絶対凍結気候05
冬。
その『現象』が具体的にどのようなものであるか、まだアイシャには伝えていなかったなとシェフィルはぼんやり思った。
いくら食べ物などを備えたところで、情報なしで乗り越えられるほど惑星シェフィルの冬は甘くない。冬の危険性を理解してもらうためにも、冬支度について説明しながらゆっくり話そうとしたのが裏目に出てしまった。
そうした後悔という名の意識をした結果か。シェフィルの脳内には、本来ゆっくりとアイシャに語る筈だった冬の情報が駆け巡る。
惑星シェフィルにおける冬とは、正確には気温の低下ではなく急激なエネルギー枯渇現象を指す。
惑星シェフィルにエネルギーを吸収する性質があるのは、以前母がアイシャに話した通り。電気も電磁波も熱も、全てが惑星シェフィルに吸い取られている。普段から発揮されている性質であり、だからこそシェフィルやアイシャの乗っていた船は墜落した。
しかしこの性質は常に一定の出力を保っている訳ではない。時として弱まり、時として強まる。これにはある程度の周期性があり、時期ごとの気候の違い……『季節』を作る。
冬はこのエネルギー吸収の出力が途方もなく強くなる季節だ。星に存在するありとあらゆるエネルギーを根こそぎ奪い去り、何もかも凍り付かせていく破滅的気象現象。
その冬が、間もなく此処に到達する。
現実逃避はここまでだ。行動を起こさねばならない。
「アイシャ! 冬が来ます!」
「え? 冬が来たって、え?」
困惑するアイシャであるが、生憎今のシェフィルに事情を説明する暇はない。
まずは思考を巡らせる。
第一に気にするのは、果たしてあれは本当に冬なのか。シェフィルは決して、のんびりと準備を整えていた訳ではない。空の澄み方から、何時頃に冬が訪れるのかを考え、準備を進めてきた。今までの経験からして、あと百時間以上は冬の訪れはないと読んでいた。
なのにどうして、今回の冬はこんなに早く訪れたのか? 自分は何かを間違えたのか、それとも大きな異変が起きたのか? 或いは冬とは異なる自然現象か? 様々な可能性を考えてみたが、一番しっくり来たのは最もシンプルな答え。
今回は偶々冬の訪れが特別早かったのだろう。
確かに気候の移り変わりにはある程度の周期性があり、前兆からの推移にも法則性がある。だがあくまでも『ある程度』の話。何事にも誤差はある。そして気候というものは、一つの現象によって生じるものではない。無数の要素が複雑に絡み合い、出来上がるものだ。
誤差がどの程度の振れ幅で、どの方角を向くかは完全なランダム。要素が無数にあるからこそ、基本的には相殺し合って平均的な結果を生むのだが……しかし確率は時として偏る。極めて極端な結果を生む事もあるほどに。
普段と違う速さで冬が来たとしても、大した意味などないのだ。そこに暮らす生命にとって、どれだけの脅威だとしても。
「(よってあれは冬! その前提で動きましょう!)」
『原因』に当たりを付けた。そしてこれが当たっていようが外れていようが、冬と思しき現象がやってくる事に変わりない。問題の一つを片付けた事にして、頭の隅に押し込む。
演算容量を確保したところで、次に思考するのは取るべき行動。
具体的には最初の難関――――地平線の辺りに見えた冬を突破する事だ。地平線付近で見えた冬の訪れ、即ち電磁波の消失現象は猛烈な勢いでこちらに向かっている。過去に経験した四度の冬でも、この現象を伴って冬はやってきた。経験上、冬の拡大速度は平均して秒速五百メートル前後である。
そして惑星シェフィルの直径は約二万キロ。形はほぼ完全な球形と仮定して問題ない。ここから三平方の定理を用いて算出した地平線までの距離(シェフィルの視点から惑星の中心を繋ぐ辺A、惑星中心から地平線を繋ぐB辺、そして地平線とシェフィルの視点を繋ぐ辺Cで直角三角形を作る。これにより地平線までの距離Cの二乗=Aの二乗−Bの二乗となる)は、約五・四七キロ程度となる。
秒速五百メートルならば、凡そ十秒で横断可能な道のりだ。思考と会話で既に三秒は使ったので、冬が此処に到達するのは推定七秒後。
安全な場所まで退避するのは不可能。そもそも冬は惑星全体を覆うのだから逃げても意味はない。真正面から立ち向かい、打ち破る必要がある。あとたった七秒前後で。
「アイシャ! 兎に角気張る事! 決して意識を手放してはなりません!」
「えっ? ま、待って、いきなりそんな」
「それと私の手を離さない事! 騒ぐのは構いませんが手だけは絶対離してはなりません! 死にますよ!」
必要な情報を一気に流し込むように、シェフィルはアイシャの返事も待たずに告げる。それからアイシャの右手を、己の左手でぎゅっと掴む。
アイシャが顔を赤くしながら、驚いたような表情を浮かべた。だがそんな事はどうでも良い。冬が到達するまでの残り時間は最短で三秒。
その三秒で可能な限り準備を行う。
まずは防寒。部屋の床に敷いてある獣の皮を片手で強引に剥がす。皮の大きさはざっと三メートルはあり、人間をくるりと包み込むには十分な大きさだ。
シェフィルは繋いだままの左手でアイシャを引き寄せ、毛皮で自分達を包み込む。驚きからかアイシャの身体は硬直していたが、時間がない今はむしろ好都合。毛皮で包まった状態でシェフィルは跳躍し、部屋こと横穴の隅へと向かう。
更にシェフィルはアイシャの上に覆い被さるような体勢を取る。目が合ったアイシャは、いよいよ火が出そうなほど顔を赤くした。
「ひゃあっ!? い、いい、いきなりこんな、強引なのは」
「口を閉じて! 目も瞑って、兎に角粘膜を外に晒さないでください!」
訳の分からない事を言い出すアイシャに、シェフィルは強い言葉で指示を出す。
ただならぬシェフィルの様子に、アイシャも考えを改めたのか。一瞬の戸惑いを挟んだ後、アイシャはぎゅっと目を閉じた。アイシャが準備を終えたのを見届けたシェフィルは、その口を片手で塞いでから自分も目と口を閉ざす。
地平線にその姿を現していた冬がシェフィル達を襲ったのは、それから間もなくの事だった。
「んんうぅぅーっ!? んぅぅぅ!?」
我が身を襲う衝撃――――エネルギーの消失現象がやってくる。驚いたアイシャが叫ぶのは思っていた通り。がっちりと片手を押し当て、絶対にその口を開かせまいとシェフィルは力を込めていく。勿論繋いでいる手も同じだ。握り潰すぐらいの強さで掴み、何があろうと離さない。
無論、自分の身体も危機的状況なのを忘れてはならない。
「(ぐぅ……! た、体温が下がって、きましたか……!)」
まず感じ取ったのは、自分の体温が急速に低下している事。
本来、惑星シェフィルにあるものは全て凍り付く。惑星の性質によって、熱エネルギーも吸い取られるからだ。熱が奪われるのであらゆるものが凍り付く。そしてあらゆるものとは、水素や酸素などの分子だけでなく、この星の生物の体温も含む。
なのにシェフィル達が凍らない理由は、極めて簡単。吸い取られるよりも多くの熱を生み、身体を常に発熱させているからだ。シェフィルの体温は人間の平熱である三十七〜三十八度を保っているが、それを可能とするだけの発熱を絶え間なく行っている。これは惑星シェフィルに生息する生物であれば殆どの種が持っている性質で、寒さ対策の基本とも言えるだろう。無論アイシャも、意識はせずとも同じ能力を発揮している筈だ。
実に強力な体質である。しかしあくまでも力押しの対処法。力押しの弱点は、自分よりも強い力には成す術もない事。
正に今、冬の力はシェフィル達を上回っていた。身体がどれだけ発熱しても、体温は維持されるどころか下がっていく。
毛皮で身を包んだ事で多少はマシになっている(この毛皮には僅かな運動エネルギーで膨大な熱量を生む性質がある。この発熱で奪われる分を中和するため温かいと感じられる)が、それでもじりじりと体温が低下しているのは間違いない。
そして追い打ちが掛かる。
周囲が暗黒に包まれたのだ。冬のエネルギー吸収現象が根こそぎ奪うのは、生物達の体温だけではない。電磁波や光エネルギーさえも吸い尽くす。
光が完全に消失すれば、周りにあるものを見る事は出来ない。また、シェフィルは電磁波で気配などを探っているため、その電磁波が消失するのは視力のみならず聴力も失うのに等しい。何も見えず、何も聞こえず、何も分からない。すぐ隣にいるアイシャの姿すら見えない有り様だった。
もしもここでアイシャと離れたら、シェフィルはアイシャを発見する事が出来なくなる。勿論アイシャもシェフィルの居場所など分からない。離れ離れになった二人が、冬の後に再会する事はないだろう。故に絶対手を離すなと念押ししたのだ。
とりあえずアイシャと離れないようにはしたが……身動きが取れない上に、何が起きているか分からない。今から策を練る事も出来ない。
恐らく今頃、非常食やペットのメンメン達は液体の中にいながら凍り付いているだろう。冬が来るまでは凍らなかった、有毒の液体さえも凍結するがために。とはいえメンメン達はそうやって冬を乗り越える。液体と一緒に凍り付く事で代謝機能を停止し、冬の終わりを静かに待つのだ。
残念ながらシェフィル達にはメンメンの真似は出来ない。凍結すると水分が膨張し、細胞が破損してしまうからだ。軽度なら再生の余地もあるが、身体の芯が凍ったら流石に死ぬ。
「ひ、ひ、ぁ、あ」
アイシャの体温も下がってきたらしい。密着させている彼女の身体から、ガチガチと顎を、ぶるぶると身体を震わせる振動が感知出来た。光の喪失により顔を見る事は出来ないが、恐らく真っ赤だった顔は真っ青になっているだろう。
このまま放置すればアイシャは低体温症となり、一分と経たずに身体が凍り付く。ここでアイシャを死なせる訳にはいかない。無論シェフィル自身も死ぬつもりはない。
何はともあれ体温を確保しなければならない。言い換えれば、体温さえあればどうにか出来る。
「ふっ、うぅぅぅ……!」
シェフィルは全身の筋肉を震わせる。
これはシバリングと呼ばれる、人間の身体であれば通常備わっている機能だ。筋肉を動かす事で発熱を促進し、体温を上げる効果を持つ。今正に震えているアイシャが見せている、ガチガチと顎を鳴らすのもシバリングの一種だ。
ただしシェフィルが繰り出すシバリングは、アイシャがやっている無意識のものとは出力が違う。低下した自身の体温を上げるだけでなく、抱き締めたアイシャの体温も引き上げる。震えていたアイシャの身体は落ち着きを取り戻し、青かった顔は血色を取り戻しているだろう。
どうにかアイシャは回復した。とはいえこれでOKとはならない。このシバリング、体力の消耗が激しいのだ。自分一人の体温を保つだけならまだしも、アイシャの分も代わりに担うのは正直厳しい。
シバリングという強引な手法ではなく、安定した発熱方法に切り替えねばならない。具体的には細胞の活性を高め、基礎代謝を上げるというもの。奪われる熱量が普段よりも多いから体温低下が起きるのであり、だったら生み出す熱を増やせば問題は解決する。圧倒的な力により問題が生じたのだから、それを上回る力であれば解決するのも道理だ。
ただしこのやり方だと、アイシャを温めるほどの熱は生まない。よってアイシャにも、自ら発熱してもらう必要がある。
シェフィルはおでこをアイシャに密着させる。電磁波が吸い付くされている今、ついさっきまで交わしていた電磁波会話も使えない。声を届かせるには、直接触れるしかないのだ。
「アイシャ。聞こえますか、アイシャ」
「う、うん。どうにか……」
「詳しい説明は後でします。今は体温維持を優先しましょう。良いですか? まず気持ちを落ち着かせてください。それから……」
一つ一つ丁寧に、安定した体温上昇のやり方を説明する。それはこの星の生物であれば誰でも出来る能力で、シェフィルも母から教わったやり方だ。
アイシャはシェフィルの言う通りにやり方を真似ていく。少しぎこちないが、初めてなら上出来なぐらいだ。少なくとも物心付くかどうかの時にやらされた、シェフィル自身と比べれば遥かに。
「……なんというか、本格的に私も人間離れしてきたわねぇ」
体温が上がって落ち着いたのか、アイシャは独り言を呟くまで余裕を回復させた。
ひとまず、アイシャがこのまま凍え死ぬのは防げたと考えて良いだろう。シェフィルはくすりと笑いながら、アイシャの独り言に答える。
「私達は人間でしょう? 何をしたところで人間の範囲だと思いますが」
「そーいう考え方が出来ないのが、人間ってもんなのよ……まぁ、あれこれ言っても仕方ないし、生きてるから良いんだけど」
「そうですよ、生きていればなんだって良いんです。とはいえそれが大変な訳ですが」
「ん? 寒波の耐え方は分かったし、後はこれが収まるのを待てば良いんじゃないの?」
首を傾げるアイシャ。どうやら先の寒波……冬の到来を乗り越えたので、後はどうとでもなると思っているらしい。
ちゃんと説明をしていないのだから、そう誤解するのも仕方ない。シェフィルは一層おでこを強く押し当て、確実に、聞き逃しがないようにしてから話す。
「良いですかアイシャ。私達が先程経験したのは、あくまで冬の訪れです。ここから冬が本格的に始まります」
「……ああ、そうよね。冬が来るって
さっき言ってたものね。季節変化って、ふつーもっとゆっくり移り変わるものだと思うんだけど」
「残念ながら、それはこの星の普通ではありません。それでですね、今もこうして身体に触れて話さなければならない通り、普段以上にエネルギーが吸い取られる状況はしばらく続きます」
「うん、まぁ、一過性のものなら多分あそこまで慌てないわよね。でも私も自力で体温が維持出来ているし、なんとかなりそうだけど」
「ところがです。今の状況はまだまだ序の口なんですよ。冬は段々と過酷になります。段々と言えるほど緩やかではありませんが」
「……はい?」
ようやく、アイシャも自分達が直面している問題を理解したのか。体温は高いままなのに、表情が凍り付いたのが身体の動きから感じ取れた。
しかしどれだけ恐怖しようと、不安になろうと、現実は変わらない。
長年この星で暮らし、合理的思考が基本のシェフィルはそれを認めるのに躊躇いはない。故に、青ざめ震えているであろうアイシャに現実を突き付ける事にも躊躇いはない。
暗闇の中で、シェフィルはにこりと優しく微笑みながら告げる。
「冬は大体十回寝るぐらいの間続きます。一番しんどいのは半ばを超えた頃で、今のざっと十倍は寒いですから、覚悟しといてくださいね?」