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入り乱れる思い

 抱える花瓶からサーフェの花の甘い香りがユリスラナの鼻をくすぐった。最近は四季の門を司る女神たちが、門を開く時を間違えたように、その季節には思いもかけない花が開き蝶が飛び交う事がある。

 ユリスラナが運んでいるサーフェの花もそんな女神たちの混乱の一つだった。本来は夏のイメージを持つ花だが、まだその季節にはやや早い。ただ物珍しい花はエリュティアを珍しがらせ喜ばせる事が出来るだろう。

 居室に花瓶に生けたサーフェの白い花を持参して何処に置こうかと迷うユリスラナにエリュティアが言った。

「ユリスラナ。刺繍の糸が足りないのだけれど」

 アトランティスの貴婦人たちは刺繍をたしなむ。元はシュレーブ国の王女として育ったエリュティアも同じだった。夫のアトラスが出陣するという。その肌着の一部に武運と無事の帰還を祈って、戦の女神パトロエと運命のジメスの紋章を刺繍しておきたい。

「では市に出向いて買い求めて参りましょう。何色をお望みですか」

「カックンの実で染めた黄色い糸と、ワタッドの花で染めた紫の糸を」

 エリュティアは微妙な色合いまで指摘した。エリュティアがユリスラナに刺繍糸を求めたのには訳がある。宮殿には出入りの商人が居る。彼に命じれば求めたものを即座に取りそろえてくる。しかし、彼女の本当の目的は町の様子を知る事。

 エリュティア自身が外出するとなれば、彼女の身を案じた侍女頭のハリエラナは、十数人の侍女に、エリュティアが乗る輿を担ぐ人夫、護衛の兵を伴う大所帯の外出を仕立てるだろう。エリュティアはそう言う大げさな事は望んでいない。

 こういう場合、エリュティアはユリスラナを使うのが常だったし、ユリスラナも良く心得ていた。


 前回、ユリスラナが外出したのは、マリドラスたちが戦に向かった直後の事だった。あの時は、グラト軍が攻め寄せてパトローサが戦場になるという噂に、危険を避けようと脱出しする者たちで慌ただしかった。

 見回してみれば、そんな者たちが戻ってきているほか、各領地から領主に派遣されたり、領主自身率いてきた兵で新たな戦の気配が漂って騒然としている。エリュティアはそんな町の民の様子が知りたかったのである。

 そして今は、郊外に駐屯していた各地の兵がラクナルの指揮の下、パトローサを去って東の戦場に向かった。民はこの地が戦場になるという恐れは薄れたものの、強大なグラト国に勝てるはずがないという不安が残っている。


 そんな町の一角で、ユリスラナに遠慮がちに声をかけてきた者が居た。

「ちょっと、すみませんが」

 独特の言葉のアクセントは、今はこのパトローサでも聞き慣れたルージ島出身の者たちの言葉だった。

 振り返ってみれば、ユリスラナと同じ年頃の若い男で、若い女と幼い娘を連れていた。その男が尋ねた。

「ひょっとして、エリュティア様の侍女の方では?」

 突然に見ず知らずの人間に呼び止められ、正体も明かされたが、悪い気分ではない。彼女がこの町で有名人だ言う事だ。

(エリュティア様につきそう忠実な侍女? 優しく心遣いの行き届く美しい侍女?)

 彼女はそんな期待を込めた笑顔で言った。

「そうよ」

「ああっ、やはり。エリュティア様の側に仕える大女に記憶が」

 その言葉にユリスラナはため息をついた。もしも、ユリスラナがエリュティアの代理として町の様子を検分する役目の問題を挙げるとしたら、彼女の身長の高さだろう。彼女は、いつしかこの町でも大女の侍女として知られる存在だった。確かに彼の傍らに控える女性に比べれば、ユリスラナは頭一つ分身長が高い。

 男は自分の名と家族を明かした。

「俺はルージ島生まれのヂッグス。こちらは妻のナッチネと娘のシラネラ。シュレーブ国生まれです」

 ユリスラナは一見仲の良い家族の違和感に、三人の組み合わせに悟った。男はルージ島生まれと言うが、遠く離れたルージ島生まれの者が、このアトランティス大陸の中原のパトローサにいるとすれば三年前の大戦の時に兵士として渡ってきた者だろう。しかし、それにしては男の影に付き添うようにいる幼女の歳は五つか六つ。男の本当の娘ではあるまい。

 このパトローサ、元はシュレーブ国の都でも数多くの家族が引き裂かれ、男が兵士として戦場に狩り出され、あるいは軍務に関わる労役につき、帰ってこなかった。アトランティス各地には夫を失った妻や父を失った子供が数多くいて、パトローサも例外ではない。

 この女と娘はそんな家族だろう。そして故郷の島が海に沈んで帰る場所を無くした男と出会った。

 男が娘の頭を撫でる仕草が優しく、娘は元兵士だった男の荒々しさより、自分を見下ろすユリスラナの体格の良さに怯えるように男の陰に隠れる様子で、この一組の者たちが仲の良い家族だとわかった。幸せになるために、互いに他の誰かを求めて一つになった。そんな微笑ましさが漂っていた。

 ユリスラナは機嫌を直して笑顔で言ったる

「それで、私に何かご用?」

「俺はリダル様に仕え、アトラス様の元でも各地で戦いました。アトラス様はお元気でしょうか」

 長く仕えた主君の近況が知りたいという。

「ええっ。貴方と同じ。ご夫婦そろって元気だわ」

「それは良かった。夫婦そろってと言うのは何よりです」

 家族は濁りのない無垢な笑顔だった。ユリスラナは少女に視線を転じて言った。

「お幸せにね」

 ユリスラナの別れ際の言葉に少女は素直な笑顔で頷いた。彼女と家族は自然に出会い、自然に会話し、自然に別れた。ただ、心の中で暖かく繋がっている気がする。

 目的の店まで遠回りしながら町の様子を検分したが、ユリスラナの心は町の喧噪が消え暖かな思いで満たされていた。彼女はたどり着いた店でエリュティアが指定した糸のほか、自分自身の給金と相談しながら安いが丈夫で綺麗な赤い糸を自分とエキュネウスのために買い求めた。まだ確証はなくて父親には伝えていないが、彼女が密かにお腹に当てた指先の下に、新しい命が育っているという夢を持っていた。


 王宮では彼女の帰りを待ちわびていたエリュティアが、ユリスラナを見つけるや否や尋ねた。

「それで、どうだったの?」

 求めた刺繍糸が手に入ったかどうかではなく、町の様子が知りたいと言う事だ。ユリスラナは市で出会ったヂッグス親子の姿を想い出しながら微笑んで言った。

「避難民たちが戻ってきているようです。パトローサは賑やかで、町も人も元の活気を取り戻しているようでした。仲の良い親子の姿も見ました」

 その言葉にエリュティアも顔をほころばせて、ため息をつくよう言った。

「そうなの」

 エリュティアは、今更ながらマリドラスとその甥のラヌガンの人柄を思い出した。彼らは半ば焼失したパトローサの復興に尽くした。今はその二人も亡くなった。ただ、この人と町は彼等がこの世にいた証と言えるかも知れなかった。

 この時、一人の侍女が現れて来訪者の事を伝えた。

「アトラス様がお越しになりました」

「すぐにお通しして」

 エリュティアの笑顔から暖かな雰囲気が消え、固い作り笑いに変わった。いま、アトラスがエリュティアの下を訪れるとすれば、用件はただ一つ。グラト国へ出陣するという意志を伝えに来ると言う事だろう。ユリスラナはエリュティアの表情に彼女の心情を感じ取った。王妃の身の上とはいえ、他の多くの女と同じく、夫の身が傷つく事を恐れ、夫の死の運命に怯える日々を過ごさねばならない。

 エリュティアとユリスラナ、二人の危惧は的中した。侍女に導かれて姿を見せたアトラスは、挨拶もそこそこに用件を切り出した。

「ギリシャ人とルージ兵たちに招集命令を出した。ジグリラスにはこのシュレーブの地で兵を集めるように命じた。五日で兵がそろう」

 兵がそろうと言う言葉でアトラスは彼の出陣の日を妻に伝えた。

「真理の女神ルミリアが貴方様の進むべき道を示しますように」

 寂しく微笑むエリュティアに、今の気持ちを言葉で表しきれないアトラスは、右腕で肌着を胸までめくり上げて見せた。彼が身につけていたクレアヌスの胸板が露わになった。

「私に道を示すものはこれだ。私はこの真理のルミリアの像に、そなたの姿を思い浮かべてきた。これからもずっと」

 エリュティアがアトラスに与えた円形の金属板のお守りである。エリュティアも首にかけていた紐を引っ張り、肌身に付けていた小さな袋を取り出した。月の女神の真珠リカケル・テスと呼ばれる涙の形をした真珠が言っている。元はアトラスの妹ピレナの持ち物だった。こうやって、多くの人々の思いが繋がっていくと言う事かも知れない。

 エリュティアはアトラスの胸に顔を埋め、アトラスはそんなエリュティアを右腕で抱いた。


 ユリスラナは、二人の抱擁を邪魔する事も、じっと眺めている事も出来ず、床に視線を落として黙っていた。しかし、静かで二人が動く気配がない。上目遣いで二人を眺めてみれば、今は頭一つ分の距離を置いて黙ったまま見つめ合っていた。この二人には時々こういう事がある。夫は妻にどんな言葉をかければいいのか迷い、妻はどんな言葉で夫の心を静めるべきか迷う。

 ユリスラナは考えた。こんな時、忠実で良く気がつく侍女として、会話のきっかけを与えて、二人取り持つ必要がある。

「アトラス様。今日、市でヂッグスと言う男に会いました。王はお元気で暮らしておられるかと」

「まぁ」

 シュレーブ王家に育ったエリュティアには信じられないほど、ルージ島出身者の王侯貴族と民の関係は近い。夫が民から敬愛されるというのは嬉しい事だった。

 アトラスは即座にその名に反応して言った。

「ヂッグスが? あの男も生きていたか」

「ご存じの人ですか?」

 短く問うエリュティアに、アトラスは短く答えた。

「私を、王にした男の一人だ」

 首を傾げるエリュティアにアトラスは経緯を語った。先の大戦で戦死したアトラスの父リダルが、顔見知りだったヂッグスに剣を託してアトラスの兄ロユラスに届けさせた事。

 アトラスは懐かしい思い出を胸に語った。

「ヂックスか。懐かしい名だ。私を心配してくれるとは嬉しい事だ。どうしていた」

「今はこの地で妻を娶り幸せに暮らし居てると」

 その言葉にアトラスは眉をピクリと動かした。彼は笑顔を絶やさなかったが、一瞬、悲痛な感情が走り、それを瞬時に強い決意で消し去った。アトラスが戦のために兵を集める。その一人一人に人生があり、その家族にも。彼がしようとしている事は、多くの家族から安寧を奪う行為だった。


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