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アトラスのパトローサ帰還

 マリドラスとラヌガンがグラト軍と死闘を繰り広げている頃、アトラスは護衛のアドナを伴って街道をパトローサへと進んでいた。

 馬を疲れさせ乗り潰さないよう、時折、餌と水が得られる場所で休息を入れ、乗り手も軽い食事をする。先を急ぎながらも焦りばかり増す時間だった。

 アドナが言った。

「急がねば。エリュティア様は大丈夫だろうか」

「マリドラスとラヌガンが居る。歴戦の将と兵だ。そしてトロニス殿には、誤った命令で兵を足したクスニルスに兵を退かせる命令を出すよう伝えてある」

「間に合わないのでは?」

 アドナはもっと馬を急がせなければ、パトローサに迫るというグラト軍を撃退するのに間に合わないと言う。

「間に合わないだろう」

 確信を込めた言葉に驚くアドナにアトラスは説明を続けた。

「クスニルスの兵は三千だという。我が騎馬兵は精鋭とは言え千に満たぬ。エリュティアと民を守って、パトローサの北の町に逃がしているさ」

 歴戦の将故、無駄な戦いは避けて、勝機が見いだせる兵力が集まるまでの間に、出来る最善の事をしているだろうというのがアトラスの判断だった。

 パトローサからアトラスに発せられた使者の幾人かは、クスニルスの軍によって捕らえられてアトラスの元に届いていない。アトラスはクスニルスの兵が三千どころかその倍は居る事を知らなかった。何より、エリュティアの命令とも依頼ともつかぬ指示で、マリドラスたちがパトローサ防衛の戦いに赴いた事も知らなかった。


 聖都シリャードを発って街道を西の王都パトローサへと戻るアトラスと護衛のアドナは、街道上にグラト軍の宿営地跡を見つけた。食事を作った焚き火の数、宿営地を囲む一夜の簡便な柵などを見れば、情報通り約三千ほどの敵だと分かる。そして街道沿いに宿営地があると言う事は、敵はルードン河の川辺を離れ行軍しやすい街道上を進んでいる。

「街道沿いに進むのは、危なくないかい?」

 アドナが当たり前の心配を口にした。馬に乗った主従二人が街道上を急げば、前方に居る三千のグラト軍と遭遇する。自分一人ではアトラスを守りきれなくなる。

 アトラスは重々しく彼の見込みを語った。

「いや。このまま急ごう。敵は既にパトローサにいるだろう。早く、その状況が知りたい」


 数が圧倒的に不利なルージ軍は、兵力を集結させつつ、今は戦を避けている。そんな判断で先を急いでいた二人は、その街道上で戦の形跡に遭遇した。

 戦死者を葬る余裕もなかった戦場跡に、矢を受けた百近い遺体が放置されていた。武具から判断すれば、戦死者は全てグラト軍兵士である。戦死者を倒したとすればルージ軍。マリドラスは以下の騎馬兵でしかあり得ない。戦死者を見れば局地戦の一方的な勝利だが、アトラスは首を傾げた。

「どうして、あの戦場巧者が無謀な戦をしたのだろう」

 ルージ軍の戦闘の跡にアトラスは首を傾げて進んだ。そうやって二人は戦場の臭いに引かれるように街道を外れ、ルードン河の川辺にたどり着いた。広い河原のあちこちに乗り手を失った数百の馬が、自分を愛してくれた主人を捜すように彷徨っていた。既に戦場の憎しみが消え、苦しみと哀しみが満ちた場所だった。


 その光景を眺めたアトラスは絶句し、ようやく言葉を絞り出した。

「そんな馬鹿な」

 ルージ軍兵士が、未だ息のある仲間の負傷者の手当に慌ただしく働いているのだが、その生き残った兵の数は百にも満たない。

 そんな兵の一人が、片腕という特徴でアトラスに気づいて叫ぶように言った。

「我らが王よ。マリドラス様は敵将を、クスニルスはラヌガン様が討ち取りました。しかし、私はお二人をお守りする事も出来ませんでした」

 その兵士の傍らに二人の男が物言わぬ遺体になって横たわっていた。アトラスは遺体の傍らにひざまづいて、空を仰いで嘆いた。

「マリドラスよ。ラヌガンよ。どうしてこのような無謀な戦を」

 命を捨てなくとも、もっと有利に戦う事も出来たはずだと嘆いている。アドナは感情を抑える事の多いアトラスが感情を爆発させるのを眺めるのは初めてだった。彼女は王を慰めるすべも知らず立ちつくしていた。


 同じ頃、王宮にはルナイロスの領主ラクナルたちが顔を揃えていた。パトローサが危険にさらされているというマリドラスからの一報に触れるや、彼は領地から兵を集めた。それは驚くほどの早さで、アトラスからの使者は、兵を率いて領地を出立した領主の後を追って命令を伝えねばならぬほどだった。

 パトローサの北のタッドルに集結せよとの命令だった。しかし、その指定の地よりずいぶんパトローサに近い位置まで進出していた。

「ここまで来たのだ。エリュティア様を守って退却しよう」

 それがラクナルの判断だった。彼は兵をパトローサまで進める事にしたが、戦場になるという噂が飛び交うパトローサから脱出する民の群れと遭遇した。まだ戦火はパトローサに及んでいないという。

 敵が迫っているという緊迫感に包まれながら王宮に入ったラクナルは、マリドラスが騎馬兵を率いてグラト軍の迎撃に出た事を知った。むろん劣勢で勝ち目の薄い戦になる事は理解できる。彼は即座に言った。

「敵は三千から四千と聞いている。我らも至急マリドラス殿の加勢に向かおう」

 ラクナルの言葉に、政務を預かるライトラスが言った。

「しかし、王は北のタッドルの町に集結せよとお命じになったのでは」

 エリュティアを危険なパトローサから遠ざけるべきではないかというのである。しかし、ラクナルは武人としての誇りもある。

「マリドラス殿とラヌガン殿を見殺しにせよと仰っているわけではあるまい」

 興奮も露わに反論するラクナルに、ジグリラスがマリドラスの言葉を伝えた。

「パトローサから離れる折、マリドラス殿が言われました。『三日の時間を稼ぐゆえ、後は頼む』と。あれは命をすり減らして稼ぐ時間に、ラクナル殿たちの軍を集め、後事を託すという事でありましょう」

「マリドラス殿がそんな事を」

「さすれば、今、ラクナル殿がお連れになった軍は三百ばかりと聞き及びます。その兵で加勢に出向いても勝ち目は薄い。あと、一日か二日で他の領主たちも兵を率いて駆けつけるでしょう。北東のオジロマの森に住むギリシャ人や元アトラス王の配下の歩兵たちも駆けつけましょう。残った者は勝つために戦をせよ。マリドラス様はそう言い残したのでは」

 確かに各地の領主たちの兵がおり、アトラスが軍務を解いて故郷に送り返したものの故郷が海に沈んで帰国できずに戻ってきた者、聖都シリャード解放の戦の後、アトラスとの約定通り自由を与えられた元ギリシャ人たち。アトラスの元で戦える者は数多い。


 王宮が混乱する中、一人の侍従が駆け足で広間に現れて告げた。パトローサに得体の知れない者たちが現れたという。身分を問いただせば元はシュレーブ国の民。グラト軍に徴募されてマリドラスに下った後、パトローサへ行けと命じられた者たちだった。

 その者たちの言葉から戦況が知れた。マリドラスの部隊は敵の第一波を撃破したものの更に強力なクスニルスの本隊との戦いに挑んでいるという。しかし、その戦いは始まり、終わりかけている頃だろう。

「マリドラス殿の犠牲。無駄にせぬ」

 ラクナルたちは判断を迫られた。マリドラスの加勢に到着する頃には戦は終わっているだろう。勝っていればいいが、不利な戦いで、負けていれば勝利の勢い乗ったグラト軍は一気に襲いかかってくる。ラクナルの三百ばかりの手兵など踏みにじられるだけ。とすればアトラスの命令通り、エリュティアを守って北のタッドル町へ移動し、兵力を集結させた後、戦う。


 その迷いの中、王宮に新たな使者が着いた。ルードン河河畔で戦い終わったルージ軍騎馬隊の生き残りの一人だった

「お味方の勝利。お味方の勝利。グラト軍は退却した」

 戦勝の報告と言うには、あまりに犠牲が大きかった。二人の指揮官を失い、多くの兵士が死んだ。ルージ軍旗馬隊も壊滅状態だった。宮殿には哀しみが広がった。亡くなった二人は、アトラスからパトローサの占領統治を任されて以来、善政を敷き、元シュレーブ国の人々からも慕われていた。

 同時に、王子を討ち取られたグラト国との本格的な戦が始まるに違いないという重い雰囲気が宮殿に立ちこめていた。


 一夜明け、朝霧も晴れぬ早朝、アトラスとアドナが沈痛な面持ちで帰還した。アトラスは宮殿にいた主だった者たちを広間に集め、事の経過を語り、マリドラスとラヌガン、その配下の兵士の遺体は、彼らの勇敢さを讃えてその戦場の傍らに埋葬した事、日を改めてアトランティスの儀礼に則り、墓標代わりの石碑を設置しようと語った。そして、パトローサを守った勇者たちの追悼式の準備をするよう命じただけである。

 アトラスの話しに、戦の相手の事が欠けていた。政務を預かるライトラスが尋ねた。

「では、トロニス殿は素知らぬ事で?」

 今回の戦は王子クスニルスの暴走で、グラト国王トロニスの意図ではなかったのかと問うのである。

 アトラスは頷いて言った。

「その通りだ。念のためリマルダのリシアスに、トロニス殿の本心を問いただす使者を出させている」

 アトラスはため息と共に言葉を継いだ。

「戦は終わった。そう信じたい」

 アトラスは未だ仮初めの平和を信じている。アドナの見たところ広間に集まった者たちはアトラスの言葉を受け入れては居ない。王子を殺されたグラト国が黙って居るはずがないと考えているに違いない。そして、アトラス自身が自分の自分の言葉に納得していないようにも見える。彼もマリドラスとラヌガン、そして多くの兵を失った怒りを胸に抱えていた。

 アドナは思った。

(憎しみは、戦と死でしか消すことが出来ぬのか? いや。憎しみを消せるとしたら、ただお一人……)

 彼女は視線を動かしてその人物の姿を探し求めたが、広間の中に見つける事が出来なかった。

 アトラスが声を挙げて、兵を率いて到着していた二人の名を呼んだ。

「ルナイロス領主ラクナル、ビルススの息子ルティックス。そして、今、パトローサの危機を聞いて駆けつけている者たちの忠義に礼を言う。ご苦労だった。せっかく集まってもらったが、パトローサの安全はマリドラスが守った。兵を連れて帰るがいい」

 ラクナルとルティックスが顔を見合わせ、ルティックスがアトラスと向き直って言った。

「王よ。我ら片田舎の出身。兵どもにもパトローサの様子を堪能させて、生涯の語りぐさにさせてやりたいと存じますが」

 そんな言葉で、アトラスはルティックスの意図を察した。トロニスの動向に注意し、今しばらくは兵をパトローサ近くに留め置いた方が良いと言うのである。ラクナルも賛同して言った。

「おっつけ、他の領主の兵も到着いたしましょう。その兵にもこのパトローサでマリドラス殿とラヌガン殿、そしてその配下の兵の勇敢さを語って聞かせてやりとうございます」

「好きにするが良い」

 アトラスは作り笑顔でそう言い、その言葉を最後に広間を去った。広間に集う重臣たちはアトラスの心情を考えれば、彼を引き留める事は出来なかった。

 足早に廊下を歩くアトラスの後ろに、影のように付き添う人物が居る。足音が乱れ戸惑う雰囲気に、アトラスは背後のアドナを振り返って尋ねた。

「どうした?」

 アドナは素直に首を傾げ、自分の考えをどう伝えて良いのか迷いながら、言葉を紡ぎ出した。

「無事に帰ってきたのだ。王の無事を祈って待っていたエリュティア様に、挨拶しなくては駄目だ」

 先ほど、広間に姿を見せなかった人物の事である。


 この時、足下がふらつくほど地が揺れた。アトラスたちにとって日常の一部になっていた現象だが、この瞬間にもアトランティスの大地のどこかが海に沈み続けていた。


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