失恋は味のない味。
早紀さんに振られてからというもの、俺は筋力トレーニングとランニングを続けている。もうやけ酒など絶対に飲まず、酒を飲む時は必ず休肝日を設け、自分に合った適切なペースで飲んでいた。
「ッふう……よし」
ほとんど毎日続けている腕立て伏せを終え、俺は汗を拭いてシャワーを浴びた。早朝から体を動かすのはとても気持ちが良く、健康的だと思える。
未練が残らなかったわけではない。人当たりが良く、とても女の子らしい女の子で、可愛らしかった。
しかし早紀さんには彼氏が出来たのだ。二人の関係を割いてまでどうにかしようとするのは、下衆な行為と言える。
必要な教材をリュックに詰め、玄関の鏡の前で身だしなみを整えた。さっきまで眠っていた父があくびをしながら出て来る。
「柚希、何時に帰ってくるんだ?」
「昼前に帰るよ」
「あぁ、じゃあせっかくだしランチの作り方も教えるか。今日は水曜日で休みだからな」
店の事を少しずつ出来るのがとても嬉しい。今は恋愛にうつつを抜かしている場合では無く、バーテンダーとしての技術と経営の知識を学ぶべき時なのだ。
「分かった、昼は食べずに帰るから」
「気を付けて行ってこいよー」
朝日がとても清々しい。暑さが和らいで、やがて冬が訪れるための準備をするように涼しい風が吹き、空の青さはとても優しく、自分の中の未練が全て洗い流されたようだった。
自分が少し成長し、大人になったような気がする。異性から好意を拒絶されるという経験はちっぽけで下らない事なのかもしれないが、俺にとっては人生の中で大きな転換点を迎えたようなもので、良い経験だと思えたのだった。
一限の授業を受けるため教室に入ると、俺の肩はぽんっと叩かれた。誰だろうと振り向くと、そこには栗原がいる。
「おはようさん」
「栗原かよ、おはよう」
「失恋の味はどうだ?」
嫌味ったらしく口にする彼の顔を呆れた口調で笑い飛ばす。
「失恋に味なんかあるか? もう一週間も経ってるんだから、未練も何も無いよ」
「おお、その反応は予想外だった。もう次の女の子でも見つけたのか?」
「そんなんじゃない、今の俺はやらないといけない事が山ほどあるんだよ。だから恋愛なんてする暇もないし、気にする時間もない」
「あ、そう」
席につくと栗原はリュックの中から教材を順番に取り出す中で、一枚のチラシを机の上に置いた。その紙に書かれている『学祭 出店者 募集中』の文字を俺は見逃さなかった。
「なあ、それは?」
「これ? さっき学生課の前を通ったら貰ったんだよ。今度の学祭で店を出せるんだと」
大学の学祭で店を出せる事は知っている。特にこの大学は学祭の規模がかなり大きく、わざわざ周りの地区からも見物に来るくらい大規模なイベントだった。
「店か」
「今年は出店者が少ないからって、結構強めに『頼むから出典してください』って言われたけど、正直やる気無いよなぁ」
「うん……店か」
「こういう学祭とかで出る店って、大体たこ焼きとか焼そばとか、あってもベビーカステラとかだろ? そういうチャチいやつしか無いからさぁ」
ありきたりな店ばかりだ。夏祭りか何かであるようなバリエーションしか思いつかない今、多くの学生は美味しいものを提供しようとは最初から考えていないだろう。自分達の思い出作り、単純に面白そうだからという理由で出店する事が悪いとまでは言わないが、折角なら売上、利益も考えてみると良いのにと思ってしまう。
「ま、それが魅力でもあるけどな。うちの大学は夜の九時まで続くらしいし、七時半から八時半までライトアップもされるらしいぞ? 結構楽しそうな事が多いんだよ、ここの学祭」
「……うん、そうだな」
中々面白そうな話だ。夜、ライトアップされたキャンパスで皆が学祭の終わりを楽しむ中、ノンアルコールカクテルで乾杯するなんていう体験は誰もした事が無い上に、そもそも思いつかないだろう。それにせっかくの大学生活なのだ、色々と挑戦出来る機会がこうやってあるのだから、ぼんやりとただ時が過ぎるのを待っているわけにもいかない。
「それなら……よし、バーをやってみるか」
「は? バー?」
「ノンアルコールカクテルなら大学からの許可も下りるだろうし、ただジュースを買って飲むのとは訳が違うからな。思い込みかも知れないけど、色んな人に喜んでもらえると思うんだ」
「え、マジで出店するつもりかよ……」
俺はルーズリーフを取り出して、ボールペンで『出店計画』と書く。頭の中では様々なアイデアが思い浮かび、少しずつ整理しながらペン先を走らせていた。
「バーテンダーとして働くためのリハーサルみたいなもんだよ。やってみよう」
こうして偶然に偶然が重なり、俺は学祭当日にバーを開く事になったのだった。