呉越同舟
サブタイトルは『呉越同舟』。言葉の原典は古代中国の孫子です。日本では仲の悪い者が同じ場所にいる例えですね。でも、元の意味は……。
孫子は説きます。「共通の目的があれば、人々は思いを一つにして協力し合います」と。様々に争う現代でも、大事な言葉かも。
奴隷として自由を求めて従軍したギリシャ人たちは、兵士だった頃の指揮官クセノフォンを村長としてパトローサ郊外の森に住まいを構えている。猟師として森で獲物を狩り、樵として木を伐りだし、女や子どもは枝を拾って薪を売りに来た姿をパトローサで見る事が出来た。
村長たるクセノフォンに使いを出して、彼等にも利のある条件を提示すれば、兵にふさわしい男たちを送ってよこすだろう。
ただ、ユリスラナが出会ったヂッグスのように、ルージ島から兵士としてアトランティス本土に連れてきた者たちの消息は、戦の後、兵役を解かれて行方は分からない。
政務を預かるライトラスがその任を引き受けた。
「多くは、このパトローサに留まっているようにございます」
兵役を解かれたとはいえ元は荒々しい兵士。故郷を失い彼等を受け入れる家族もなくしている、そんな者たちが町に溢れれば、治安が悪くなる恐れがある。ライトラスはそれを心配して、任を解かれた兵士たちの動向も部下に報告させていた。
アトラスも納得した。故郷を失ったあと、慣れない土地で仲間と離れ一人になる不安もあるのだろう。ライトラスは言葉を続けた。
「パトローサにいるならば、布告板を掲げれば、彼等の耳も王の意志が伝わりましょう」
アトラスはライトラスのそんな提言を受け入れて、ルージ島出身者の徴募を布告させる事にした。パトローサの広場の各所に王の元へ集えという布告を書き付けた立て札を立て、文字が読めない者たちのために、立て札の傍らの小役人が、集まった人々に布告の内容を読み上げる。それを聞いた者たちの口から口へ内容が広がって、元兵士たちの耳にも届く。ルージ軍兵士の忠実さは他国にまで鳴り響いていて、ライトラスは布告を聞きつけた者たちが数日で集まるだろうと考えていた。
しかし、布告を出して二日経っても一人の兵士も戻る気配がなかった。
「今の私には従う価値もないと言う事か」
三日目の朝、アトラスはライトラスに肩をすくめて見せて自嘲的に笑った。故郷を共にする大勢の者たちから見捨てられた寂しさがある。
アトラスがそうやって失望した日、落ち込んだ彼の気分を励ますように、パトローサの王宮の前にギリシャ人たちが現れた。来訪を聞いたアトラスは喜び勇んで出迎えた。
「クセノフォン。よく来てくれた。おおっ。アイネアスの息子マカリオスも居るのか」
クセノフォンが微笑みながら言った。
「未だ傷の癒えぬ者を除いて、全てでございます」
彼等はアトラスと共に多くの激戦をくぐってきた、戦死した者や、もはや戦えぬほど傷ついた者も多い。そんな者たちを残して戦える者たちが集った。アトラスにとって頼もしい者たちだった。
「ギリシャ人たちよ。よくぞ駆けつけてくれた。嬉しく思うぞ」
アトラスの叫びにギリシャ兵たちの間から喚声が上がった
「万歳。我らが王アトラス」
そんな喚声に包まれながら、アトラスはやや不思議そうな面持ちでギリシャ人たちを眺めていた。身内とも信じたルージ兵が見捨てた自分のために、どうしてギリシャ人たちは命をかけようと決心したのかと言う事である。そんな心情に気づいたように、クセノフォンが言った。
「私はロユラス様に命を捧げようと決心いたしました。ロユラス様亡き今は、弟君のアトラス様に」
「しかし、私にその価値があると?」
アトラスの質問にクセノフォンは別の質問を返した。
「アトラス様。我らギリシャ兵が元奴隷だとお考えで?」
「いや。共に戦ってきた者たちは仲間であろう。共に命がけの戦火をくぐった家族と言える」
「ロユラス様もそう仰っていました」
アトラスはクセノフォンが口にしたロユラスの名で、様々な者たちとの繋がりを経て、彼等はアトラスと共に戦うためにここにいることを理解した。
クセノフォンたちの立場で言えば、解放者としてのアトラスは信頼に値する。ただ、聖都解放の後、アトラスは平和の夢に酔ったかのように、次々に指揮下の部隊を解散したり故郷に帰そうとした。再び戦が始まればアトラスやルージ国が危うい。冷徹な現状を肌で感じていた彼等にとって危うい状況に見えたが、王に意見できる立場ではなかった。しかし、もし彼等の自由を保障するアトラスが王の座を失う事があれば、今の自由を失う。クセノフォンはそれを危惧し、仲間を説いて呼び集めた。
ただ、クセノフォンは首を傾げて話題を逸らした。
「しかし、今のこの大地の人々の様相……」
「なにか、奇妙だと言いたいのか?」
アトラスの言葉に、クセノフォンは笑いながら答えた。
「いえ。部族に別れ、争っていた我らギリシャ人と変わらぬと」
アトランティスの人々はギリシャ人たちを蛮族と見下すが、そのアトランティス人もギリシャ人と変わらぬと言う。
アトラスは苦笑いして認めた。
「その通り。今のアトランティスは、人々の欲望が乱れてまとまらぬ」
「ロユラス様は、そんな我らギリシャの民をあっという間に一つに纏めあげられました」
「我が兄は、私より王としての才覚があったからな」
「我らが王よ。貴方はその才覚を受け継ぐ事も出来ましょう。自由を守る。仲間を守る。そんな一つの思いがあれば、人はまとまる事も出来るのだと」
「確かに、ロユラスならそう言うだろう」
「我らが王よ。人々がこの地を安寧に過ごせる地に過ごせるようにするのだと思い定めれば、アトランティス人やギリシャ人、ルージ国やグラト国という枠は消え、全ての人々の心から争いと憎しみも消えるのでは」
「クセノフォンよ。そなたの言うとおりだ」
アトラスは微笑んで頷いたが、心の底で後ろめたい。彼は幼なじみのラヌガンや信頼する武将マリドラスとその指揮下の兵士を奪われた恨みを捨てきれない。グラト国との戦も、ひょっとすればアトラスの私怨。アトラスが抱く憎しみのために数多くの者たちの命を犠牲にするのかも知れない。
この時、大地が揺れた。王宮の柱が軋むほどだった。アトランティスの中央に位置するこの町がこれほどの揺れなら、この災厄の中心はどれ程壊滅的な被害に遭っているだろうか。ただ、アトラスたちはこの時にも、アトランティスの大地が軋み、その一部が海に沈み続けているということに気づいては居なかった。
クセノフォンが揺れが落ち着くのを待って、平静を装って冗談を言った。
「アトランティスの神々が人間の浅はかさを笑っているようです」
アトラスも笑顔で応じたが、まだ戦の算段がつかない。ギリシャ兵五百では、さすがのアトラスでもグラト国へと踏み込む戦は出来ない。他に信頼の置ける兵を集める算段が必要だった。
同じ頃、王宮の内部でもギリシャ人に関わる出来事が起きていた。王宮の庭園を預かる園丁が、この日の朝、咲いたばかりの花をエリュティアのために摘んだ。侍女ユリスラナがそれを大きな花瓶に生け、大事に胸に抱きしめるように運んできた。
彼女はエリュティアの居室の入り口で足を止めた。窓辺で刺繍にいそしんでいるエリュティアの姿がみえる。愛する人の安全を願って、身につける肌着の一部に祈りを捧げる神々の紋章を刺繍する。アトランティスの女たちが夫や子どもの安全を祈る風習だった。
ユリスラナは自分の役割も忘れ、しばらく黙って立ったまま窓辺のエリュティアを眺めていた。窓から降り注ぐ春の終わりの日差しに、夏の香りが混じるそよ風が靡かせる彼女の髪の柔らかな細い筋が美しく輝いていた。
アトラスと結ばれるまでの不安定な雰囲気は消え、表情に憂いは感じ取れるが、愛する人を得たという安堵感も滲んでいた。
エリュティアが真摯な視線を注ぐ先で、一針づつ祈りを込めて愛の女神の紋が縫い込まれていく。ユリスラナはエリュティアの身分を羨ましいと感じた事はないが、その器用な指先は羨ましいと思った。
エリュティアがふと彼女の気配に気づいて指先を止めて振り返った。
「あら。ユリスラナ、どうしたの?」
エリュティアの問いに、ユリスラナは素直に答えた。
「刺繍、お上手だなと、羨ましかったんです」
そう言いながらテーブルの隅に花瓶を置いたユリスラナの左の人差し指の先に、包帯が巻いてある。慣れない刺繍をしていると、右手に持った針で突いてしまう指。もちろん包帯を巻くほどの怪我ではないが、アトランティスの女性たちは母から娘へ刺繍が上達するおまじないとして伝えられている。早くにして母親を亡くしたエリュティアは、乳母のルスララから教わった懐かしい印だった。
その印がユリスラナの指にあると言う事は、彼女が苦手な刺繍に挑戦し始めたと言う事だ。もちろん、彼女にその決意をさせた者が居る。エリュティアはその心当たりを指摘した。
「あら。貴女も……。刺繍のお相手は、エキュネウス殿?」
エリュティアの指摘に、ユリスラナは笑顔を返しながらも男性の名をぼかして答えた。
「まぁ、そんなところです。お守りを作ろうかと」
エリュティアは気にかける様子はないが、ギリシャ人を蛮族と見下す者も多い。侍女を纏めるハリエラナも、忠実で公平無私な人柄だが、忠実であるが故にエリュティアの身辺から蛮族の気配を遠ざけようとするだろう。ユリスラナはギリシャ人のエキュネウスとの関係を出来るだけ穏便にしておくほうがいいと考えていた。
エリュティアが刺繍する手を止めて、突然に足下をふらつかせたユリスラナに声をかけた。
「どうしたの?」
ユリスラナは気丈に作り笑いを浮かべながら答えた。
「ご心配をおかけしてすみません。少し目眩がしました。お守りを作るのに、夜更かしが過ぎたようです」
そんな言い訳をしたが、彼女が体調を崩しているのは夜更かしのせいではない。ユリスラナは密かに恐れていた。もしも、彼女の願いや勘違いではなく、本当にエキュネウスの子どもを身籠もっているとしたら。
エリュティアが言った。
「体を労りなさいな。貴女が倒れたら私だけではなく皆が心配するでしょう。誰よりエキュネウス殿が」
普段なら冗談を返すユリスラナが、この時はぺこりとお辞儀をしただけで、エリュティアの居室を去った。エリュティアも思い悩む事も多い。そんな時、一人でじっと考えたい事もあることを経験していた。彼女はそれ以上、侍女に声をかけるのは止めて、神々の紋に祈りを込める事に専念する事にした。
(いま、この世界で、いったい、何人の女が涙を抑えて神々の紋を刺繍しているのでしょう)
そう考える彼女の指先で、愛の女神を象徴する文様が出来上がりかけている。
侍女が足早に来てアトラスの来訪を告げ、エリュティアは刺繍する手を止めて命じた。
「すぐにお通しして」
姿を見せたアトラスは、甲冑さえ身に付ければ、すぐにでも出陣できそうな出で立ちだった。彼は宮殿に参集したギリシャ兵たちに、マリドラスの騎馬隊がいた兵舎の一部を割り当てて駐屯させたあと、王妃エリュティアの居室にやって来た。今のアトラスの心を慰める事が出来るのはエリュティアだけかも知れない。
エリュティアは尋ねた
「浮かぬお顔です。何か心配事でも?」
「出陣の日取りは、今少し先になるかも知れぬ」
「どうしたのですか」
「私は、一番信頼していた兵士たちに見捨てられた……」
ともに出陣するはずのルージ兵たちは、布告板を設置して三日目が終わりを気ようとしても、ただの一人も姿を見せなかった。




