その後の木下の話SS *夏休み お盆になった現世の一コマ
(悪役令嬢か)
最近流行だから、どこかのアニメの記憶が混じったのだろう。
木下はふふ、と笑ってしまった。
あの強面の先輩が、美少女だなんておかしいにもほどがある。
他県との県境にその場所はあった。
緑色の山々から蝉の声が降りしきっている。
木下はそっと手を合わせていた。
あれからもう十年になる。
身よりのなかった猪瀬のこの墓は、春河が建てたものだった。
あいつを無縁仏にさせてたまるかと、自分の先祖代々の墓の隣に新しく墓石を買ったのだ。
しゃわしゃわと身を震わせて蝉が鳴く。
照りつける太陽の痛いほどの日差しも、ここには届かない。
あの、無骨だけれども情の厚い先輩の顔を忘れたことはない。
十年、思えば必死で生きてきた気がする。
先輩を失って、苦しさに泣いて、そしていつしか後輩ができて、家族もできた。
思い出さないようにしていた、あの日。
記憶にふたをしていた猪瀬との残像が、最近になってちらほらと脳裏から呼び起こされてきた。
昔ならば、あわてて考えないようにしていたけれど、十年経った今は不思議と落ち着いて思い出せるようになってきた。
猪瀬のいない哀しみが消えることはない。
まだ胸は痛むけれど、あのときに味わった、胸と頭と鼻の奥がひりつくような、冷水を浴びせかけられたような、劇的な冷たい痛みは薄れてきた。
この痛みごと、生きていくのだと木下は悟った。
「木下か」
後ろからしわがれた声が聞こえた。
「久しぶりだな」
「春河さん」
桶と柄杓をもった春河だった。
十年経って、警察を引退した春河はすっかり白髪の似合う好々爺になった。
「偶然だな」
「お盆ですから」
「そうだな。元気にしてたか?」
「ええ」
「お前の結婚式以来だな」
「はい。ご無沙汰してます」
自然と、春河と一緒に墓石を見る。
木下が掃除を済ませたので、石は少し濃い色になって濡れている。
じっと見ていると徐々に乾いて色は薄くなった。
「十年か」
春河が言った。
しゃわしゃわと蝉が鳴く。
「ですね」
飛行機雲が画用紙のような青い空にすっとかかっている。
「俺んとこ、来月子どもが生まれるんすよ。男の子」
「ほう。めでたいな」
「辰也ってつけようと思ってます。嫁さんも、そうしたらいいって」
「はは」
春河が墓石の前に花を供えた。
乾いた灰色の上に、鮮やかな生身の黄色がパッと映える。
「あいつが聞いたら喜ぶな」
木下は笑った。
「いや、たぶん、ろくなもんにならねぇよやめとけって言って背中蹴ってきそうじゃないですか。猪瀬さんだったら」
「そうかもな」
春河が目を細める。
この人もこの人なりに、猪瀬がいない十年を過ごしてきたのだ。
日常は大切な人を失っても少しずつ前に進んでいく。
それを昔は残酷だと思ったけれど、今ならばそれでよかったのだと理解できる。
木下には妻も子どももできて、春河にも四人の孫ができた。
だけど、木下は今年も墓参りに来て手を合わせているし、春河だってそうだ。
もう一生、幸せになれないと思っていた。
幸せになってはいけないとも思っていた。
だが、日常を慈しみ、愛することは、罪ではないと、この十年をかけてようやく気が付いた。
人を失った哀しみはずっと消えることはない。
目の前に靄のかかったような切なさは、猪瀬のことを覚えている限り、木下から離れることはないだろう。
それはあなたが、今でもちゃんと猪瀬さんを想っている、忘れていないってことよと、木下の妻になった女性は言った。
自分をかばって逝ってしまった猪瀬のことを、木下は一生忘れるつもりはない。
木下は、墓前で手を合わせる春河の背中を見た。
この人のことだって、絶対に忘れられない。
事件後のやけを起こしかけていた木下を、思いっきりぶん殴った男だ。
あれがなければ今の自分はいなかった。
(猪瀬さん。俺、刑事、頑張りますよ)
あの事件の後、一度は辞めようとしたこの仕事を、今も続けている。
今の自分を見たら、猪瀬はなんと言うだろうか。
お前に後輩なんて生意気だとか、ゲームばっかやってんじゃねぇぞとか、軽口を叩いてくるだろうか。
それとも、ただ一言、頑張れと言ってくれるだろうか。
春河がふと振り向いた。
現役の時よりも少し縮んだような気がする風貌は、どこか寂しく思えたが、とても穏やかだった。
「そういや昨日、あいつの夢を見たんだよ。なんていうんだ。おかしい夢でな」
「へえ。偶然ッスね。俺も猪瀬さんの夢見たんですよ、それも変な夢で」
春河は手桶を持って、木下のところへ歩いてきた。
石を踏む革靴の音に混じって、遠くに車のタイヤの音がする。
「あいつが中世の貴族の嬢ちゃんになっててな、シュッとしたアイドルみてぇな野郎と冒険するって夢だったんだよ」
きびすを返そうとした木下は足を止めた。
蝉の音が、一瞬の間シンと止まる。
春河は先に歩いていってしまう。
が、動かない木下を不審に思って、振り向いた。
「おい? どうした」
「猪瀬さん、そこでどうしてました」
「あ? は、はは、おかしい夢だろ」
春河は木下の肩に手をまわした。
引退してずいぶん経つのに、老人のわりには力が強い。
「それがな、その世界で猪瀬は令嬢で、王子と婚約してるんだが国外に追放されるんだ。その王子ってのが実は悪者でよ。仲間と別の国を作って、自分を追放した王子やら、周りの悪い国やらと戦っていくんだ」
木下は息を詰めた。
「魔法とか使えてて」
「そうそう」
「で、他の人間よりもめちゃくちゃ強くて」
「うん」
「美少女のくせに、日本酒が飲みてぇとかツマミが欲しいとか言って」
「木下、お前、まるで見てきたように言うんだな」
「俺も見たんです、昨日。その夢」
「何だと?」
「い、猪瀬さんが、紅い髪の美少女になって、中身はおっさんのままなのに、王子と婚約して、振られて、悪役令嬢みたいに国外に追放されて、どんどん仲間を作って冒険して……」
春河と木下は目を合わせた。
互いが同じことを考えていた。
不思議だ。
とても不思議だ。
春河がハッと先に息を吐いた。
「最近は似たようなアニメやらドラマがあるしな」
「ああ、そうですね。どこかで見た話ですよね」
「うんうん、そうだな、ジェンダーレスっていうのか。よくあるよくある」
「不思議な偶然ですね」
「ああ、本当になあ。こんなこともあるんだな」
笑いながら同じ路を歩き、来た道を戻った。
途中で、春河が親戚の待っているという方へと曲がった。
別の場所にある一族の墓の掃除をするらしい。
礼をして別れた木下は、駐車場へと歩いていく。
偶然だけれど、偶然ではない気がした。
何といっても、今日はお盆の一日なのだ。
遠くにいってしまった魂に想いを馳せる時、少しばかり、現実とは違った扉が開いてもおかしくはないのではないだろうか。
「あの人だったら、異世界に転生したとしても、慕われまくってるんだろうな」
車のドアを開けるとむわっと焼けてしまいそうな空気が顔を直撃した。
灼熱の車内の空気を入れ換えようと、木下は窓を開ける。
その瞬間、胸元に入れたスマートフォンが鳴った。
「もしもし。え!? 破水した!?」
里帰りしていた妻からの電話に、木下は叫んだ。
「うん、うん。これから……うん。そうか、頑張って」
そわそわしながら通話を終えた木下は呼吸を落ち着けるように息を吐いた。
春河と偶然にも墓参りをした日に、偶然にも同じ夢を見て、その日に偶然にも辰也と名付ける予定の我が子が生まれる。
木下は笑った。
そんな偶然があってたまるだろうか。
天然の人たらしの先輩は、夢で楽しそうに笑っていた。
「負けてらんねぇな、俺も」
木下はエンジンをかけて、車のアクセルを踏んだ。
蒸し暑さにかげろうの立つ灰色の墓地の景色が、緩やかに動き出した。
END