馬鹿馬鹿しくて悔しい味。
時間が経つのは早いもので、カレンダーの日付はもう十月末だ。こんなにも早く時が流れるとは思わなかったが、やはり毎日が充実していてとても楽しいからこそ、時間の流れが早いと感じるのだろう。三日後には早紀さんと映画を見に行く約束をしているので、とても楽しみである。
社会心理学の講義が始まるまではあと十五分ほどあり、いつものように少し早く教室に着いているであろう早紀さんと詳しい予定を決めるべく、急ぎ足で廊下を歩いていた。目的の教室の手前で一度服装を整えた俺は冷静に教室へと入り、早紀さんの隣の席に荷物を置く。スマホを見ていた早紀さんは俺に気付き、軽く頭を下げて挨拶する。
「あ、こんにちは……」
「こんにちは」
必要な教材を机の上に出そうとしたが、先に予定の事を相談しようと考え、席に座って自分のスマホをつけたまま机に置いていた。画面には地図アプリで映画館の位置が表示されている。
「次の休みに行く映画の事なんですけど、調べてみたら市内の映画館でやってるみたいで。でも結構微妙な時間に上映されるみたいなので、良かったらお昼ご飯も一緒に――」
「あ~……あの~」
彼女は苦笑いのまま申し訳無さそうな表情を作り、口を開いた。
「あの……もう映画行けなくて」
「え? あ、別の予定入っちゃいました?」
「いや、そういうのじゃなくて~……今日一緒に帰るのも出来ないんです。今日っていうか、これからも」
「……はぁ、えっと……どういう事ですか?」
「ん~……えへへ、察してください」
そう言いながら冗談めかした笑みを浮かべた彼女に、俺は何も言えなかった。どういう事か良く理解できないまま、気まずい空気だけが流れている。
「それは……もしかして、彼氏とか……出来ました?」
「ん~……」
考える素振りを見せて言葉を濁した彼女の反応を見た所でようやく理解出来た俺は、徐々に心の中にあった彼女への好意が、一気に焦りへと変わっていくのを感じる。全身の血の気がサァっと引いていき、心臓は今まで感じたことが無いくらいバクバクと鳴っていた。
「彼氏……じゃないんですけど。なんか似たような人っていうか」
「似たような人……? どういう事ですか?」
「昨日ボランティアサークルに入ってる同級生の男の子から相談に乗って欲しいって言われて、四限終わった後に『最初見た時からいいなーって思ってた』って言われて……」
失望した。それ以外何と言い表せるだろうか?
あまりに呆気なく敗北した俺はかなり困惑している。昨日も昼休みはそれぞれ食事を取った後に中庭で待ち合わせ、軽く話をしたのだ。たった一日で俺では無く、サークルに入っている同級生の方を選んだという事実は、俺の自尊心に大きく影響している。
「そろそろバイト落ち着きそうだったので、ボランティアサークル入ろうと思って私が見学に行った時、同じ一年生なので説明してもらったりしたんです。それで……」
「ああ、はい。そうですか」
全身の力が抜けると同時に顔全体が熱くなる。手が震え始め、話すごとに沈んでいく自分の声のトーンに気が付き、俺は何とも思っていないかのように演じ、振る舞っていた。
「そうですか、じゃあしょうがないですね。うん、分かりました。いやー、彼氏出来たんですね、良かったですね!」
「あ……はい」
「良いなぁそう言うの、なんか大学生っぽくて。うん、いいですねそういうの」
「……はい」
「じゃあ映画見に行く話もキャンセルですね」
「はい……ごめんなさい」
「いいですよ、俺は友達と見に行けばいいし」
自分の荷物を持って出来るだけ前の席へ座り、授業に必要な教科書とプリントを机の上に出す。講義が始まっても内容が一切頭に入って来ず、俺は無心でボールペンを握っているだけだった。
講義が終わって帰ろうと席を立った時、俺は早紀さんに対して一切未練を残していないというアピールをすべきだと判断した。とても冷静な思考とは言え無かったのだが、行動へと移した時にはもう考える事すら辞めていた。
「じゃあ、お疲れ様です」
「あ、はい。先輩もお疲れ様です」
建物の外へと出ると冷えた風が俺の体に当たる。あまりのショックに体は震えたままで、深い溜息をついてトボトボと歩き始めていた。彼女と鉢合わせする前に帰らないと……ようやく思考が追いついてきた所で思った事は、まずそれだった。
「お、柚希。授業終わったか?」
イヤホンを外して俺のもとへと駆け寄る栗原は、明らかに様子のおかしい俺を食堂へと連れて行った。セルフサービスの温かいお茶を取ってきてくれた彼の親切心に感謝し、コップに口をつけて一口飲もうとするが、お茶は唇に当たるだけで飲み込む事が出来なかった。
「なあどうしたんだよ? 顔も真っ赤だぞ? なんか理不尽な事で怒られたか?」
「……いや」
「じゃあ単位落としたとか?」
「違うんだよ……違う。俺が前に話した映画一緒に見に行くっていう早紀さんと、さっき授業始まる前に予定決めようと思って話したんだけど、もう一緒に映画も見に行けないし一緒に帰れないっていうから、何でかって聞いたら――」
「分かった、分かったから落ち着いてゆっくり話せよ」
感情が溢れ出す。今にも涙が零れ落ちそうだが、まだ食堂には多くの学生が残っていて、俺は恥をかかないよう少し上を向いたまま話を続ける。
「……早紀さんに彼氏みたいな人が出来たって」
「へぇ……って、えぇ!?」
「はは、振られたわ」
認めたくない現実だ。どうして俺は拒絶されたのだろうか?
出来るだけ紳士的に振る舞い、周囲の学生とは違ってかなり大人っぽく見える点を活かして、丁寧にそれとなく好意を伝えていた。早紀さんの容姿はもちろん、内面の可愛さにも十分惹かれていたのだ。恋愛経験の無さから失敗してしまった面もあるかもしれないが、どうしようもなく悔しさに包まれる。
「そりゃ残念だったなぁ……ってかさ、彼氏が出来たとか、別に好きな人が出来たとかなら分かるけど、彼氏『みたいな』人ってどういう事だ?」
「さあ……もういいよ、俺は気にしない」
「その切り替えの速さはすごいけどなぁ……でもショックだろ?」
「逆にショックじゃない方がすごいメンタルしてるよ。……何なんだろうな、恋愛って」
栗原はこの後バイトが入っているらしく、お茶を飲み干しもせずに小走りで駅の方向へと向かって行った。俺はしばらく食堂でお茶が冷めていくのを見ていたが、流石に辺りが暗くなり始めた時、店の手伝いに行かなければと思い、席を立った。しかし今日は水曜日――父の店での手伝いは休みだと気づいた俺は、重い足取りのまま正門を出ていき、駅の方向へと歩いていたのだった。
自分の部屋に戻ってからは着替える事もせず、パソコンとスマホの予定表に入れられた『早紀さんとデート』という文字を消し、カーテンを閉めて部屋を真っ暗にして、自分のベッドへ横たわったまま布団を頭から被る。頭の中は真っ白になっていて、お酒の事を勉強したり、ステアの練習をする意欲も湧かず、食欲も一切無いままだった。眠るわけでも無く、ずっと体を横にしている。
どれだけの時間が経ったかは分からない。普段なら夕食を作ってくれた父が俺の名前を呼ぶ頃だが、今日に限っては部屋の扉をノックしていた。やはり普段と様子が違う事を悟られた様で、俺はなんとか父の言葉に応える。
「おい柚希、大学で何かあったのか?」
「いや、疲れただけだよ」
「……そうか。晩御飯食べないのか? 今日はサバを焼いたんだが」
「ごめん、友達と食べて来た」
「……分かった」
もう何もかもがどうでも良かった。早紀さんから振られてしまったという事実は俺をずっと苦しめ続け、生きる意味が無くなったようにすら思える。
大声で泣きたい、でも泣けないまま時間は過ぎていく。やがて雨が降り出し、窓に雨粒の打ち付ける音が部屋の中に響いて、この苦しみから逃れるためにどうしようかと考えた末、行き着いた答えは――。
「……これでいいや」
酒だった。
父の目を盗み、調味料が仕舞われている棚から料理用に使う新品の白ワインを手に取り、自分の部屋で直接ボトルに口をつけながら、まるで砂漠で数日彷徨った後に水を飲むかの如く、勢いよく体に流し込んでいく。しかしアルコールのキツさで途中何度もむせてしまい、その度に涙が溢れ、悔しいと思う心の声も漏れていた。
「くっそォ……何でなんだよォ……俺のどこがダメだったんだ……畜生ッ!」
自分でも馬鹿な事をやっていると思う。飲むペースはかなり早く、早速フラフラと酔いが回ってきて、俺は感情を爆発させながら涙を流し続けていた。
そんな俺の様子に父が気付かない訳が無く、ボトルが空になったと同時に部屋の扉は開かれて、どんな時でも冷静さを保っていた父が珍しく動揺し、俺の腕を掴んで力強い口調で名前を呼ぶ。
「柚希ッ……」
俺は何も言えないまま下を向いて、涙を流し続けるだけだ。
「こんなに飲んだからって気分が晴れるか?」
「……いや」
「飲んだからって忘れられるか?」
「……無理だ」
「そうだろ? 飲んで忘れるなんて出来ないんだよ……いいか?」
俺はようやく顔を上げ、父の目を見つめた。
「二度とこんな飲み方するな。お前はバーテンダーになりたいんだろ? だったら酒の飲み方くらい分かってないといけない。こんな馬鹿みたいな飲み方するんなら、バーテンダーはやめとけ。酒を酔うためのものとしか思わないんなら、今すぐ諦めたほうが良い」
父は察しが早い。俺がいつもと違って落ち込んだまま帰ってきた時点で、振られたのだと気づいたのだろう。だから深く事情を聞かなくともこうやって俺を叱れるのである。
本当に馬鹿な事をしている。たかが一度振られたくらいでこんな事になるなんて、俺は全く未熟な人間のままで、酒を飲んで馬鹿騒ぎして迷惑を繰り返す奴等と大して変わらなかった。父の言葉に頷き、俺は謝罪の言葉を口にする。
「……父さん……ごめん」
「……人生、そうやって失恋する事もあるさ。今は苦しいと思うが、時間が解決してくれる。その内どうでも良くなってきて、やりたい事が見つかったり新しく好きな人が出来たりして、乗り越えられるようになる」
まさにその通りだ。俺はこの苦しみを紛らわそうとして、本当に馬鹿な酒の飲み方をした。落ち着いてスマートにカクテルを作ったり、上質なウイスキーやブランデーを提供していた自分の姿は消え、酔うためだけにアルコールを浴びていたのだ。
「酒は嫌な事があった時には飲むな。楽しかったり嬉しかったりする時に飲め、いいな? それが酒との上手な付き合い方だ」
マグカップに注がれた水を何杯も飲み干した俺はすぐに休むことにした。酔いのせいで体が火照り、胃の具合も悪い。しかしいつもと比べてもすぐに睡魔に襲われ、俺は悔しさを感じながら眠りに落ちていった。