アトラスの残り香とエリュティアの予感
「あとは頼んだぞ」
アトラスは、テウススとライトラスに短く、しかし、しっかりと言い置いて出陣した。向かう先はグラト国の都パシロン。アトランティス大陸の南、美しい海辺の町だという。
南にある目的地を目指し、アトラスは南西へと兵を進めて行った。アトランティスの大地を貫くルードン河も、パトローサの辺りから更に上流に遡れば浅瀬がある。水も暖かくなる季節で歩いて渡河することができるに違いない。アトラスはアトランティス全土を戦火に巻き込んだ戦で、そんな地形も学んでいた。
アトラスの出陣を見送ったライトラスとテウススは顔を見合わせた。
「では、我らも仕事に取りかかるとするか」
そう言ったライトラスに、テウススも頷いた。それぞれアトラスに命じられた事がある。
アトラスがパトローサに残したテウススに命じたのは、マリドラスが恭順させたグラト軍の徴募兵の再編成である。マリドラスに恭順し、エリュティアを頼ってパトローサに来た数千のグラト軍徴募兵が居る。元はシュレーブ国の民だった。家族が待つ家に帰れば脱走兵として、彼等ばかりか家族にまで罪が及ぶ。ここに居れば、いずれは故郷に帰る目処もつくのではないかと、大半の者が留まっていた。
テウススが兵舎を見回って眺めた徴募兵は、数こそ多いが、彼等の戦闘訓練は未熟で、戦場で戦うためにはかなりの訓練を必要とした。それ以上に必要としているのが、その兵士を統率する指揮官だった。グラト軍は新たに得た元シュレーブ国の領地から、剣など持った事のない男たちをかき集めて、形だけの兵士に仕立て、戦場ではグラト軍の熟練兵が背後から剣で彼等を追い立てるという戦をした。彼等を背後から追い立てる指揮官ではなく、彼等の先頭に立って行動する指揮官が必要だった。まずは指揮官の下で統率された行動が出来るように訓練する。既に前ジソー王の元で戦った兵士が呼び集められて、兵士の訓練と指揮官の訓練が続けられていた。それでも、敵との戦闘には更に数十日の訓練を要する。
ただ、アトラスは、テウススに命じていた。
「彼等が自分の身を守れる程度に訓練してやれ」と。
数千の徴募兵の訓練を頼もしく、しかし、その任務の重圧に耐えるように、テウススが腰の剣の束にかけた手が震えていた。
いつの間にかジグリラスが姿を見せて、頼もしそうにテウススを眺めて言った。
「大役ですな。たしかにテウスス殿にしか出来ぬ事かも知れませぬ」
ジグリラスの言葉に、テウススは残念そうに答えた。
「もしも、この体が万全なら、私自身が兵の調練をしたいところだ」
テウススは未だベッドに伏せっていてもおかしくない体調だった。それを考えたアトラスは元ジソー王の直属の兵だった者を呼び寄せて徴募兵の調練に当たらせ、テウススはその管理者としての任務だけで、直接に調練に関わるなと命じられている。
ジグリラスはテウススの体調に触れずに言った。
「しかし、テウスス殿にはもう一つ体勢なお役目がおありのはず。早速の所、ご相談に参りましたよ」
ジグリラスがアトラスから命じられた役目は、物資の調達だった。父の血を曳いて有能な男だが、戦に疎い文官だけあってアトラスを苦笑いさせた事がある。彼が計画した食糧の調達と輸送計画は見事だったが、戦えば矢を消耗し、剣は折れ、甲冑は傷つく。補充品の矢に剣。傷ついた甲冑を修理する革紐や膠には思いもよらなかった。何を調達して、何処に送るべきかは、実戦経験も積み、アトラスと共に戦ってその意図も理解できるテウススと相談せねばならない。
そして、調練している徴募兵の役目は、そうやって彼等がパトローサに集めた物資を、アトラスの進撃路に沿って、荷を背負って後を追って届ける事である。アトラスは後方からの補給に困ることなく戦に専念できるはずだった。
聖都を解放する戦で、各国は補給に苦しみ、各地で略奪を行い民の恨みを買った。アトラス率いるルージ軍が略奪をせずにすんだのは、フローイ国王女リーミルの手腕が大きい。アトラスはそれに気づいていたのだろう
今一人、アトラスから命令を受けていた者が居る。アトラスは政務を預かるライトラスに、ルードン河の南岸の地域を調略するよう命じていた。
アトランティスで謀略と問えば、フローイ国とその王ボルススの名が挙がっただろう。しかし、アトランティスの中原に位置したシュレーブ国も様々な謀略に手を染めていた。あっけらかんとした明るい謀略と言えば語弊はあるが、フローイ国の企みはテーブルの上で行われる一種の権力の駆け引きのゲームの香りがした。
シュレーブ国が謀略の雰囲気を隠していたのは、時に王の血縁者の暗殺さえ含む謀略が行われていたからである。
しかし、アトラスに他国の調略を命じられたライトラスは、アトラスの命令を意外に感じ、その思いを素直に表情に顕した。
フローイ国王だったボルススが、ルージ国の人々を称して、実直過ぎて謀略が役に立たないと称した事がある。もちろん褒め言葉ではなく、馬鹿正直すぎる奴らという揶揄が込められていた。
ライトラスたちもルージ国の人々に同じイメージを抱いていた。しかし、まさかルージ国を代表するアトラスが謀略を使うとは思わなかったのである
グラト国は元シュレーブ国の領地の中で、ルードン河の南岸の地を手に入れ、新たな領主を派遣して統治している。ただ、追われた旧領主やその家臣たちは今でも密かな影響力を保っている。
アトラスが要求したのは、その元領主たちに叛旗を翻して反乱を起こせと言うものではなかった。本国から前線の王に送る使者や増援の部隊が通過する時に、深い山岳地帯に踏み込む間違った道を教える。武具を積んで運べと言われた荷車に、間違って酒樽を摘んで運ぶ。一日で運べる物資を道に迷って三日かけて届けるなど、血を流さずに行える陰湿な妨害行為はいくらでも考える事が出来た。
僅かな事に見えるが、戦闘で使い尽くした矢の補充が届かず、増援の兵士の到着も遅れ、前線のトロニスの戦の算段は大きく狂う。何より本国との間の連絡が遮断されがちになれば、何故、命令通り事が運ばないのか想像もつかなくなるだろう。
ライトラスは呆れたように言った。
「なんとまぁ、ずる賢いことで」
アトラスは二カ国の名を挙げて答えた。
「私には良い教師が二人いた。一人はフローイ国のリーミル殿。今一人は元シュレーブ国のドリクス殿だ」
そう言ったアトラスは、ルードン河に沿って街道を遡り、今頃は浅瀬にたどり着いているかも知れない。ライトラスはアトラスの顔を思いだして思った。
(ずいぶんお変わりになられたようだ)
そんな中、宮殿は突然の賓客を迎えた。侍従が慌てて庭園の東屋にいるエリュティアのもとへ来て客の名を告げた。
「エリュティア様。デルタス様が面会を求めておいでです」
「まぁ、デルタス兄が」
エリュティアが懐かしさを込めて、兄という言葉を敬称のように使って呼んだ。確かに幼い頃からこの宮殿で共に育った男性に兄に抱くような親しみを感じている。ただ、正しくは兄ではなく、留学という名目でこの宮殿に囚われたレネン国の人質だった。
今は、母国レネン国の国王の座にいる。通例だが、高貴な者の訪問前に先触れの使者を出して訪問を前もって告げる。告げられた側の受け入れの準備が整うのを待って訪問する。しかし、デルタスは勝手知った我が家を訪問するように突然に姿を見せ、エリュティアが庭園の東屋にいると知った後は、案内役の侍従を後ろに従えて先頭に立ってやって来た。
「お変わりになりませんね」
エリュティアがからかうように言った。デルタスが人の心の隙につけ込んで驚かせるのはいつもの事だ。ただ、彼の気さくな笑顔が不快感を抱かせない。
「エリュティア様こそ、相変わらず、誇り高く咲くサーフェの花のよう」
彼はそう言って、エリュティアの傍らに腰掛けた。仲の良い兄と妹に見える自然さだった。二人がそんな言葉を交わしているうちに、隣国の国王の訪問を知ったライトラスたち重臣があわてて挨拶にやってきた。
デルタスはそんな重臣たちが目に入らぬよう、伝えるべき用件を切り出した。
「我が国は、主を失ったヴェスター国を併合いたしました」
ヴェスター国と言えば、アトラスの叔父が治める国、先の内乱で王と王子を失っている。エリュティアはそんな経緯を思いだしただけで、デルタスの意図が理解できず首を傾げた。しかし、ライトラスが不満を露わに尋ねた。
「ヴェスター国を併合ですと?」
ライトラスばかりか駆けつけた重臣たちはこぞって苛立ちと不満の表情を浮かべていた。デルタスはそんな彼等を気にかける素振りもなく頷いて言った。
「左様。ヴェスター国は既にレネン国となり、その民もこのデルタスの民。ご存じか。今やヴェスター国の東半分が海に呑まれた。避難民も多数。しかし、民を救う国王はなく、私は民の窮状を見かねて手を差し伸べたのだ」
デルタスの言い分はもっともに見える。しかし、ルージ国の政務を預かる者として見過ごす事が出来ない事もある。
「しかし……」
ジグリラスが言いかけた事を、デルタスは制して言った。
「そなたたちの腹の底も読める。隣国が力を付けるのも、まずいと言う事であろう」
「有り体に言えば、仰るとおりでございます」
ここに集う重臣たちにとって、この国にはルージ国と名を変えても、その統治者の一人エリュティアはシュレーブ国の王家の血を曳く者。彼等にとって、この地は愛着のあるシューレブ国に等しい。しかしその国も、ルージ国と名を変えた頃から力を削がれた。重臣たちが恐れるのはこの国を奪いに来る力のある隣国だった。
デルタスは彼等の不安を払拭するように笑顔で言った。
「そこでだ。アトラス王の御不在の今、エリュティア様のご意向を窺いに参った」
「どういうことでしょう?」
首を傾げて問うエリュティアに、デルタスが微笑んで種明かしでもするように言った。
「我が国はヴェスター国、正しく言えば旧ヴェスター国の人心の乱れと避難民の対応が手に余る。ついては、ラマカリナ、ラマリアを始め、ヴェスター国に編入されたシュレーブ国の旧領十四、ルージ国にお任せ出来ぬかと。いかが?」
元シュレーブ国の者の立場では、敗戦で国が四つに分割されて奪われたと感じている。その奪われた領地のなかで、ヴェスター国に奪われた領地がすべて戻ってくると言う感覚である。
「本当ですか?」
信じられない言葉を問い返すジグリラスに、デルタスは微笑んでその通りだと認めた。重臣たちの不満と不安は一気に喜びに変わって、庭園は彼等の歓声に包まれた。
ただ、エリュティアだけは、彼等の歓声に染まらず、デルタスの本心を窺うように彼の表情を眺めていた。デルタスはそんなエリュティアの疑念を吹き飛ばすように彼女の手を握って力強く説いた。
「エリュティア様の存在があってこそ、各地の領主たちはルージ国のアトラス殿の元に集いたいと申しているのです。エリュティア様、彼等の思いを踏みにじる事はなさいませぬよう」
「私の思いは、夫アトラスと、私たちを支える民ととにあります。民がそれを望むなら、私に異存などあるはずがございません」
エリュティアの言葉にデルタスは満面の笑顔を浮かべて立ち上がった。
「では、エリュティア様のお言葉、帰りがけに各地の領主に伝えて喜ばせてやりましょう」
デルタスが言葉を伝えて回るというのは、各領主にルージ国が服属を認めたという事を既成事実として伝えるという事である。
用件は全て滞りなく終わったと言いたげに去っていくデルタスの後ろ姿を眺めて、エリュティアは首を傾げるようにそう思った。
(あの方は?)
不意にやって来て人の心を操るように気づいてみればデルタスの思いのままに事が運んでいる。幼い頃からの兄と妹の信頼感が揺らいで、デルタスの優しさの裏に何かの謀でもあるのかと疑う気持ちが湧いていた。
デルタスが帰国の途について僅か一日が経過して、ライトラスは新たな来客を迎えた。
「おおっ。ルフエラスではないか。久しいのぉ」
「三年ぶりですか。今はシフグナの統治を任されているバンドロス殿にお仕えしています。実はアトラス王に面会に来たのだが、御不在とか」
用を果たせず困って旧知のライトラスに面会を求めたという。そんな彼の言葉に、ライトラスは政治的な意味をかぎ取った。政務を預かる重臣にも話せず、アトラスに伝えねばならない事があるということだ。大臣たる彼が、王の意向も確認せず他国の使いと内密の話を進めるのは好ましくない。しかし、彼にとって王にも取って代わるエリュティアの存在があった。
ライトラスは言った。
「エリュティア様を頼るがいい。古い家臣となれば耳を傾けて、お力にもなっていただけよう」
彼はそう言っただけではなく、ルフエラスをエリュティアに引き合わせる手はずを整えた。
聖都解放の戦の前、シュレーブ国の西の領地はシフグナの地に及んで隣国のフローイ国と接していた。今は分割されてフローイ国に編入されている。ルフエラスは、その旧領からパトローサへ救援を求めてきたのである。
彼の話を聞いたエリュティアは眉を顰めた。フローイ国の民が災厄を逃れて、険しい山道を越えてシフグナの地へ押し寄せているという。
今やフローイ本国を頼る事も出来ず、頼るとすれば旧主エリュティアのツテをたどってルージ国に保護を求めるしかない。それが、フローイ国から新たな占領地の統治を任されたバンドロスの判断だった。
元シュレーブ国の立場では、フローイ国に奪われたすべての領地が戻ってくると言う事である。二人の会話を聞いていたライトラスは喜びを押さえきれない。アトラスがパトローサを離れたとたん、凶事ばかりだったこの国に、吉兆が次々に訪れ始めたように思える。
(エリュティア様は、神々に愛されておいでだ)
ライトラスはそう思った。彼の心の中に密かにアトラスを蔑ろにする気分が生まれ始めていた。
民を保護し、彼等の生活の安寧を取り戻すのに、エリュティアも異存はない、使者ルフエラスを通じてもたらされたバンドロスの申し入れを知った重臣たちは喜びに沸いた。
しかし、喜びが盛り上がる重臣たちの中でエリュティアの心に不安が持ち上がっていた。夫アトラスの故郷の島は彼の家族共に海に沈んだという。そしてデルタスの言葉では北東部のヴェスター国の少なくとも半分が海に没したという。ルフエラスの言葉では災厄に見舞われていたフローイ国がいよいよ破滅的な被害を被っているようにも思えた。
(この大地はどうなって行くのでしょう)
この時期、現在の災厄が広がってアトランティス全土が海に沈むということを予感したのはエリュティアだけだったのかも知れない。
そして、パトローサにいる全ての人々の足下で大地が揺れた。日常の一部になった大地の揺れも、この時のエリュティアには、破滅が近づく予兆に思えた。




