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とても嬉しい味。


「二人ともお疲れ。おかげで良い経験が出来たよ」

「ははっ『良い経験』って何だよ」

「俺は本当にそう思ってる。自分で何から何まで計画して実行に移すっていうのがこんなに大変だとは思わなかったし、とても充実した一日だった」

「まあな、材料が無くなりかけた時はかなり焦ったりしたけど、これもいい思い出になるってもんよ」


 金券を学祭の実行委員に渡し、店の片付けを終えて近くの駐車場に向かった俺達三人は自販機で飲み物を買い、しばらくの間仕事を終えたという達成感の余韻に浸っていた。


 売上は当初の予想以上のもので、手伝ってくれた栗原と枝野の人件費を時給一五〇〇円としても、一〇万円は手元に残る利益だった。もちろん一般的な商売と違い、賃料が要らなかったり、材料の多くも比較的安く仕入れる事が出来たため、この経験一つで経営のスキルが身に付いたとは言えないものだが、何より楽しく仕事が出来たと思え、現金が一〇万円も手に入った事もあり俺は満足だった。


「じゃあ時給とは別に栗原と枝野で五万ずつ貰ってくれよ」


 俺の言葉に栗原は困惑した様子で断る。


「そんなの貰えないって。柚希が全部計画して、俺達はバイトしてたようなもんだからさ。八時間労働で時給一五〇〇円なんて、貰えるだけでも大満足なわけよ。枝野もそう思うだろ?」

「うん。申し訳ないけど、時給だけお願いしようかな」


 そういう訳にもいかない。俺は彼らが時給以上の働きをしたと思っている。店の事を考えて仕事をし、水も飲まずに接客を続けていたのだ。そんな彼らに賞与としてのお金を渡せないというのは心苦しい。


「いや、これはボーナスだよ。二人で分けて欲しい」

「でもお前……」

「俺は今日の経験が報酬だよ。自分一人で仕事をするいい経験が出来たしさ。頼む、貰ってくれ」


 俺がそれぞれ五万円ずつ入れた銀行の封筒を二人に半ば無理やり押し付ける形で手に握らせる。


「お前……はぁ、五万をぽんってくれるお前すごいよ、ほんとに。自分の取り分も考えないで、よく人に金を渡せるな」

「経験を得られただけでも満足だし、楽しかった。だから良いんだ」


 二人は俺に謝意を述べる。確かにこの一〇万円を三人で綺麗に分ける事も考えられただろう。だが、今の俺にとってお金はあまり重要ではない。働いてくれた従業員に対する感謝の気持ちと報酬こそ、この瞬間に必要なことだと思っていた。それに彼らは友人なのである。贔屓しても罰は当たるまい。


「まあ……気分も良いしな」


 橘さんと連絡先を交換できたという事実だけでも浮足立ってしまう。まだメッセージのやり取りも始めていないのに、こういう風に冷静さを欠いた状態は良くないと分かっているが、それでも自分の心を完全にコントロールするなど無理な話で、酒に酔っているようなふわふわとした心地よさは、かなり冷えた夜の風が吹いても消えないままだった。


「じゃあ、そろそろ帰るわ」

「ああ、今日は本当にありがとう。枝野もお疲れ様」


 二人とは別れ、オレンジ色の街灯で照らされた道を歩いて行く。父から貰ったバーツールセットの入っている茶革製のバッグは程よい重さで、この道具で仕事を出来た事に嬉しさを感じている。


 バーテンダーとして一歩踏み出せたような気がした。技術はまだまだかもしれないが、それでも友人と協力して仕事を成し遂げたということは、俺にとって誇れる事だった。それにお客さんは俺の作る飲み物を『美味しい』と言ってくれた。

 説得力のある根拠は何一つ無いのだが、どんな事であっても上手くいきそうな気がする。


「……ん?」


 人通りがかなり少なくなったキャンパス前の狭い歩道を通ると、若いカップルが目の前から歩いてくる。ただ、片方の女性の顔には見覚えがあった。見覚えどころか、俺は彼女の事をよく知っていた。授業で仲良くなり、映画を見に行く約束を取り付けたが、断られてしまった時の早紀さん本人である。


「ぁっ……」


 気まずそうにして視線を合わせようともせず、ぎこちない会話が彼女と男との間に行き交っていたが、俺は全く気にならなかった。彼女に一切の興味が湧かず、嫉妬の欠片も感じていない。


 それよりも気になったのは、男の身なりというべきか……。容姿の事について言及することが良くないと分かってはいるものの、あまりにも印象が悪かったため、どうしても気になってしまったのだった。


「――で、なんか冴えない奴が絡んで来てさァ、ここでタバコ吸うなとかウザい事言ってくんの。ちょっと声出してビビらせたら逃げていってさァ、マジでだっせーの」

「へ、へー……そうなんだ、キョウくん強いねー」


 その男は左手の指で火がついているタバコを挟んでおり、右手には度数が高めの缶チューハイを持って歩いている。髪は金髪で金属製のネックレスを付けており、ややサイズの小さい黒のTシャツを着ていて、如何にも『ワルそうな』印象だった。ヤンキーっぽいとまでは行かなかったり、特に体を鍛えているような体型でも無かったのだが、関わると面倒そうだと思えたのだ。


 この通りには人はあまり通っていないが、車道には学祭の片付けの関係上、多くの車が行き交っている。二人が並んでこちらへ向かってくるため、すれ違うためにはお互いが譲り合わなければならないが、相手にその気持ちは微塵も無いようである。

 仕方が無いため一旦その場に立ち止まり、彼ら二人が通るまで待っていた。男は俺をひと目見るとこちらへわざとらしく肩をぶつけ、俺は鞄を地面に落としてしまった。


「おいッ! どこ見て歩いてんだよゴラァッ! てめぇ俺の事舐めてんのか!? あぁ!?」


 全くもって面倒だ。見るに彼はある程度酔っているようで、タバコの匂いと共に酒の匂いもしている。突然のイレギュラーな事態に、早紀さんは困惑し、どうすれば良いのか分からないようにその場へと立ったままで、何も言葉を発していなかった。


「俺はそちらが通るまで止まっていましたが」

「はぁ? フザけんじゃねえよてめぇ舐めんじゃねえよオラァ! 殴られてえのか!?」


 こんなレベルの低いやりとりを続ける意味は無い。鞄を拾い上げてこの場を立ち去ろうとした時、男は俺の肩を掴んだ。


「おい待てよ逃げんのかよオラァ!」

「離してください」


 男の方へ向いたと同時に胸ぐらを掴まれる。相手は興奮した様子で大きな声を上げていた。どうやら俺程度であれば、喧嘩で勝てると思ったらしい。


 今回の場合、早紀さんの前で喧嘩をして勝つことでより好感度を上げようという馬鹿馬鹿しい考えのようだが、俺は彼と喧嘩をするつもりも無く、例えそういう事になったとしても負ける気はしなかった。ずっと続けていた筋力トレーニングのおかげで腕は太くなり、胸は逞しく、足は丸太のように成長していたからだった。


 しかしそれは服を着ていない状態で分かる事だ。俺はもともと着痩せする方で、スーツ姿なため体格がそれほど目立っていなかったのである。だからわざわざ喧嘩を売ってきたのだろう。本当にくだらない……と言うより、考え方が子供だ。まあ、それで喜ぶような相手がいるからこういう行動に出るのだろうが……。


「あぁん!? タダで逃げれるって思ってんじゃねえぞ! 金だせよオラァ!」


 俺は彼の前髪を右手で力いっぱい掴み、後頭部目掛けて勢いよく引っ張った。抜けはしなかったものの、かなりの激痛が走ったようで大声をあげている。


「アァーーーーーッッッ!?!?!? いッッッたい!!! 痛い痛い痛いッ!!!」

「離してもらえますか?」


 相手の髪を掴んでいた手を離すと同時に首を絞められ、電柱へ頭を叩きつけられた。相手は滑稽な姿を早紀さんに見せてしまったことにひどく怒っているようで、さらに声を荒らげている。


「お前マジで殺すぞッッッ!!! フザけんなよゴルァッッッ! ヤんのかオラァッッッ!!! 俺の知り合いにヤクザいるんだからなッッッ!!!」


 不思議なもので、こういう奴は『知り合い』に怖い人がいると口にするものだ。だが、身長も体格も俺の方が勝っている中で、彼に対する恐怖心は微塵も湧かなかった。むしろ苛立ち、今すぐ顔を殴ってやりたいと思うほどだったが、暴力を振るう事だけは気が引ける。さっきは髪を引っ張ったとは言え、顔を殴る事にはかなりの抵抗感があるのだった。


「そこッ! 今すぐやめなさいッ!」

「はァ!? 警察かよッ!!! 早紀、逃げるぞ!!!」

「えっ……あ……」

「さっさと走れよ遅えんだよッ!!!」


 早紀さんがうまく走れないのを無理やり引っ張っていく形で逃げていく男は、走ってくる二人の警察官に驚いたのだった。まさか通報されたのかと思い、少々焦ってしまう。

 俺のもとまで走ってきた男の警官は、ついてきたもう一人の警官に対して指示を出している。


「あの二人を追って」

「はいッ」


 気がつけばパトカーまで来ており、俺は複数の警察官に囲まれる事となってしまった。これだから面倒そうな人間とは関わってはいけないのだが……今更仕方のないことだろう。


「君、大丈夫?」

「はい、さっきの人に絡まれてしまって」

「あ、そうだったの。あの人から通報があったから来たんだけどね」


 そう言って警察官が指を指した先には、先程連絡先を交換した橘さんが居たのだった。心配そうな表情でこちらを見ていた彼女は、反対側の歩道でやや距離を保ちながら立っている。


「そうですか……」

「じゃあちょっと名前と住所と電話番号だけ良い?」

「ああ、はい」


 簡単に事情と個人情報を答えた後、俺は橘さんと共に帰る事になった。どうやら店から出た後友人の家で軽く飲み、帰ろうとした所で俺が絡まれている所を見つけたらしい。


「あの、小酒 柚希さん……ですよね。大丈夫でしたか?」

「はい。すみません、面倒な事に巻き込んでしまって」

「いえいえ、絡まれているのに助けないなんて出来ません。それに知らない人でも無かったですから」

「ありがとうございます。本当運が良かったですよ、警察も早く来てくれましたし」


 二人並んで夜の町をゆっくりと歩いている。彼女はこの近くで一人で暮らしているようである。住んでいるマンションの外観を伝えられると、俺はどこなのかすぐに見当がついた。そして幸いにも、そのマンションは俺の家から歩いて十分ほどである。


「別に通報したわけじゃないんです。近くの交番に駆け込んだだけなんですけどね」

「そうだったんですね。本当に助かりました」


 この機会を活用するのはズルいかもしれないが、彼女と親密になる良い機会だ。折角なのでこうしてみよう。


「是非お礼させてください」

「いえ、お礼だなんて」

「いやいや、お礼させてください。『知らない人でも無い』ですから」


 彼女の言った言葉をそのままそっくり返すと、静かにそっと笑った。


「ふふふっ、センスありますね。分かりました、じゃあお言葉に甘えて……と言いたいんですが、今日はもう遅いですから、明日のお昼はどうですか?」

「良いですよ。何か食べたいものとかありますか?」

「そうですね……学校の前のお蕎麦屋さんにしましょう」

「分かりました。時間はまた連絡してください」


 想定外の事が起こり続けた今日、彼女と食事の約束を取り付けた俺は、家に帰ってからバラライカという一杯のカクテルを飲み、眠りについたのだった。酒は楽しい事や嬉しい事があった時に飲むものという父の言葉通り――最高の味だった。

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