1000人ありがとうSS*ノエルがコルセットをつける話
15歳のノエルは絢爛豪華な乙女部屋の中央で立ち尽くしていた。
背後にいる、使用人のエリーの視線が背中に突き刺さる。
「どうしても、しなきゃいけない……のかしら?」
くるり、と振り向いた、伯爵令嬢ノエル・ブリザーグは、大きな澄んだ瞳に透明な涙をためていた。
手負いの美しい鳥のようだ。
しかしながら、エリーは
「はい、ノエル様」
と、にっこりと微笑みかけただけだった。
慈愛に満ちた表情は有無を言わせない。
「……だめ?」
「そうですね」
泣き落としが通用しないと悟ったノエルは、すん、と表情を切り替えた。
「なぜ、と尋ねてもよろしいかしら?」
と、冷静に言う。
半ば諦めの声が入っていた。
「まだ15歳なんだからこんなものつけなくたってよろしいはずですわね? というかオトナの女性しかこんなものつけてはいけないはずではなくって? そこのところどう考えているのエリー」
「王太子殿下のご要望です」
と、すげなくエリーは言った。
ノエルは内心冷や汗をかいていた。
(チッ……まずいことになったぜ)
鯨の骨だかダイオウイカの軟骨だか何だか知らないが、固そうなコーセットには皮の紐がついていて、ギチギチと引っ張られるようになっている。
コーセットと呼ばれるこの身体補助具は、体の線を美しく整えるとして、貴族たちの中では大流行りだった。
しかし、ノエルには前世の記憶がある。
(おいおい……纏足だのコルセットだの、高校で歴史のクボセンが写真見せてたの今でも覚えてんぞ……)
このゼガルド国内でも、結婚相手を探す貴族女性の中で、あの腰をくびれさせる矯正器具が流行ってるのは分かっていたが、アイリーンやエリーなど周りの女性たちがほとんど着けていないので、忘れていた。
(あんなもん……どこに内臓を入れりゃいいんだ!?)
どう考えても細身の木の幹くらいしかない直径の内部に、脾臓が全て納められるとは思えない。
こんなものは、十五歳以上の婦女子が結婚相手を募集するためにやる身体装飾方法だ、自分にはしばらく縁がないという認識でいたのが甘かった。
「第二王子は女性のコーセット姿が、特段にお好きなのだとか」
「……フェチかよ、救えねぇ」
「え? ノエル様、今何かおっしゃいましたか」
「フェッ……お昼ご飯はフェットチーネのパスタがいいわと言いました」
「あらあら。それでは、パスタが通るくらいには空けて、締めましょうね」
王子の要望というだけでコルセットをつけることを強要されるのが、ノエルにはどうにも理不尽に感じられた。
エリーの言葉が再び頭の中で反響する。
「ご婚約の大切な顔合わせでございます」
その言葉に何の慰めも見出せなかったノエルは、エリーが手に持ったコーセットを見つめた。
何かの骨で作られた硬そうなコーセットは、白くて硬い布と強固な紐でできていて、まるでノエルの健康と自由を奪う骸骨のお化けのように見えた。
(なんか、あの、骸骨の浮世絵みてーだな……こわ……)
ものすごく痛そうだし、何よりも自分には無理だと感じた。
物理的にも心情的にも無理だ。そう思いながらも、エリーの厳しい目があって、逃げ出すこともできなかった。
「一応、先に聞くけど、これ、どこまで締まるの?」
「このあたりまでですね」
エリーがグッと紐を引く。
「無理無理無理無理! 健康がどこかに行く」
「健康に良い程度に締めればいいのですわ」
「締めないでくれたらいいのに!?」
嫌だ、どうしても嫌だ。
ノエルは心の中で叫んだ。
「王子は蜂のように細い腰をお望みなのです!」
エリーは使用人の忠誠心にかけて、どうしても婚約の顔合わせに理想的なコーセット姿を作りあげたいようだった。
(どうする……どうする……)
ノエルはへその辺りを腕で守りながら逡巡した。
必要にかられ、十かそこらの時に、女性のための下着を初めて着けたときのことが思い出される。
まるで、巨大な輪ゴムで口を縛られた食パンの袋になったみたいだった。
さらには、月の物が来たときには卒倒しそうだった。
まさかあそこからあんなものがあんなふうに出てくると知らなかったノエルは、これまで感じたことのない恐怖と体感したことのない継続的な痛みに涙目になり、エリーとアイリーンによって穏やかに慰められた。
が、今でも
『こんなに毎回毎回血を出していたら、そのうち失血死してしまうのでないか?』
という疑念は拭えない。
鎮痛剤の代わりにヒールの魔法を自分自身にかけまくって難を逃れているものの、『本当に辛くなってくるのは二十代からですよ』とエリーに有り難くないアドバイスを貰って絶望した。
(毎月地獄の苦しみを味わってんだから、これ以上、締め付けられたり、痛めつけられたりする必要は無ぇだろ!?)
と、その時、不意に頭に浮かんだのはレインハルトのことだった。
「ねえ、エリー。私、提案があるわ」
「ノエル様。いかがいたしましたか」
「レインがもしコーセットを着るのなら、私も着てもいいわ」
「レインハルト様は、男ですよ」
「最近では男物のコルセットもあると聞きましたわ」
「ですが……」
「レインがしないのなら私もしませんわ」
「ノエル様ッ」
無茶ぶりにも程が在る。
しかし、時間稼ぎはできるだろう。
一分一秒でもこの内臓圧迫器具からの締め付けを回避したい。
しかし、その時、部屋の扉がゆっくりと開いた。
「ノエル様、わがままをおっしゃらないでください」
貴婦人が現れた。
黒い髪は結い上げられ、色白の肌と相まって謎めいた魅力が漂う。
コーセットに締め上げられた腰は確かに優美に見える。
しかし、それはコーセットがあろうとなかろうと、顔面がきらきらと光っているのだから、誤差のようなものだった。
「第二王子の要望は満たして差し上げましょう。何しろノエル様の婚約がかかっています」
低音の台詞に、ノエルの目は驚きで大きく開かれた。
見事なドレスとコルセットを着こなして立っている婦人は。
「レイン?」
レインハルトは優雅に微笑みながら言った。
「はい」
「いやいやいやハイじゃないよね? んなとこで何して……いらっしゃりやがるのですか?」
まばゆいばかりの美しさの貴婦人は長い睫毛を瞬かせた。
「ノエル様がコルセットを着るのを嫌がっていると聞いて、少しでも気が楽になるようにと着てみることにしたのです」
ノエルは信じられない思いでレインハルトを見つめた。
(こいつ、ヤベェ……)
いろんな思惑の込み入った『ヤベェ』である。
万感の思いを込めた呟きを口には出さず、ノエルはあまりにも堂々としたレインハルトのドレス姿を見た。
背が高いことをのぞけば、どこかの姫や貴族の婦人といって差し支えないだろう。
「腹筋に力を入れるのです」
と、レインハルトは静かに言った。
「騎士の甲冑のようなものです。力を入れて姿勢を保つ」
「なるほど」
と、ノエルは納得した。
少しずつ恐怖が薄れていく。
腹筋矯正器具として考えれば良い。
王子と話したとしても、ほんの小一時間くらいのことだろう。
「よし! やってやろうじゃねぇか! 俺もお……」
「ノエル様?」
「んなでしたわねウフフ。着てみますわ」
エリーが目を輝かせた。
「着てくださるのですね! よかった、では、早速」
にこりと笑ったエリーの笑顔にノエルは固まった。
「腕によりをかけて、着付けさせていただきます!」
「オッケー! 頼んだよエリー!」
「さあ、ではノエル様、部屋で一番丈夫な柱を持ってください」
「えっ!?」
「ベッドの柵なんてだめですよ、折れてしまいます、衝撃で。もう全力でしがみついて、大雨が来ても竜巻が来ても、折れないくらいのしっかりした柱を持っていただかなければ」
「ちょっと待って!? 今から竜巻に襲来されるの!?」
「衝撃としては似たようなものです。さ、いきますよ」
「あ、いや、そこまでとは、ちょ、まっ……」
ノエルの悲鳴に、レインハルトは沈痛な面持ちで俯いた。
せめて王子との会談の小一時間は、この格好をして使用人として仕えよう。
それが主へのせめてものはなむけだ。
結果、顔合わせの間中、こちらではなく、茶を淹れるレインハルトのくびれた腰ばかりチラチラと見ていた第二王子エリックを、ノエルは初対面から心中で口汚く罵るはめになったのだった。
END