錦上に花を添う
私と光織が出会ったのは、高校一年の春、入学式の日のことだった。
「では、背の高い人から後ろに並んでください」
カメラマンが指示を出し、私たちを整列させる。
桜の残り香を纏った春風が、不意に私の髪をさらった。私は右手で髪をおさえる。
「二列目の人、もう少し屈みましょうか」
カメラマンがそう言うと、前列の人たちが中腰になった。一気に視界がひらけた。立ち位置の微調整をしている間、何気なく空を仰ぐと、頭上には雲ひとつない青空が広がっていた。コバルトブルー、瑠璃色、紺青。何色とも言い表せないその青の深さに飲み込まれそうになる。
突然、私の髪に細い指が触れた。
「花びら、ついてましたよ」
驚いて硬直する私に彼女はそう言ってほほえんだ。その笑顔があまりにも綺麗で、息を呑む。
「後ろの、左端の女の子!こっち向いてください!」
カメラマンに注意されて我にかえり、私は目線をカメラに戻した。
「じゃあ撮ります!三、二、一」
カメラマンがカウントをする。写真は苦手だ。表情筋が固まってどうもうまく笑えない。
「もう一枚いきますよ!三、二、一」
集合写真の撮影が終わり、前の方から順に教室へと帰っていく。一番後ろの列の私は、前の人たちが退くまで待っていなければならない。
桜の花が散っていくのをぼんやりと目で追っていると、彼女とふと目が合った。先ほど、私の髪についていた花びらを取ってくれた彼女だ。私は反射的に何か話そうとする。しかし、何を言えばいいかわからず沈黙が流れる。
「宮本さん」
「……はい!」
声が裏返ってしまった。
「私、深山光織って言います」
「宮本さくらです!さっきはありがとう」
「ううん」
彼女は頭を軽く振ると、長い黒髪がふわりと揺れた。
「よろしくね」
そして、はにかむように笑う。
「こちらこそ!……深山さん」
「光織でいいよ。さくら」
光織の声は、まるで今日の空のように高く凛と澄んでいた。
私たちが親友になるまでに、そう長い時間は必要なかった。
私の出席番号は光織の次だ。1学期の初めの席順は出席番号で決まるので、私の席は光織の後ろだった。休み時間になると、光織は椅子を横向きにして座り、後ろの席の私に話しかけてくれる。くだらない話をしては二人で笑いあった。面倒な課題の話、寝癖がひどくて支度が大変だった話、お父さんが育毛剤を使っているところを目撃してしまった話。女子の会話特有の、あの妙な緊張感のない穏やかな時間だった。
私は、人と話すのが苦手だ。話そうとすればするほど緊張して、言葉がうまく出ない。吃りながらもようやく話せたと思えば、誤解され、親しくなる前に距離をとられてしまう。
なのに、光織と話すのは不思議と苦ではなかった。むしろ心地よかった。
ちょうど良い会話のペースは、たぶん光織が意識して合わせてくれているのだと思う。
細やかな気配りと優しさが垣間見えるような光織の口調も、私は好きだった。
お互い部活には入らず、帰りはいつも一緒だった。私と光織に、約束も待ち合わせも必要なかった。ただ普通に帰る日もあれば、駅前のカフェでお茶をする日、図書館で勉強をする日もあった。本屋に行って、光織の好きな小説や作家について教えてもらうこともあった。光織は大の読書好きだった。帰宅ラッシュ前の乗客の少ない電車の中で、互いの肩に寄りかかって居眠りをした。車内があたたかなオレンジ色で満たされるあの時間は、私にとって幸せそのものだった。
光織は、私が知る女の人の中で間違いなくいちばんの美人だと思う。コロコロと変わる表情のひとつひとつが、端正な顔立ちをより一層引き立てる。光織はとても感情表現が豊かで、何がそんなに楽しいのか、ただにこにこしている時もあれば、涙ぐみながらハンカチを手に本を読んでいる時もある。ご機嫌斜めかと思えば五分後にはケロッとしていたりする。そのくせ照れると急に無愛想になる。
そんな光織に振り回され、気がつけば、私と光織が出会ってから一年半もの時が流れていた。季節は秋。入学式の日に集合写真を撮った桜の木は、ひとつ、ふたつと葉を落とし始めている。
中間考査が終わったばかりの和やかな雰囲気の中で、私たちは、一ヶ月後に京都への修学旅行を控えていた。
「お待たせー」
光織は、売店で買ってきたコッペパンと牛乳を私の机の上に置いた。前の席の椅子の向きを変えて座る。私も持参したお弁当を机に広げ、
「いただきます」
と手を合わせた。
「廊下が人でいっぱいで、売店行くのすごく大変だった」
不満そうに言いながら、牛乳の付属のストローを紙パックに挿し込む。
「さっきから廊下騒がしいね」
私が言うと、光織は
「誰かがこれから告白するらしいよ」
と答えた。
「最近こういうの多いね」
「確かに。なんでだろ」
言われてみれば、最近、告白したとかされたとか、振られたとか付き合ったとか、そういう類の噂を頻繁に聞く。
光織は牛乳のパックを机に置くと、コッペパンの袋を手に取って封を開けた。
「修学旅行前だからじゃない?」
そう言って、ぱくっとコッペパンを食べる。
「彼氏彼女がいた方が楽しいからっていう軽いノリで付き合ったところでどうせ長続きなんてしないのにねぇ」
光織はおいしそうにコッペパンを頬張りながら言った。こういうちょっとした皮肉も、光織が言うと茶目っ気があってかわいい。
牛乳の細いストローをくわえ、光織は窓の外を眺めていた。揺れるカーテンと、風になびく光織の黒髪が重なる。今日は快晴だ。光織は眩しそうに目を細めた。
「五限目のL H Rって何するんだろ」
私が尋ねると、光織は
「修学旅行の事じゃないの?班決めとか」
と答えて、コッペパンの最後の一口を食べ終える。
「え、なんの班?」
「二日目の自由行動の時のじゃない?」
「じゃあ寝る時の部屋割は?」
「出席番号でしょ」
「てことは光織と一諸⁈」
「多分ね」
パンの袋を小さく結びながら光織は無愛想に答える。その口角が、ほんの少しだけ上がっているのを私は見逃さなかった。
「うわ、光織にやけてる。かわいい」
私が軽口を叩くと、
「もう」
とそっぽを向いて、ゴミを捨てに席を立ってしまった。逃げたな、と思いながらも、光織のまんざらでもなさそうな表情に頬が緩んだ。
ゴミを捨て、席に戻ろうとする光織を誰かが呼び止めた。誰だっけ、あの人、と思考を巡らせる。目立つ人だから顔は知っているものの、名前が出てこない。
光織は彼と少し話した後、私の方を見た。私が「行ってきていいよ」という意味を込めて目配せをすると、光織と彼は廊下に出ていった。
その後、ひとりで昼ごはんを食べていたものの、廊下は一層騒がしくなり、流石に私も何が起きているのか気になってきた。最後に残していた卵焼きを急いで口に入れ、弁当箱を片付ける。
席を立って廊下に出てみると、かなりの人集りができていた。スマホを掲げている人もいる。少し背伸びをした。見えたのは、人集りの中心にいる光織と、さっき光織を呼びに来た彼。この手の話題に疎い私にも、何が起こっているのか察しがついた。光織は、何も言わずただ俯いていた。
「深山」
しばらくすると、彼は口を開いた。
「えーと、言いたいことがあって……」
そこまで言って、彼は口籠った。彼と光織を囲う人々が、「早く言えよー!」「がんばれー!」などとやじをとばす。彼は深く息を吐くと、顔を上げて
「一年のときからずっと好きでした。付き合ってください!」
と声を張り上げた。その瞬間、一気に歓声が大きくなり、私は反射的に耳を塞ぐ。そしてそれが徐々に鎮まると、観衆の興味の矛先は光織に向けられた。期待と緊張、張り詰めた空気に恐怖すら覚える。
「ごめん」
光織の言葉は、まるで研ぎ澄まされたナイフのようで、張り詰めた空気を鋭く切り裂いた。光織は何事も無かったかのように人集りを抜けると、唖然とする私の横をすり抜けて席に着いた。そして鞄から本を取り出し、しおりの挟んであるページを開いていた。
一年の頃から、光織はよく告白されていた。けれど光織は、誰の好意にも応えようとしなかった。理由も言わずに、ただ「ごめん」とだけ言い残してその場を立ち去るのだ。
このことを光織から直接聞いたことは今まで一度もない。光織が話そうとしないのだ。初めは、光織が隠したいのなら知らないふりをすべきだとも思ったけれど、不可抗力で周りの会話が耳に入ってしまうこともある。そして、それは決していい内容のものばかりではない。
一度、何も話そうとしない光織に訊いたことがあった。どうしていつも告白を受けないのか、と。光織を責めたいわけじゃない。けれど何も言ってくれないのは寂しい。適当に告白を受け入れていれば光織が嫌われることなんてないのに、なぜ頑なにそれを拒むのか。それを訊きたかった。何もできず、ただ光織が傷付けられるのを見ているのはつらい。
そんな私の葛藤を、光織は受け止めてはくれなかった。光織は静かにこう答えた。
「好きな人がいるから」
結局それ以上何も訊けないまま、あの日飲み込んだ言葉を今も引きずっている。
部屋に入ると同時に、光織は敷いたばかりの布団に寝そべった。私も光織に続き、布団に倒れ込む。糊のきいた布団は少しひんやりしていて、布が擦れる乾いた音が心地いい。修学旅行二日目の今日は、班ごとの自由行動だった。京都の街を歩きまわって、足が棒になっている。もう重力に逆らいたくない。一度横になると再び起き上がるのが億劫になってしまう。このまま微睡むのも気持ちよさそうだが、せっかくの修学旅行の夜だ。すぐに寝てしまうのは惜しい。
「京都最高ー!」
光織は両手を大きく広げ、布団の上で伸びをした。「んんん」と気持ちよさそうな声を漏らす。
「それなぁ」
私も光織の真似をして伸びをした。
修学旅行の旅館では、男女別の出席番号順で分けられた四人班で、一部屋を使う。この部屋を使うのは、私、光織、そして同じクラスの女子二人だ。その二人は、部屋に着いてすぐ
「宮本さん、私たち他の部屋に遊び行ってくるね」
と言って部屋を出て行ってしまった。
私はしばらく天井を眺めていた。木でできた天井はだいぶ色褪せていて、ずっと眺めていると、木の模様が人の顔に見えてくる。
「光織」
「ん?」
「天井のあそこ、人の顔みたいじゃない?」
私は木の模様を指差した。
「あー、言われてみれば」
光織はふふっと笑った。
「なんかひょっとこみたい。変な顔」
「確かに」
ちょっとしたことでも笑いが止まらなくなってしまうのは、疲れているせいだろう。
「ふふふ」
「何笑ってんの、壊れた?」
表情筋がゆるんでいるのがわかる。ただくすくすと笑う私を見て、光織も吹き出した。お互いの笑いが伝染病みたいに移って、根拠のないおもしろさが込み上げてくる。
やっと笑いがおさまった頃、私はふと喉の乾きを覚えた。起き上がるのは面倒だけれど、こういうことは一度気になると頭から離れなくなる。水分を欲する身体に逆らうことはできないらしい。私は重い身体を起こして、荷物から水筒を取り出した。
「あ」
水筒が軽い。二、三回振ってみるが、残った水滴が跳ねる音がするだけだ。
「光織ー」
声をかけると、光織は
「なに?」
と答えた。
「水、無くなっちゃってたから買ってくる」
「あー、わかったー」
私は小銭入れを手に部屋を出た。
ドアを開け、細い廊下を左に進み、その突き当りに自販機がある。静かな廊下に、私の足音だけが規則正しいリズムで響く。
自販機の前で足を止めた。ミネラルウォーターの値段を確かめ、桜色のがま口から小銭を出す。
このがま口は、私の一七の誕生日に光織がくれたものだ。桜色の生地を綾どる、銀色の桜の花の刺繍。これを見つけて手に取った時、光織はどんな表情をしていたのだろう。
自販機に小銭を入れて水を買おうとした時、手を止めた。
「あったかいのにしようかな……」
さまざまな飲み物が並ぶ自販機の、下の段のいちばん右にある、ホットココア。
修学旅行では、クラスごとに決められた時間に入浴を済ませる。時間内に全員風呂から出る必要があるので、ゆっくり湯船に浸かることができず、身体が少し冷えてしまっていた。
「よし」
迷った末に下の段のいちばん右のボタンを押した。少し胸を躍らせてココアが出ててくるのを待つ。
「……ん?」
おかしい。お金を入れたのに出ない。まさかこの自販機、壊れているのか。
私の130円!と焦りながら、自販機の横を軽く叩いてみる。
「うわ、え?!」
自販機がガコッと大きな音を立てた。出てきたかなと思い、ココアを取ろうとすると、再びガコッと自販機が揺れる。驚いて手を引っ込める。少し待ってから、もう一度ココアを取ろうと試みる。
「嘘!」
私は思わず声を上げた。出てきたココアは、なんと二つ。
オンボロ自販機に感謝して、私はココアを二つ取り出した。ココアで両手がふさがってしまったので、がま口はジャージのポッケに入れた。ポッケが膨らんでいるのが見てわかり、不恰好だが仕方がない。温かいココアの缶を両手に、廊下を早足で戻る。間違って出た一つは光織にあげよう。
上がった息を整えて、ドアを開ける。
「ただいまー」
部屋に入って、私は少し驚いた。
部屋の電気は消されていたにもかかわらず、部屋は明るかった。すぐに、それは月が明るいからだと気がつく。
青白い月光が窓辺で本を読む光織の影を落としていた。
「光織、なにしてるの?」
私が尋ねると、光織は本から顔を上げ、
「いや、月が明るいなぁと思って、なんか電気消してみたくなっちゃった」
と答えた。
「ごめん、暗いね」
私は明かりをつけようとする光織を
「あ、いや、大丈夫」
と遮って、
「ーそれより聞いて!ココアを買ったら間違って2つ出た!」
と言って、両手のココアを光織に見せた。
「何それ!いいなー」
「いや、いいなーじゃなくて!これ、光織にあげる。一緒に飲も!」
「え、いいの?ありがとう」
光織は、読んでいた本を閉じ、小さなテーブルの上に置いた。どうやら、光織が今読んでいるのは夏目漱石の『こころ』らしい。私は、右手に持っていたココアを光織に渡し、窓辺に立つ光織の隣にならぶ。
あたたかいココアの缶を、つめたい両手で包み込んだ。
「じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」
缶のプルタブを起こすと、カシュ、と空気の抜ける音と共に、甘い香りが広がった。
ふと光織が口を開いた。
「月、綺麗だね」
光織は、伏し目がちにぽつりと呟いた。私は窓辺から夜空を見上げる。
「ほんとだ!きれい……」
十一月の澄んだ夜空には、煌々と輝く月があった。
しばらく月に見惚れていると、ふと光織の視線を感じた。私が光織の方に視線をやると、光織と私の視線がぶつかった。
私は目を逸らすことができなかった。光織も目を逸らさなかった。彼女の魅惑的な微笑みから、私はモナ・リザを連想した。光織の感情がみえなかった。底なしの沼に沈んでいくような感覚をおぼえた。幸せなような、悲しいような、いろんな感情が混ざって濁った沼だ。視線という名の細い糸でやさしく縛りつけられ、ゆっくりとその沼に沈んでいった。
静寂は、ドアが開く音によって破られた。
「二人とも何してんの?」「え、暗っ」
相部屋の二人が戻ってきたと同時に、光織と私の視線は、いとも簡単に解けてしまった。
光織はココアを飲みながら、部屋の明かりを付ける。私も少しぬるくなったココアを口に含んだ。
明るくなった部屋からもう一度、月を見上げる。闇に浮かぶ淡い月は、静かな輝きを纏っていた。でも、月も綺麗だけれど、光織の方がずっと綺麗だ。私にはそう思えた。
修学旅行が帰ってすぐの事だった。激しい動悸と息切れ、発熱などの体調不良が続き、私は母と病院に行った。すぐに病院で検査をした。
心臓の難病だと言われた。
すぐに入院、治療を開始したけれど、あまり効果は出なかった。完治するためには移植するほかないと医者に言われたものの、ドナーはそう簡単には見つからなかった。
ベッドのテーブルに、一冊、二冊、三冊と本が積み上げられる。
「いつもありがとね、本って結構重いのに」
「いいよ。こんなのでいいならいくらでも貸すから」
入院してからの私は、光織から借りた本を読んで、一日の大半を過ごしていた。私が、絶対安静の入院生活は退屈だと嘆いていた時、「じゃあ私の本、貸そうか?」と光織が提案してくれた。純文学、推理小説、時代小説、幅広いジャンルの本を読む光織が選ぶ本は、どれもおもしろかった。
私と光織は本について話すことが多くなった。いちばん好きな登場人物は誰か、好きな場面はどこか。本を読むのは楽しかった。でも、私にとっていちばん楽しかったのは、本を通じて光織の価値観や好み、どんな表現が好きで、どんな台詞に感動するのかを知ることだった。本は光織の世界だった。
病気について、ちゃんと自分の口で話したのは光織だけだった。
自分の交友関係の狭さは自覚していた。それでも、自らの口で、自分の運命を語ろうと思える人は、光織だけだった。
病気になって、私の持っているものがいかに不安定で、不確かなものかを知った。ただ、何もすることのない膨大な時間だけを持て余していた。
もうこのまま、私は何もかも失くしてしまうのかと思った。次第に、手をひろげて大切なものを抱えていくのにも疲れてしまった私は、手を広げるのをやめた。12月の初め、とても寒い日のことだった。私が抱えていたものは呆気なく消えてしまった、はずだった。
光織が私の隣にいてくれた。何も言わなかった。私を
光織は、私が失くしたものをひとつひとつ、丁寧にすくいあげて、私の手に戻してくれた。
「結構積もってきたね」
光織が窓の外に目をやる。
「ホワイトクリスマスか。いいね」
私は、白く染まる街を眺める。
「さくら、これ」
光織は、茶色い鞄の中から、綺麗にラッピングされた一冊の本を取り出した。
そして、
「メリークリスマス」
と言って、笑った。
「え……嘘……」
私はそれを受け取り、丁寧に包装を取る。
「『星の王子さま』……?」
紺色の表紙に刻まれた、金色のタイトルを口にした。
「私の、いちばん好きな本」
光織はそう言って椅子に腰掛けた。
「この作者のサン・テグジュペリって、フランス人なの」
「うん」
「……それで、私ね」
光織は、凛とした声で言った。
「大学でフランス文学を勉強して、将来は、小説家になりたい」
私は、安心した。
多分、この瞬間を、私はずっと待っていた。
光織は、「未来」の話を、私にほとんどしたことがない。高二の冬という時期にしては、不自然なくらいに。光織は多分、「未来」がないかもしれない私の前で、その話をすれば、私が傷つくと思っていたのだろう。そんなことないのに。傷つくどころか、私はいま、こうして光織の「未来」を見て、心から嬉しいと思えるのに。
顔を上げると、光織と目が合った。
光織はいつの間にこんな瞳をするようになったんだろう。その瞳には、迷いや不安、夢への希望、たくさんの感情が宝物のように詰まっていた。出会った頃にはなかった、強さがあった。
追いつけない。
そのとき私はそう悟った。もう光織は、私の隣にはいない。私の瞳に、あの輝きはない。
私は光織がくれた本に目を落とす。
「本、ありがとう」
私は本の表紙を撫でる。光織の夢の感触を、確かめるように。
「……光織が書く小説、楽しみにしてるね」
光織の目を見て言った。光織の目が潤んで、そして大きな雫がぽろぽろと溢れた。
「うん」
光織はしっかりと頷き、笑ってくれた。
窓の向こう側では、クリスマスのイルミネーションが街を彩り始めていた。
大晦日、お正月、バレンタインとイベント続きの世間に置いていかれたまま季節は巡る。三月、病室の窓から見える桜の木は、薄紅色の花を誇らしげに咲かせている。
私は休学していた高校を退学した。病気の発作は比較的落ち着くようになったものの、ドナーは依然として見つからないままだった。
光織は高校三年生になり、フランス文学の研究で有名な教授がいるという関西の大学を目指し、私の病室にいるときも問題集とノートを広げ、ペンを走らせるようになった。
私が入院している病院は光織の家からそれほど遠くはない。それでも片道一五分はかかる。光織が病室を訪ねてくれるのは嬉しいけれど、同時に、無理をさせているのではないかという心配もあった。しかし、私が
「無理して私のところ来なくてもいいんだよ?」
と言うと、少し強い口調で
「さくらとの時間を犠牲にして受かったって、私には何の意味もない」
と返されてしまった。
そんな日々を過ごすまま、梅雨が明けた。夏になったらしい。壁にかけられたカレンダーの七月の文字を眺める。
光織は今まで、私に会う時間を捻出してくれていた。しかし、さすがに夏休みに入ると、光織もあまり病院に来られなくなるらしい。そこで、受験前の思い出作りに、二人で花火が見たいという話になった。
「花火大会、ですか」
主治医の先生は、私が渡した市の花火大会のチラシを見て、考え込む。
「友だちと行きたいんです」
私がそう訴えると、顎に手を当てて、私の検査結果が表示されたパソコンの画面をしばらく見つめる。そして「うむ」と頷いて私の方に身体を向けた。
「大丈夫ですよ。ここ最近宮本さんの体調も安定してますし。細心の注意を払い、応急処置なども心得た上で、ということなら。気分転換にもなるでしょう。いいと思います。」
「本当ですか?!ありがとうございます!」
私の体力も考慮して、一八時から二〇時までの二時間だけ外出許可が出された。
私と光織は、私の体調が急変した時の応急処置や、救急車を呼ぶときに伝えておくべきことなど、事細かに注意をされた。ただ花火大会に行くだけで、重い責任を背負わせてしまった光織にはすごく申し訳なくて、私は何度も謝った。その度に光織は「花火大会楽しみだね」と屈託のない笑顔を私にみせてくれた。
夏休みに入り、学校が休みの光織は、久しぶりに私の病室に遊びに来ていた。いつものように私は読書、光織は勉強をしている。
「さくらって、花火大会の時の服、どうする?」 光織が不意に手を止めて尋ねた。私は顔を上げて「どうって?」と聞き返す。
「浴衣とか。着ないの?」
「あー、どうしよう。光織は?」
「お母さんのお下がりがあるけど、さくらに合わせるつもり。さくらが着るなら私も着るし、さくらが着ないなら私も着ない」
それを聞いて、私は「じゃあ着る」と即答した。
「なんでよ」
「光織の浴衣が見たいから」
「え……」
光織はこういうことを言われるとすぐ照れて黙り込む。私はそれをわかっていてわざとからかうのだ。光織は
「じゃあ着る」
と小さな声で答えた。耳の端が少し赤くなっている。
「あ、さくら。ちょっとテレビつけていい?」
光織が思い出したように言う。
「もちろんいいけど……。何か見たいのあるの?」
「何かね、NHKでいろんな国を旅する番組があるんだけど、今日と来週がフランスなんだよね」
光織がリモコンを手に取りテレビをつけた。
『昨年、東京都○○区で起きた飲酒運転事故から、はや一年の月日が経ちました。事故現場にはご覧の通り、たくさんの花などが供えられて……』
テレビをつけるとニュース番組が放送されていた。光織がチャンネルを変えると、フランスの美しい街並みがテレビ画面に映し出された。
「うわぁ、綺麗」
光織は恍惚としてテレビの映像に見入っている。
シャンゼリゼ通りを歩く日本人女性のレポーターが、女性の2人組に声をかけた。レポーターの後ろにいる男性は通訳らしい。
『Bonjour. Nous sommes une émission de télévision japonaise. Vous êtes Français ?(こんにちは。私は日本のテレビ番組の者です。お二人はフランスの方ですか?)』
『Oui.(えぇ)On s'en va aujourd'hui.(今日は2人でデートなのよ)』
『Eh bien ... Quel genre de relation avez-vous ?(えっと……。お二人はどのようなご関係でいらっしゃるんですか?』
『Mari et femme. En fait, je viens d'avoir une place le mois dernier !(夫婦よ。実は先月籍を入れたばかりなの!)』
「あ、そっか、フランスって同性婚できるのか……」
私は独り言ちた。光織も
「いいなぁ」
と呟く。
「フランス、行けるといいね」
フランス留学も光織の密かな夢の一つであることを私は知っている。
私がそう言うと、光織は
「うん」
と大きく頷いた。
「何かやる気出てきたかも」
「テレビ消す?」
「うん。ありがと」
光がノートを開き、再びシャーペンを走らせる。私はリモコンを手に取り、テレビを消した。
「おぉー!」
思わず感嘆の声が漏れる。私の周りにいる看護師さんやお医者さんも同様のリアクションだ。
光織の白い肌がよく映える、花模様が施された藍色の浴衣と真紅の帯。綺麗に結い上げられた黒髪には、華奢な簪が上品に揺れている。
はじめは照れ笑いをして俯いていた光織だったが、私がしれっと懐からスマホを出して写真を撮りはじめると「恥ずかしいからやめて」と、軽く頭をはたかれた。
「いいわねぇ、浴衣。2人ともお似合いですよ」
看護師の女性は、私と光織を見て、にっこりと笑った。
「じゃあ、何かあったらすぐ電話してください。さくらちゃん、光織ちゃん、楽しんできてね」
「はい!」
黄昏時の河川敷を、立ち並ぶ屋台の喧騒が彩る。一八時三〇分頃、私たちは花火大会の会場に到着した。
「焼きそばお待たせしましたー!」
「兄ちゃん射的上手いじゃねぇか」
「おい、お前今日車だろ?やめとけって」
「いいだろ少しくらい」
「パパ!わたあめたべたい!」
四方八方からたくさんの話し声が聞こえてくる。活気に溢れるその風景に、私は胸を躍らせ、高揚感に浸っていた。
「さくら」
屋台を一通り見て、少し開けたところに出ると、後ろで車椅子を押してくれていた光織が立ち止まった。振り向くと、光織が手に提げていた巾着からスマホを取り出している。
「花火。もうすぐ始まるよ」
光織が私に見せたスマホのロック画面には、18:58と表示されていた。花火は一九時からだ。
一縷の閃光が、暗闇の中を駆け抜ける。
まるで時が止まったかのような静寂が辺りを包んだ刹那、その光は鮮明に花開いた。
火の花が、夜に咲く。
爆発音が熱帯夜の生温い空気を切り裂く。
一発目に続き、二発目、三発目と、花火はその華やかさを増していく。私はこの花火を、ちゃんと脳裏に焼き付けて、刻み込まなければと思った。一瞬たりとも見逃すまいと、必死だった。
頬を伝う雫にも、気がつかないほどに。
「綺麗……」
私の隣で夜空を見上げる光織の、瞳の中に火の花を見た。美しいその花は、私を強く惹きつけて離さなかった。目が少し眩んだ。
私は光織の肩に触れて、名前を呼んだ。
「光織」
花火に見入っていた光織は、我に返って
「ん?何?」
と答えた。
「時間」
私の手元で光るスマホが示す時間は、一九時三六分。
「……帰ろう」
光織は私の背後に回り、私の車椅子を押そうとする。
「いいよ。自分でする」
花火大会が終わるのは二〇時。二〇時までに病院に戻らなければならない私たちは、花火を最後まで見ることはできない。
河川敷沿いの道は、路上駐車をして花火を見る人々や、帰る人々でごった返していた。穏やかな時間を噛み締めるように、私と光織はゆっくりと病院への道を行く。
「夢みたい」
光織は言った。
「またこうして、前みたいに二人で出掛けられるなんて」
嫣然とする彼女を横目に、
「私も」
と呟く。遠くで花火の音がきこえる。フィナーレに向けて、花火は一層激しさを増していた。額に脂汗が滲む。心臓の鼓動が大きく、速まる。
どうして、今。
「……さくら!」
「もしもし、さくらが!……はい、意識はあります。……まだ河川敷沿いの道です。ただ人が多くて通れるかどうか……はい!」
「何だ?」「大丈夫か?」「いや、なんか女の子が……」「ったく、病人が祭りなんか来んなよ……」
雑踏の中で、光織の声がきこえた。
「逃げろー!!」
誰かがそう叫んだ。悲鳴が津波のように押し寄せてくる。遠のく意識の中で見たのは、一台の暴走車。
最後の花火が爆ぜると同時に、私の意識は途切れた。
『8月28日の20時ごろ、東京都〇〇区で飲酒運転事故が発生しました。暴走した車は、一人の女性を轢いた後、道路の脇の河川敷に転倒しました。この事故で、都内の〇〇高校に通う深山光織さん、十八歳が死亡し、車が転倒した際に、三人が骨折、捻挫等の軽症を負いました。警察は、この事故で、無職の立川和哉容疑者を危険運転致死傷罪の容疑で逮捕しました。立川容疑者は、「同日行なわれていた花火大会の会場で飲酒後、近くに路上駐車していた車で帰宅しようとしていたところ、居眠りをして事故を起こした」と供述しています。』
テレビ画面に、モザイクがかけられた事故現場の映像が流れる。騒然とする事故現場には、転がった車椅子と、その横で意識を失っている私。救急車に運びこまれる少女の藍色の浴衣は、鮮血で染まっている。
私は、テレビを消した。そして、吐いた。
あの時の映像が、頭の中で何回も、何回も、何回も何回も何回も、繰り返される。テレビみたいに、一時停止することも消すこともできない。
私は、その瞬間は見ていないはずだ。でも、頭が私の言うことを聞かず、その時の映像を勝手に作り上げて脳内再生を繰り返すのだ。何度も見た。
光織が、死ぬ瞬間を。
あの日、私は発作を起こした。
光織はすぐに病院に電話し、私を助けようとした。救急車が通る道を確保するため、必死に周囲の人々に呼びかけた。しかし、雑踏の中では、光織の声は少しも届かなかった。
突然、人でごった返していた道が嘘のように開けていった。それと同時に、悲鳴が津波のように押し寄せてくる。その道の先に見えた、暴走する車。
車は、私と光織のいる方に走ってきた。私は発作のため、自力で逃げることができなかった。光織は私を助けようとして、私を車椅子ごと強く押した。道路脇の河川敷に投げ出された私は、意識を失った状態で、斜面を転がった。
私を助けた後、光織はその場で数秒立ちすくんだ。
そして、暴走する車と正面衝突した。
ここまでが自分の記憶と、メディアの情報を照らし合わせたあの日の事故の真相。
ここからは後に人から聞いた話だ。
光織は、救急車が到着する頃にはすでに瀕死の状態だった。
絶望的だった。
奇跡が起きたとしても、植物状態が精一杯だろうと思われていた。頭部を強打し、複雑骨折した光織は、もう、どうしようもなかった。
必死の救命処置も虚しく、光織は息を引き取った。
同時に発作を起こして救急搬送された私は、すぐにでも心臓移植手術が必要な状態だった。医師たちは頭を抱えた。すでに手遅れの光織と、今すぐ移植手術をすれば助けることができる私。
この状況でできることがあるとするならば、光織の心臓を私に移植する、それ以外なかった。
判断は私と光織の両親に委ねられた。
私の両親は当然だが手術を希望した。問題は光織の両親だった。突然娘が事故で亡くなったと知らされ、その上、臓器をくれというのだ。普通の親なら正気ではいられないだろう。
それでも、光織の両親は、手術を希望した。光織の父親が、小さな声で、なけなしの理性を絞り出すように、「さくらちゃんを、たすけてあげてください」と言い、母親はその横で、なにも言わずに頭を下げた。
後に光織の両親にその理由を訊いた。光織はドナー登録をしていたらしい。ある日突然、ドナー登録をしたいだなんて言い出すものだから、光織の両親は驚いたらしい。そして、それは去年の秋だったという。本人が望むのなら、と光織の両親は、手術を希望したのだ。
そして、光織の心臓を、私に移植する手術が行われた。
光織と私が病院に運び込まれてから、五分も経っていなかった。
心臓移植手術は無事成功し、私が目を覚ましたのは事故から三日後のことだった。私が事故で負った怪我は、車椅子ごと河川敷を転がった際の、右腕の骨折だけだった。
胸に残る大きな手術の痕の下では、光織の心臓が穏やかな鼓動を刻んでいた。
あの日から二週間、私の術後の経過は良好で、いくつか行った検査はすべて問題無しという結果だった。私は退院できることになり、今日は入院生活最後の日だ。今日中に病室の片付けを済ませ、今夜は泊まって、明日の朝帰宅する事になっている。母に手伝ってもらいながら約10ヶ月を過ごした病室の片付けと荷物の整理をした。不要な荷物は先に母に持って帰ってもらった。
ベッドの中で、窓から見える空が暮れていく様子を眺めていた。あっという間に夜になった。私は、本を読み始めた。光織が一番好きだと言った本だ。
『レオン・ウェルトに
読者の子供たちにお願いがある。ぼくはこの本を、ひとりのおとなにささげたいと思っている。そのことを許してほしいんだ。そのわけはこうだ。そのおとなというのは、ぼくにとって、世界じゅうでいちばんの親友だからだ。』
私は読み続けた。ゆっくりと、丁寧に。何時間もかけて、文字がぼやけても、ページに雫が落ちて滲んでも、私は読むことをやめなかった。
病気が見つかった時点で、私は光織と関わるのをやめるべきだった。私が光織の人生を縛っていた。私が光織の未来を奪った。光織は、私を庇って死んだ。光織は、心臓さえも私に捧げた。
後悔は、かぞえきれないほどあった。
でも、抱えきれないほどの、思い出があった。
止まらない後悔と涙の底で、私の中に残ったのは静かに鳴る心臓だった。苦しくて仕方ないのに、その温かさが心地よかった。気が付けば、私はひとり声をあげて泣いていた。光織がこの世界を去った日から、私は初めて泣いた。
そうして最後まで読み終えると、私は目を閉じた。そのまま深い眠りについた。こんなにちゃんと眠ることができたのは久しぶりだった。目が覚めた時の少しひんやりとした空気は、私の心の温度とよく似ていた。窓から見える空の東の方が、明るくなっていることに気がついた。
この世のものとは思えぬほど、綺麗な朝焼けだった。
退院後、私は通信制の高校に入り直した。前の高校は入院する際に休学し、そのまま復学することなく退学してしまっていた。これからの事を考えると、やはり高校は卒業しておきたい。もともと私が通っていた高校が、東京でも上位に入る進学校だった事と、入院中も細々と勉強は続けていた事もあり、高校卒業にはそれほど苦労しなかった。
二度目の高校生活の中で、私には夢ができた。光織の夢でもあった、小説家だ。入院していた時、私は光織から借りた本をいつも読んでいた。来る日も来る日も、光織の本を読んでいるうちに、気付けば私もかなりの本好きになっていたのだ。
二十歳の時、光織が目指していた大学の文学部に合格し、大学に通いながら、勉強の合間に小説を書くようになった。しかし、小説を書くというのは想像していたよりも遥かに難しかった。最初は一週間かけて原稿用紙五枚分くらいの小説しか書けなかった。もちろん、ストーリーも文章も、今では恥ずかしくて読めないような出来だった。少し自信も実力もついてきた大学二年生の頃、初めて書き上げた長編小説を、新人文学賞に応募した。淡い期待を胸に結果を待ってみたものの、そう上手くいくわけもない。結局その作品は、一次審査すら通らないまま、今もパソコンのどこかのフォルダに眠っている。それでも、就職活動の片手間で小説を書き続け、これで最後と腹を括り応募した文学賞で、私は新人賞を受賞した。今はいくつものバイトを掛け持ちしながら、駆け出しの作家として毎日執筆に明け暮れる日々を過ごしている。
小さなアパートの古びた窓から見える桜は、やわらかい月明かりを纏い、儚く散っていく。桜の花を見て思い出すのは、高校の入学式の日だ。そして、二人で一緒にご飯を食べた昼休み、修学旅行の夜、病院での日々、そして花火大会。幾度も追憶したその日々を、今年もまた、繰り返す。きっとこれからも、私は光織との思い出を後生大事に抱えて生きていくのだろう。消える事のない、胸の傷痕と一緒に。
「光織」
何気なく、その名前を呼んでみる。
「今日は、月が綺麗だね」
私は呟いた。修学旅行の夜、私の隣で月を見ていた彼女は、今、私の中心で静かに生きている。
「月、綺麗だね」
記憶の中の、光織の声がきこえた。
「月が……綺麗……」
私はその言葉を反芻した。
かの文豪、夏目漱石は英語教師時代、『I love you.』という一文をこう訳したという。
『月が綺麗ですね。』と。
「光織……」
涙が、頬を伝った。
「愛してる」
私はこの物語を、ひとりの少女に捧げたいと思っている。そのことをどうか許してほしい。そのわけはこうだ。その少女というのは、私にとって、世界中でいちばんの親友、そして、愛する人だからだ。
私と光織の青春に、桜の花を添えて。
宮本さくら