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消えぬ憎しみ

 元ルージ兵たちへの布告の状況を自ら確認しようと決めて、アトラスは近習のスタラススやレクナルス、護衛のアドナを伴って町へ出た。馬上から眺めるパトローサの町は活気に満ちていた。マリドラスたちが命がけで守った光景と言えるかも知れない。

 近習のスタラススが言った。

「マリドラス殿が帰順させた元シュレーブ国の者どもも居ります」

 兵役から解放したルージ兵が戻らなくても、先の戦でマリドラスが帰順させた元グラト軍の徴募兵がエリュティアの庇護を求めてパトローサに来てここに留まっている。

「しかし、元はただの民。訓練も不充分だろう」

 アトラスの言葉にレクナルスが言った

「しかし贅沢も言えません」

 主従が結論の出ない会話をしている間に、彼等を乗せた馬はパトローサを南北に貫く街道を進み市を抜け、各地から往来する商人たちが利用する宿とも酒場ともつかぬ建物がひしめく区画へと入っていた。


 主従の会話を黙って聞いていたアドナが、何かの異変を感じて鋭い視線を向けた。その視線の先に怒鳴り声が響いたかと思うと、建物から二人の酔漢が勢いよく転がり出てきたかと思うと、その家の主人か用心棒らしい男が現れて地面に転がった二人をあざ笑って怒鳴った。

「これ以上、お前たちに呑ませる酒などねぇ。冥界にでも行って冥界のエトンに恵んでもらうといいや」

 卑屈な表情を浮かべた二人の酔漢が、酒にふらついた足取りで立ち上がり、地に唾と共に殴られて折れた歯を吐き出した。

 そんな光景を眺めていたアトラスが馬を二人の傍らに進めて尋ねた。

「どうした事だ」

 言葉をかけられた二人の男はアトラスを見上げた直後、その人物の正体に気づいた。二人は酔いが覚めたように直立不動の姿勢を取り、握った右拳を身に当てた。ルージ軍兵士が行う敬礼で、男たちの出自が知れた。

「アトラス様。我らが王よ」

「お前たちは、我が兵だった者か」

「我らは故郷を失い、家族も失い、帰るところはございません」

「この地を故郷と思い定めよ」

「しかし、この町の連中は我らを憎むばかり」

「よそへ行こうにも、我らにその当てはありません」

「いま考えれば、兵隊で居た時は良かった。仲間がいつも側にいて助け合えた」

 兵隊で居た時の方が良かったと言うが、彼等は布告を知っていて応じなかったはずだ。アトラスは馬を下りながら首を傾げて尋ねた。

「ではどうして、私の元に集わぬ? 広場でルージ兵の徴募を布告しているはず」

「あれは、本当に、我らが王、自らのご意志で?」

「その通りだ」

 頷くアトラスに酔漢の一人が言った。

「我らもマリドラス様のようにずる賢い者たちの手で抹殺されるのではと」


 王が不在の間に、彼等の敬愛を集めたマリドラスやラヌガン、その配下の兵が多く死んだ。数倍の敵を相手にする無謀な戦だったという。マリドラスたちにそんな無謀な戦をさせて死地に追い込んだのは旧シュレーブ国の者たち。招集に応じれば自分たちも旧シュレーブ国の者たちによって、シュレーブを守る盾にされて捨てられる。いや、ひょっとすれば、旧シュレーブのずる賢いものたちはそうやってルージ島出身の者を抹殺し国をとりもどそうとしているのではないか。そんな思いが元兵士たちの噂で広がっている。

「戦が終わったと考えた私が浅はかだったのかも知れぬ。まだ私はお前たちを必要としている」

「それなら話しは早い。仲間にも声をかけて来まさぁ」

 酔いが覚めきらずふらつきながらも駆け去っていく元兵士二人を眺めて、アトラスは思った

(人が憎しみや哀しみから解放され、共存するのがこれほど難しいものか)

 アトラスはユリスラナから伝え聞いたヂッグスの姿に、この町から憎しみが薄れたと考えていた。しかし、それはごくまれな例外だった。

 このパトローサの人々にとって、元ルージ兵はこの町を戦火に巻き込んだ男たち、憎しみと恨みの対象でもあった。

 そして、兵士としてしか生きる術を見いだせなくなった者たちに、兵士以外の生き方を与えてやれない自分の無力感を感じていた。五人か、十人、あの二人が何人のルージ兵を連れて戻るか分からない。しかし、自分を見捨てる元ルージ兵ばかりではなかったと言う事はアトラスの心を慰めた。


 宮殿に戻ったアトラスをテウススが待っていた。フローイ国への遠征で負傷し未だ静養中の男だった。アトラスは彼の姿を見て呆れるように言った。

「テスウススよ、その甲冑姿はいかがした」

 まだ、甲冑が着られる体調ではないだろうという。しかし、テウススは不満も露わに言った。

「これから出陣されるのに、私をお忘れとは嘆かわしい」

 彼は出陣するなら、自分も連れて行けと言う。アトラスは笑いながら答えた。

「いや。そなたには別の役割がある。そなた以外に頼めぬ事だ」

「私にしか出来ぬ事?」

「ああっ。いろいろと、やってもらわなければならぬ事が多い」

 テウススはアトラスの心の内を探るように言った。

「面白そうな事ですか?」

「ああっ。大事な事だ」

 アトラスの言葉にテウススはにこりと笑った。幼い頃から共に過ごしてきた関係だった。テウススは短い会話の中でアトラスを信じ、与えられる任務を受け入れる事にした。


 同じ頃、ユリスラナが、新鮮な果物を届けるという役割を装って、エキュネウスたちに宿舎として割り当てられていた兵舎の一角に足を運んだ。懐には本当の目的のお守りを秘めている。

 そんな彼女は、宿舎の荒々しい雰囲気に、呆れるように思った。

「まったく。男どもときたら。なんて、戦が好きなんでしょう」

 エキュネウスが束ねる二十人ばかりのギリシャ人たちが、剣を研ぎ、壊れた甲冑を繕い、戦の支度に余念がない。しかし、聖都シリャードの解放と共に、そこに駐屯していた彼等の戦は終わった。元は敵だった王の賓客として扱われている彼等には、もはや敵対する相手は居ないはずだった。

 この時のユリスラナは、そんな違和感を感じる間もなく、エキュネウスにお守りを渡す計略で心が一杯だった。愛しているかと問われれば頷くしかない関係だが、未だそれを認めるにはぎごちなさが残っている。

「これはエリュティア様から」

 いつもはエキュネウスに手渡す籠をテーブルに置き、胸元からお守りを取り出して言葉を続けた。

「それから、これは私から」

 手のひらほどの大きさの厚手の布を丸く切って刺繍が施してあり、それに輪になった紐がついていた。

「これは?」

 エキュネウスは輪に人差し指を通してくるくると回して見せた。ユリスラナは理解力のない彼に説明してやらねばならない。

「それを首にかけるの。その刺繍は運命のニクススの紋。私たちの運命を託すお守りよ」

「ほぉ。これがアトランティスの神の紋章か」

 ユリスラナはついうっかり、ギリシャ人たちの神々が別にいる事を忘れていた。ただ、彼女が愛の女神フェイブラではなく、運命のニクススに祈りを込めたのはどうしてだろう。エキュネウスはユリスラナの複雑な思いに気づく様子もなく、喜んでお守りを首にかけた。

「これは心強い。戦場では役に立つだろう」

「戦場ですって?」

 意外な言葉を問い返すユリスラナに、エキュネウスはテーブルに置いた剣を指さして言った。

「アトラス殿に従軍を申し出た」

 エキュネウスは戦いにおもむくという。ユリスラナにとって思いもかけない言葉だった。

「どうして? 貴方には戦う理由などないのに」

「私は何のために生きている? 王の賓客として扱われながら何もせず、命を朽ち果てさせて良いはずがない」

「私が居るというのは、その理由にならないの?」

 ややあって、王宮に帰っていくユリスラナの姿を、ギリシャ兵たちは隊長エキュネウスと痴話喧嘩でもしたのかと囁き合った。彼女の不安と苛立ちの混じった表情を見れば、エキュネウスが彼女の願いを受け入れ無かった事が知れた。それが運命のニクススの差配だったのだろうか。

 

 その日、王宮にランプを灯す時を迎えた。エリュティアの居室のランプを灯そうと、火のついた手燭を持参したユリスラナは、部屋の入り口で立ち止まった。

 カーテン越しに、喜びの籠もったアトラスの声が聞こえた。

「私は兵に見捨てられては居なかった」

 その言葉でユリスラナは理解した。元ルージ兵だった者たちが十人、二十人と王宮にやって来て、その数は三百人を超えた。明日にはもっと増えるかも知れない。宮殿の小役人たちは思いもかけず、彼等を兵舎に収容する準備で慌ただしかった。

 アトラスは喜びもそのままに言葉を継いだ。

「あと三日もすれば出陣できるだろう」

 ユリスラナはもう一つ理解した。アトラスは喜びと共に出陣の日程を妻に報告に来ていたのだった。寂しさと不安を押し隠して平静を装ったエリュティアの声が聞こえた。

「戦の女神パトロエに、貴方のご武運をお祈りします」

 ユリスラナはアトラスとユリスラナの心に割って入るように、部屋を仕切るカーテンを開けて言った。

「エリュティア様。灯りをお持ちいたしました」

 薄暗くなりかけた部屋の中に窓辺から、この日最後の光が赤く漏れて、アトラスとエリュティアの二人の姿が淡い影のようだった。その影の輪郭になったエリュティアの横顔の瞳から、一筋の輝く筋が流れ落ちるのが見えた。



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