未読:祐白今どこにいる?バイト中?ちょっとこれからそっち行くね。
※書いたのが結構前なので、就活事情などが確実に今と違うと思います。ご了承くださいm(_ _;)m
喫茶麝香堂の磨き上げられたドアを開くと、年季の入ったドアベルが軽やかに響く。
「うー……ドアベルすら頭に響く」
奥から顔を出したマスターが、見るなり軽くいらっしゃいと言うとすぐに頭をひっこめる。
気が付けばすっかり常連となっていた。
私は頭痛をこらえながら店内を見回す。
平日午前はまだ客が少なく、奥のボックス席に一人で座る常連の老紳士しか見受けられない。
カウンター席に座って頭を抱えていると、呆れた様子で眼鏡の書生が水を出してくれた。
「また呑みすぎたの」
和装が板についた童顔の若者に、慣れない人は時代を間違えたかとどっきりするだろう。
ブロウフレームの眼鏡の奥、平らかな感情を湛えた眼差しで佑白は私を白々と見た。
「いい加減学習すれば」
「はは。まあ、昨日はちょっとね」
黒縁のブロウフレームに黒髪、書生衣装に襷がけした佑白は堂に入った佇まいで、マスターが指定制服にしたくなった気持ちもわかる。
今日も相変わらず似合っているなあと思いながら、私は遠慮なしに見物する。
「……ここ、学生が来ないから安心してバイトしてたのに」
「コスプレ衣装、やっぱり見られたくないの?」
「コスプレって言われるから、見られたくないの」
コスプレ、に力を入れて言いながら珈琲豆を鈍い銀色の電動ミルで挽く。
続いてフラスコに水を注ぐと、カウンターに添うように並べられた円盤のようなビームヒーターの上にセットした。
ハロゲンランプが点灯すると、暗い店内にほんのり橙が浮かび上がる。
この瞬間が私は好きだ。
「あ、今日はカツサンドいらないから」
光をうっとり眺めつつ、私はいつも注文している名物を先に断わっておいた。
「確かに、今の佐紅には非常にもったいない。非常に」
さらりと棘を含んだ言い方をしつつ、佑白はロートに豆を入れてハロゲンランプのライトを消す。
ロートをフラスコにセットしたのち、再びハロゲンランプが灯ると、次第にぶくぶくと沸騰したお湯がロートへと流れ込む。ランプの光がお湯に反射して万華鏡のようだ。
「ねえ、佑白」
「なに」
「私、恋しちゃったかも」
眉を寄せた難しい顔をして、佑白は一旦手を止めてこちらを見た。
「俺に? 今更?」
「寝言は染色体を揃えてから言ってよ」
「そっちこそ酒を抜いてから来てくれないかな。店の雰囲気に関わるし」
「酒と女と恋って、なんか明治っぽくて素敵だと思わない?」
すると佑白は営業の微笑を作り、手のひらをスッと外へと向ける。
「お客様、恐れ入りますが泥酔したお客様にはお引き取りいただいております」
「ごめん、ごめんって」
それきり佑白は沈黙し豆と湯を混ぜ始めたので、私も邪魔をせず、真剣にヘラを動かす彼眺めた。
降りた濃い睫と黒々とした瞳が夜の海のように底が知れなくて、梅雨の時期に掘割に年上女と飛び込んで情死する書生のような匂いがする。
友人ながら彼は物凄く雰囲気があると認めざるを得ない。
学生にとって敷居が高いカフェでよかった。
そうじゃなきゃ、佑白目当てに黄色い声の客が押しかけて来る。
ハロゲンランプが消え、珈琲がフラスコに滴り落ちてきた。
佑白は陶器のコーヒーカップで出来立てのコーヒーを出してくれる。
この店特製ブレンドの一番軽い風味の珈琲だった。
ブラックで呑んでも、珈琲の渋みがなくて柔らかい。濃い目の紅茶と錯覚するほど柔らかな味だ。
「――で、恋に落ちたってどうしたの」
「昨日の打ち上げ、佑白は来てなかったよね?」
豆を捨てながら彼は頷く。
「ここのバイトあったし、あまり興味ないし」
私は昨晩の出来事を話した。
謎の女性との出会い、彼女と行った二次会。
彼女の家らしき場所での彼女の言葉。
気付いたら自宅に帰っていたこと。
結局、彼女の情報を何も知らないまま分かれてしまったこと。
そして――
「アトラス・シトラス。ねえ」
途中何度か仕事を挟みつつ話を聞いてくれた祐白は、唯一の手がかりを口にする。
「……全然手がかりでもなんでもないよね」
「そう言わないでよ。それ以外の情報、何にも得られなかったんだから」
「諦めたら?」
「やだよ」
私はこぶしを握る。
「あんな風に受け入れてくれる人、初めてだもん」
力む私に対し、佑白は眼鏡の奥から悲惨なものを見るような眼差しを向けた。
「こんな女、からかうから……」
「か、からかわれたって決めつけないでよ」
「本気だと思うの?」
冷たい眼差しで真っ直ぐ問われると自信がない。
言い淀んでいる間に佑白はてきぱき食器を洗う。
「本気だったら名前も連絡先も教えてくれるよね。俺だったらそうする」
「佑白が本気になったところなんて見た事ないけどね」
「見たい?」
「勘弁」
媚を含んだ流し目を送られたって、私の心はぐらりとも揺らがない。
惚れるには本性を知りすぎているし、第一、佑白は男だ。
だけどこの笑顔に弱い女が大量にいることも私は知っていた。
「あっそ」
佑白も慣れたもので、あっさりと媚びた表情を無くすと私の空いたコーヒーカップを取り上げる。
「アトラス・シトラスなんてよくわかんない単語を手掛かりにするより、サークルの名簿を見ればいい話じゃないかな。サークル部員だろうが外部からのエキストラだろうが、関係者は連絡先を書いてるでしょ」
「そっか」
私たちの所属する映像制作研究部は学外の人との交流する機会が多いため、出演した外部の人を名簿に記録する決まりとなっている。
焦らずとも部室に行けばよかったのだ。
今日の昼はサークルの定例会もあるのでちょうどいい。
急に肩の力が抜け、私は大きく伸びをした。
二日酔いの頭ではそんな簡単な事も思いつかない。
安心したと同時に彼女と再会できる期待で気分が良くなってくる。
「せっかくだからカツサンド、食べてこっかな……♡」
私はカツサンドを追加注文しようとしたが、佑白は半眼で奥に一旦入ると、カツサンドのソースを少しスプーンに乗せて戻ってきて私の前に突き出した。
「うええ」
甘く軽やかな香りに、消えたと思っていた吐き気とが再びせりあがってくる。
佑白は顎で外を示した。
「帰りなよ。もう人が増えるし、第一それじゃ食べられないんじゃない」
「……はい」
私は泣く泣く会計を済ませ、上を向いて深呼吸をしながら大学までの行程を堪えた。
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部室の中から熱のこもった男の声が響いてきた。
腕時計を見ると時刻は十一時半、まだ十二時半からの定例会には早い時間だ。
「待って」
入ろうとしたところで呼び止められる。
小走りで、私服姿に戻った佑白が追いついてきた。
「早かったね」
「あの後すぐ上がりだったし、地下鉄乗って来たから」
分厚い生地のパーカーにダッフルコート、マフラーに顔を埋めた私服姿の佑白は、先程の書生姿よりぐっと童顔が目立つようになる。
バイト中の真剣な眼差しときびきびとした所作が無くなるせいもあるのだろうが――
率直に言えば地味だ。
地味とはいえ、どこまで造作ない恰好をしようが、女子学生は目ざとく彼の引力に引き寄せられているようだけれど。
「おはようございます」
二人して挨拶しドアを開くと、そこには既に三人ほどの先客がいた。
部室の手前に置かれたコタツにいるのはリクルートスーツ姿の三年副部長・甲原義一郎。
後輩の一年・鈴木乱。
そして窓際に置かれたPC前でDVDに集中している同学年の二年女子・滝口みすずだ。
「でな、俺が――」
「はい、あー……」
副部長が唾を飛ばしつつ身振り手振りを交えて武勇伝を語るのを、乱――ランランは圧倒されながら聞かされていた。グループディスカッションで他の就活生に先手を取られたのを、副部長が鮮やかに切り返した時の話らしい。
「先輩。ランランに就活の話、まだちょっと早すぎじゃないですか」
「甘いな最上」
精力みなぎった眼差しで射抜かれ、私もうっ、と気圧される。
「一年の間から強みになるものを意識して学生生活を送っていると全然違うんだぞ」
「まあ、そうかもしれないですけど」
「最上も聞いていってもいいんだぞ。女子の就活はどうなのか知らんが」
「わ、私は公務員試験組なので――」
「そうは言うけどな、試験に失敗したら最上も関係する話じゃないか」
失礼だな!
――私は内心毒づきつつ、コタツの上に並べられた、副部長が書いたらしいエントリーシートやら企業分析シートを見下ろす。
ほぼ副部長の自己愛で広げられたそれらを前に、ランランは拒否もできず「助かります」と引きつった笑いを浮かべている。
私はコタツを回避しつつ、さっさと逃げて本棚を見ていた佑白の元へ向かう。
壁際を覆うように設置された手作りらしさが溢れる本棚には歴代OB・OGが置いていった映画や映像作品やら、映画関係の雑誌やらサブカル雑誌、これまでの作品が大雑把に分けられていた。
名簿ノートもこの棚に並んでいた。
色々あって、サークル活動に関係した部外者の連絡先はここに書くようになっているのだ。
五冊より古いものは取り出しにくい奥のケースにしまってあるのだが、新しい四冊は棚に、最新のものは本棚の脇にあるフックに紐で吊るすようにしてある。
先に見ていた佑白は、立ったりしゃがんだり本棚のあちこちを見ながら忙しなく背表紙ノートを引っ張り出している。
「佑白、どうしたの?」
「ノートがない。名簿ノートが、どこにもないんだ」
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