどうするか?
簡単な話だ。獣達は足の速さという長所を活かして逃げている。ならばこちらも、自分の長所を使って追えば良い。無理に相手の得意分野で争う必要はない。
そして人間の長所は、投擲である。
「させるかっ」
逃げる獣を睨みながら、シェフィルは即座に背中へと手を伸ばす。
掴んだのは、布と背中で挟んでいた一本の棒。
長さ五十センチほどのそれを、勢いよく投げ飛ばす!
シェフィルが投げた槍は時速七百キロに達した。世界記録を出すような人間の槍投げでさえ、初速が時速三百二十キロ程度。それを倍以上上回る、桁違いの速さだ。
圧倒的速さで飛んだ棒は、もうすぐ最高速度に達しようとしていた獣の足に見事突き刺さる。
【プギッ!?】
足の一本に走る刺激、そして機能不全。二つの突発的問題により、獣は激しく横転する。地面に降り積もった固体酸素や固体二酸化炭素が、朦々と舞い上がった。
とはいえまだ獣は生きていて、無事な五本の足を使って立ち上がる。速度は落ちるとしても、走るのにも支障はない。
だからシェフィルはこの好機を逃さない。
「ぐがああっ!」
声ではない、電磁波の唸りを上げながら走り出したシェフィル。時速にして二百キロを超える速さで大地を駆け抜ける。
人間の身体が出せる速さは、理論上六十四キロとされている。現実的には『人類最速』と呼ばれる人間でも、時速五十キロを超える事は難しい。だが、シェフィルはそんな『常識』を嘲笑うような速さで疾走していた。
速さの秘訣は豪快かつ単純。地面が爆発したと錯覚するほど雪が舞い上がる強さで蹴り、純粋な怪力だけで加速している。
立ち上がったばかりの獣は加速に時間が掛かる。シェフィルの足で瞬く間に距離を詰めれば、もう逃げ出す事は間に合わない。
シェフィルは獣の背中に跳び付き、両腕で獣の顔面付近を掴んだ。
シェフィルに組み付かれた獣は、走るのではなく身体は跳ねるように動かす。激しい動きによりシェフィルを振り解こうというのだ。その作戦は効果的で、油断すれば投げ飛ばされそうだとシェフィルは感じる。
おまけに獣には体毛を射出する能力がある。悠長に張り付いていたら、いずれ身体は穴だらけとなるだろう。
その前に全てを終わらせる。シェフィルは素早く獣の首に右腕を回し、左手で頭を掴んだ。そしてシェフィルは知っている……この獣の頭部には、指を引っ掛けるのに丁度いい窪みがある事を。
手をしっかりと固定したところで、左手と右腕を渾身の力で動かす。掴まれた獣の頭部はシェフィルの手により動かされ、ぐりんと百八十度回り――――ボキボキと様々なものがへし折れる感触と、体液を撒き散らす。もう一周すれば肉の引き千切れる手応えも感じられた。
更に力を込めれば、獣の頭が胴体から離れた。
シェフィルはこの頭を投げ捨て、跳ぶようにして身体から離れる。何故なら頭を失った獣は、まるで生きているように体毛を射出してきたからだ。もしも勝利を確信して背中に残っていたら、シェフィルの身体は穴だらけになっていただろう。
更に獣はまだ死なないとばかりに、五本の足で立ち上がる。それが単なる反射的行動でない事は、切り落とした頭の断面が蠢き、少しずつ肉が盛り上がる……急速に再生している事からも明らかだ。
「ふんっ!」
だからシェフィルは獣の首の断面から、腕を突っ込む。
そしてずるりと一本の、体組織や内臓とは違う、細長い白い塊を引きずり出した。体内の何処かと付着している事もなく、スムーズに体外へと飛び出す。
そこまでして、ようやく獣の身体は大地に倒れ伏す。首の断面から流れ出る体液が凍り、やがて身体全体が凍り付いた。
「……やったぁー! やりましたー!」
獣を仕留めたシェフィルは、白い塊を片手に持ちつつ、飛び跳ねて喜んだ。びちゃびちゃと体液が飛び散り、身体に汚れが付いたが、気にもしない。
【素晴らしい。もうこの生物を狩るのに苦戦はしませんね】
シェフィルの狩りが終わると、何処からともなく黒い生物――――母が姿を表す。
電磁波を用いた『言葉』で話し掛けられたシェフィルは先程までと違って、満面の笑みで母と向き合う。
「はいっ! これで大分食料事情が改善します! まぁ、槍とかの投げるものがないと接近出来ないですけど、出来る事が重要ですし!」
【その通りです。この種であれば広い範囲に分布しているため、食料資源として困る事はまずありません。よくやりましたね】
「えへへー。あ、母さま。さっきからこの生物とか言ってますけど、私が名前を付けたんだからそれで呼んでくださいよ」
【名前? ……ああ、ゴワゴワでしたか。わざわざ個別の名前を与える必要はないと思うのですが】
「母さま達と違って、人間はちゃんと名前を付けないと種類を区別出来ないのです。だからあれはゴワゴワと呼んでください」
【善処はしましょう】
本当に善処する気はあるのか、或いは口だけか。長年母と一緒に暮らしてきたシェフィルは母の考え方を知っているため、大きなため息を吐く。
それはそれとして。
仕留めた獣……ゴワゴワの下に歩み寄ったシェフィルは、その身体を優しく撫でた。殺す間際に抱き着いたから、シェフィルは知っている。生きている彼等の身体はとても暖かく、この世界の寒さを忘れさせるほどだと。
その暖かさは今も残っている。彼等の身体を覆う体毛が、周りの寒さを防いでいるのだ。毛皮を剥いで纏えば、寒さを防ぐ服となるだろう。今シェフィルが着ている毛皮も獣の死骸から剥いだものだが、長く使っていたため劣化が酷く、今では防寒効果が薄い。そもそも身体の大部分が覆えていない時点で防寒具として失格だ。この毛皮を使えば、日常生活が少しは楽になるだろう。
勿論身体はシェフィルの糧となる。二メートルもある巨躯の中には、どろどろとした体組織が満たされていた。栄養満点の『肉』であり、量も多いので当分食べ尽くせない。それに自重を支えるための骨は新たな武器の材料となり、次の狩りに役立つ。
これでまた、しばらくは生きていける。
――――明日もまた、生きている保証はないが。
「今日は満腹になるまで食べますよー♪」
尤もその事実に不安を抱く事もなく。
得られたゴワゴワの身体を片手で引きずりながら、シェフィルは自分の『家』へと戻るのだった。