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人と人を繋ぐもの

 王の訪問を知った侍女のユリスラナは、一計を案じてエリュティアを庭園の東屋に案内した。アドナもアトラスを先導するように、その二人の後を追った。王と王妃の二人はそうやって庭園の東屋にいる。

 こういう場合、アトラスの護衛のアドナとエリュティアの侍女ユリスラナの二人も、王宮の庭園に面する大きな窓のある部屋にいる。二人は共に、王と王妃の会話を盗み聞きするためではなく、必要な時にすぐに駆けつける事が出来る場所にいるのだと、自分のいる場所を正当化している。

 しかし、王と王妃が興奮すれば、会話も漏れ聞こえてくる距離だが、穏やかに会話する言葉は気合いを入れて耳を澄まさねば聞き取れないもどかしい距離でもある。

 アドナはそんな部屋の窓から、東屋の夫婦をのぞき見ながら苛立たしそうに言った。

「全く。王は女心を知らねば駄目だ」

 ユリスラナはアドナをまじまじと見つめて考えた。

(戦の女神パトロエのどこから、女心という言葉がでてくるの)

 アドナはユリスラナの信じられないものを見る視線に、迷惑そうに眉を顰めて言った。

「何だ?」

「いえ。別に」

「お前も、私が剣を振り回すだけの人間だと疑っているのだろう。私は女だ。だから分かる。愛し合っていても、人には心を繋ぐものが要るのだ」

 アドナの信念の籠もった言葉に、ユリスラナは考えた。

(その通りかも知れない)

 今、ユリスラナのエキュネウスへの思いが揺らいでいる。アトランティス人と異国から来たギリシャ人。王妃の侍女と異国の武人。出自と身分の違いを超えて二人を繋ぐ者が欠けている。


 そんな二人に、東屋からエリュティアの声が届いた。

「では、私があの方々を死に追いやったのでしょうか」

 そんな感情が高ぶった妻をなだめる夫の声も大きく響いた。

「それは考えるな。兵士の命が無駄になる。彼らはパトローサとその民を守った。彼らの命は賞賛に値する」

「でも、私がマリドラス殿の進言を受け入れていれば、お二方も死なずにすんだのでは」

「人はいつか死ぬ。その死は価値のある命の締めくくりかどうかどうかだと信じたい。でなければ、多くの者たちを死に追いやった私は救われぬ」

 アドナは漏れ聞こえてきた言葉に自分の愛した人の人生を重ね合わせて頷いていた。アトラスがエリュティアを優しく抱きしめる姿が見えた。ユリスラナは二人が熱いキスを交わして愛を確かめあうの期待して、その姿を確認しようと窓から身を乗り出そうとした。しかし、アドナのたくましい腕が、ユリスラナの首筋を掴んで引き戻した。

「あとは、二人を信じて任せればいいのだ」

 あの二人の関係は、愛を信じればいいというのがアドナの信条であるらしかった。ユリスラナは自分自身に当てはめて呟いた。

「なるほど、そうかもしれない」

 二人はそれぞれ納得した。二人はアトラスとエリュティアの愛を信じて、この場を離れて、愛し合う二人を今だけはそっとしておく事にした。

 立ち去ったアドナとユリスラナに代わって、庭園を吹き渡る風がアトラスとエリュティアの二人を包んでいたが、その風も夏の兆しを運ぶ風だった。


 そんなアドナとユリスラナに気づかないまま、東屋ではエリュティアはアトラスの胸に抱かれたまま尋ねていた。

「何かのために、人の命を代償を求める事は、これほど苦しいことなのですね」

「本当に苦しいのは、それに慣れた自分に気づく事だ」

「私は、国を失うまで、何も知らずに生きてきました」

 彼女はふと気づいたように顔を上げて庭園の木々を眺め、涙を抑える表情に苦笑いを浮かべて、奇妙な言葉を継いだ。

「切り倒したばかりの樹が、燃えないってご存じ?」

「ああ、伐り倒した後、薪にするまで一年か二年は乾燥させるそうだ」

「私、聖都シリャードにいた時、寒さに震える民のために、木を切り倒させたんです。でも、良く乾燥させないと薪にはならないということも知りませんでした。おかげで切り倒した樹を細く削って乾かしたり、それでも乾燥しない樹を燃やすから煙だらけ。今でも想い出すと煙にむせ返るよう。でも、あの時、生き延びるという目的で私は民と一つでした」

 エリュティアの言葉に、アトラスは寂しげに微笑んで言った。

「羨ましい話しだ。そなたが国を失っても、民と一つになれたと言うなら、私は故郷の国と民を失った。故郷に連なる者たちも少なくなり、今や私と同じ記憶を持つ者は僅か」

 故郷の海没と共に家族も失い、長い戦で同じ志を持つ者も減った。エリュティアは慰める言葉を選ぶように答えた。

「お寂しいことですね。でも、今はこの地に、貴方を支え、心を一つする者たちが大勢いる。そう信じる事は出来ませんか」

 エリュティアの言葉に、アトラスはこだわり続けてきた構想を語った。

「アトランティスの国々がアトランティス議会に集う。そうやって人々の思いを一つに纏める。それは夢か」

「今は無くなったものに頼るのではなく、人々がまとまるための別のものが必要では」

 その言葉通り、エリュティアの方が現実的だった。アトラスが頼るというアトランティス議会は春の終わりに行われるのが通例だが、今はその季節も夏の雰囲気を漂わす風と共に吹き去ろうとしている。今は人々の心も離れ、聖都シリャードには各国の王が集った建物が残っているだけである。

 アトラスは遙か遠くを眺める目つきで語った。

「しかし、私は信じたいのだ。人は心を一つにした向こうにある調和を望むと」

「でも、臣下の者たちは噂しています。王子を殺されたグラト国のトロニス殿が戦をしかけてくるのではと」

 心を一つにしようとしても、それを妨げる出来事が次から次に起きるという事だろう。アトラスは少し考えて言った。

「それはこれからの事。今はトロニス殿は軍を退いた。トロニス殿が息子を失ったというなら、我らはマリドラスとラヌガン、そして多くの兵を失った。アトランティス議会に集う時に決着を付けねばなるまいよ」

 

 慌ただしい足音に気づいて視線を転じてみれば、二人で思い出話に更ける間もなく、姿を消していたアドナがライトラスを伴ってやって来た。ライトラスが慎重な表情で言った。

「リマルダからの使者が参りました。緊急の用件だと」

 アトラスは苦笑いを浮かべて答えた。

「ずいぶん深刻そうな顔だな。広間で話を聞く。主だった者、領主たちがいれば、彼らも集めよ」

 この時期にリマルダからの知らせというなら、グラト国のトロニスの事だろう。しかし、それも、アトラスの心の中では、アトランティス議会に集い、真理の女神ルミリアの下、話し合いで決着を付けようと決意している事だった。心配そうな表情の妻にアトラスは微笑みながら言った。

「エリュティアよ。心配せず居室で待っているが良い。後で明るい土産話でも持って行く」


 広間に集う者たちの顔ぶれに、アトラスが良く知らない者たちが混じっていた。傍らにいたジクリラスがアトラスにささやいて、パトローサがグラト国の攻撃を受けると聞いた各地の領主が派兵した兵士を率いていた将たちだと伝えた。

 そんな将や重臣たちが居並ぶ中、リマルダから派遣された使者が居た。広間の上座に立ったアトラスが使者に語りかけた。

「トロニス殿がクスニルスに兵を引けと伝えたか。しかし、それも遅かった」

 アトラスは残念だと言った。連絡も間に合わず両軍は交戦状態に陥り、大勢の将兵の命が失われた。

 しかし、使者は首を横に振って答えた。

「いえ。トロニス殿率いるグラト軍が再びルードン河を渡り、リマルダに侵攻して参りました」

 いよいよグラト国との本格的な戦に突入した。予想していたものの、その事の大きさに広間に集う者たちのどよめきが広がった。アトラスはそんな動揺をおさめるように、そして受け入れがたい事を確認するように尋ねた。

「トロニス殿が?」

「その通りです」

「トロニスめ。私をたばたったか?」

 アトラスは怒りを露わにした。アトラスが聖都シリャードでラルト国とグラト国の間に入って戦の仲介をした折、グラト国王トロニスは、ルージ国と戦うつもりはないと言う事、ラルト国との停戦の後、即座に兵をルージ国領土から退くと約束した。

 トロニスはその約束を反故にしたと言う事である。

「クスニルス殿を殺された復讐でありましょうか?」

 ライトラスの問いにアトラスは即座に答えた。

「いや、違う。トロニスが侵攻した時、クスニルスがルードン河を渡りパトローサを脅かした事は知っていたも、その後、クスニルスが戦死した事までは知らなかったろう」

「では、トロニスは聖都シリャード方面で兵を一度は引いて見せ、我らが王を油断させた後、クスニルスにパトローサを狙わせ、我らが混乱したところを、自らもリマルダを奪いに来たと?」

 ルナイロス領主ラクナルの疑問にアトラスは頷いて同意した。

「そう考えるのが自然だろう」

「なんと狡猾な男でしょう」

 ジグリラスの怒りに満ちた叫びに、広間に集う者たちの賛同とトロニスへの怒りの声が満ちた。アトラスは決意を込めて言った

「我らはグラト国を討つ。これが最後の大戦おおいくさとなろう」

 アトラスの決断に広間に緊張が走った。しかし、先の戦で、グラト国は西のゲルト国の半分を手に入れ、シュレーブ国の分割でルードン河の南の大半を手中に収め、更に東の隣国ラルト国にも侵攻して今やアトランティスの三分の一を掌握する大国となった。一方、ルージ国は本国は海に沈み、シュレーブ国を分割して得た僅かな領地を持つだけの小国になっていた。

 アトラスは視線を転じて言った。

「ビルススの息子ルティックス。そなたの慧眼けいがんには感服した。しかし、すまぬ。そなたの兵にはパトローサ見物をさせる余裕はなくなった」

 アトラスはそんな言葉で、連れてきた兵をしばらくパトローサに留めるという判断をしたルティックスの判断の正しさと、自らの誤りを認めた。

 しかし、その後のアトラスの決断は早かった。

「ニアハ、オスアナ、ガレオル、パリナル、各地から駆けつけてくれた忠義の者たちよ。ご苦労だった。そなたたちはラクナルの指揮下に入り、リシアスを助けてルナイロスの地を奪還せよ」

 今、パトローサに集う兵を合わせれば三千にはなる。トロニス指揮下のグラト軍に比べれば数は少ないが、地の利を考えれば勝ち目はある。ただ、アトラスはその兵の進退をルナイロスの領主ラクナルに任せるという。

 ラクナルが不思議そうに尋ねた。

「我らが王はいかがなさいます?」

 今までは常にアトラスが兵を率いて戦場にいたはずだと首を傾げたのである。

「私はルージ軍歩兵を再編し、ギリシャ兵とともにグラト国を獲る」

 広間に集う者たちはアトラスの言葉に驚いた。聖都シリャード解放の戦が終わった後、アトラスは多くのルージ軍兵士の軍役を解いて故郷へ帰した。しかし故郷たるルージ島は海に沈み、帰る場所のない者たちの多くがパトローサにいる仲間を頼って戻ってきた。そんな元ルージ軍兵士たちが戦乱で焼け落ちた町の再建を手伝いながら暮らしている。その者たちを再び呼び集めれば千人ばかりの部隊を編成する事は出来るだろう。

 自由を約束して兵士にしたギリシャ人たちの多くはパトローサ郊外の森に住まいを構えている。彼らの中から戦える者たちを集めれば五百を超える部隊になるだろう。合わせれば千五百の兵力になる。

 アトラスはアトランティスの三分の一の広大な地を支配するグラト国にそんな僅かな兵力で攻め込むという。

「危険では?」

 眉を顰めたルティックスにアトラスは言い放った。

「トロニスは正規兵の大半を率いてルードン河を渡った。その留守の間に国を守る兵の全てはクスニルスとともについええた。今のグラト国は空だ」

 ラクナルは手を打ってアトラスの剛胆さを褒めた。

「相変わらず大胆なお方だ。では何日でグラト国を墜とすおつもりで?」

「今日から百日」

 アトラスの言葉にラクナルが応じた。

「では我らは、その百日間、トロニスの軍をリマルダに足止めいたしましょう」

 大国との戦で勝機を見いだしたかに見えるアトラスに、広間に集う武人たちが喚声を上げた。

「さすがは牙狼王リダル殿のお血筋」

 重臣たちは、アトラスの大胆さを父親になぞらえて褒めたが、アトラスがその表情の裏に、トロニスの裏切りに対する怒りと、必死で押さえようとしていたマリドラスたちを失った復讐心で心が煮えたぎって、平常心すら失いかけている事に気づく者が居なかった。


 アトラスが心に秘めた怒りをあざ笑うように、冥界のエトンが地を揺らした。


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