マリドラスとラヌガンの死。ルージ軍騎馬隊壊滅
グラト軍の陣で戦いの開始を告げる角笛が鳴った。敵味方の距離は僅か四分の一ゲリア(約二百メートル)。グラト軍前衛の徴募兵たち二千人が、百名ほどの正規兵に後ろから追い立てられるように前進を始めた。クスニルスが居る正規兵千の本隊はその後ろである。
ただ、タッドルススの配下にいた仲間が、今はエリュティアの保護下にいると聞かされた徴募兵の歩みは遅く、足並みも乱れている。そんな徴募兵を百名ばかりの正規兵が剣を抜いて背後から追い立てていた。
駆け出せば一呼吸で剣を合わせる距離になった。マリドラスは冷静に命じた。
「五十歩後退。一歩……、二歩……、三歩……、四歩……、五歩……」
マリドラスの命令は復唱されながら隊列の端々まで広がって、兵士たちは命令に合わせて、傍らの愛馬とともに後退した。
背後から剣で追い立てながらも充分な訓練を受けず足並みが乱れる敵と、整然と後退する味方の距離がやや広がった。
前面のルージ軍と、後方で剣を振って脅すグラト軍正規兵。前後の恐怖に駆られて前進する徴募兵の歩みは遅いが、それでも敵味方の間隔は縮まっていった。
マリドラスは再び同じ命令を下した。
「五十歩後退。一歩……、二歩……、三歩……、四歩……、五歩……」
しかし、後退するルージ軍の背後には、河の土手の上り坂があり、巨大な壁へと追い詰められているように見える
それでも敵味方の距離が縮まったのを見たマリドラスは命令を繰り返した。
「五十歩後退。一歩……、二歩……、三歩……、四歩……、五歩……」
ルージ軍は後退しつつ土手の坂を登った。
一方、ゲルト軍の本隊ではクスニルスが前方を指さして機嫌が良い。
「見よ。ルージ軍は我らを恐れて、じりじりと後退しおるわ」
ルージ軍もこの戦場から逃げれば、次の戦場はパトローサ。新たな都を戦火に晒しことになるから逃げるわけに行くまい。そして、この戦場でも際限なく後退する事は出来ないだろう。剣を交えるにはもう一押し。ルージ軍に自分たちが有利かと勘違いさせれば、ルージ軍指揮官は、剣を交えようと決心する。彼らが土手の高みから戦に不慣れな徴募兵を見下ろせば、剣を交わす頃合いが来たと判断するだろう。彼らが徴募兵と戦い始めれば動きは止まる。グラト軍正規兵は有利な方向に移動して、ルージ軍に襲いかかったり、ルージ軍を包囲する事も出来るだろう。
そんな事を考えるクスニルスの傍らに、武将の甲冑に身を包んで控えている男がいた。周囲の兵士たちより頭一つ分高く、肩幅があり、首が隠れるほど肩の筋肉が盛り上がって逞しい。
クスニルスは頼もしそうにその男を眺めて言った。
「ワングルスよ。そなた一人でも敵を蹴散らせるのではないか」
しかし戦場に望む将軍ワングルスの表情は固い。会話にならない事を悟ったクスニルスは肩をすくめるように次の命令を叫んだ。
「角笛を吹かせよ。雑兵どもを、もっと前進させよ。ルージ軍に血を流させ、疲れさせよ」
ルージ軍は戦いから逃れるようにじりじりと後退を続け、マリドラスが振り返ってみれば平坦な河原から土手の登りへと差し掛かっていた。
しかし、クスニルスの傍らに控えていたワングルス将軍が、クスニルスが大喜びを続ける戦況に疑問を呈するように眉を顰めて声をかけた。
「クスニルス様」
「なんだ?」
「前衛が本隊から離れすぎているかと」
味方の兵が前後に大きく離れすぎているという。しかし、クスニルスは笑い飛ばした。
「いや。ただの気の迷いぞ。見よ。敵を我らの攻勢に何も出来ずに尻尾を巻いておるわ」「しかし、それも何かの策略では?」
その策略を説明する間もなく、徴募兵の列にじりじりと土手の上に追い上げられているルージ軍が、土手の上、徴募兵の列の向こうに視界から消えた。
一方、ルージ軍は後退を続けていたものの、統制が取れて整然とした動きで乱れがない。隊列の最も左に位置したマリドラスは、グラト軍の視界から姿を消すや、傍らの兵に角笛を吹かせた。隊列の最も右に位置したラヌガンも、角笛を吹かせるや命令を発した。
「乗馬!! 右翼は私に続け」
やや早く、マリドラスも左翼の兵に同じ命令を発していた。
敵と正面から向き合っていたルージ軍兵士の戦列が、中央を境に左右に向きを変えた。左の先頭にはマリドラス。右の先頭にはラヌガンが位置していた。彼らは正面の敵を捨て置いて、それぞれ四百ばかりの兵を率いて左右に駆け始めた。
敵の徴募兵はその勢いと意外さにあっけにとられるように、ルージ軍の変化に応じる事も出来ず呆然と眺めていた。
ラヌガンは後方に率いる四百ほどの兵士の列の後尾がグラト軍の前衛の前を通り過ぎたのを見計らって、進路を左へと旋回させ、敵の本隊と前衛の間に出来た隙間に突入していった。
左に位置したマリドラスもラヌガンと呼応して、敵の隊列の隙間の左から突入していった。
二人は左右で同じ事を叫んでいた。
「突撃!! 私に続け。目指すはクスニルスただ一人」
グラト軍の本陣から見れば、ルージ軍は二列に分かれて左右から迫りつつある。将軍ワングルスその勢いと速度を眺め、彼らの意図を知った。
(馬の機動力を生かしてこの本陣を狙うつもりか)
彼はこの時に取れる唯一の命令を発した。
「王子をお守りせよっ」
ルージ軍にとってクスニルス一人殺害すれば良いのと反対に、グラト軍にとって世継ぎの王子は、どんな犠牲を払ってでも守らなければならない存在だった。クスニルス一人の命を巡って両軍の兵士が命を捨てる凄惨な戦闘になった。
ルージ軍はグラト軍の戦列に馬ごと体当たりをするように突入し、前進の勢いが止まれば馬を下りて剣を抜き、馬の尻を叩いて戦場を脱出しろと伝えた。馬たちは敵を押しのけ踏みにじりながら戦場から駆けだしていったが、それでも分厚い敵陣に取り残された馬の嘶きが、戦場の怒号に混じった。
剣を力一杯振れば味方に当たるのではないかと思うほど、敵味方が入り乱れ、狭い戦場に兵士が詰まっていた。乗り手を失った馬に地に倒れた負傷者が踏みにじられて悲鳴を上げていた。
そんな戦場で、ただ一つの目標を目指して敵陣の左右から突入した二人が再会した。
「叔父上」
「ラヌガンか」
しかし、挨拶を交わす暇もなかった。敵味方の兵士が激しく入り乱れて戦うその兵士たちの頭越しに、混乱するグラト軍本陣から脱出する事も出来ず、自ら剣を抜いて戦おうとするクスニルスの姿が見える。思いもかけず突入してきたルージ軍と戦うグラト軍兵士と、クスニルスをこの戦場から脱出させようとするグラト軍将兵。グラト軍自身も戦いの目的が混乱した。
ルージ軍騎馬兵は塊となって、敵の横に長い本隊の中央に突入した。そして、ゲルト軍の正規兵の隊列は、隊列中央の胸元に飛び込んできたルージ軍を両腕で抱え込むように包み込んでいった。
目標を目指す勢いは一塊になって前進するルージ軍にあったが、戦闘が進むにつれて包囲されて周りから攻撃を受け続けるルージ軍もゲルト軍を上回る死傷者が増え続けていた。しかし、その犠牲もマリドラスたちにとって承知の上だった。後退しつつ敵の兵力を削いで来たが、パトローサまであと僅かに迫るこの位置から退却はできない。あとは最後の一兵になってもクスニルス一人を殺せば勝利。逃してしまえばパトローサを守る目的は果たせず負ける。
自分の命など眼中にないルージ兵は、数を減らしながらもグラト軍本陣に迫っていた。その中、クスニルスを守って戦場から逃そうとしていたワングルスは、めざとくマリドラスの姿を見つけた。周囲の兵に命令を出している様子からルージ軍の指揮官だと分かる。
「あの男を討ち取ってやろう」
それがワングルスの判断だった。この混戦の場でルージ軍の指揮官を討ち取れば戦況はグラト軍にとって好転する。
「そこのルージ軍の将よ。我はワングルス。グラト軍で一隊を預かる者だ。一騎打ちを所望」
名乗りを上げられれば応じるのがアトランティスの武人の礼儀だった。
「おおっ。私はマリドラス。ルージ軍で王の騎馬隊を預かる者だ」
マリドラスにとっても望むところだった。戦況を見れば、敵の王子を守って安全なところに移そうとしている敵将が、一騎打ちで王の護衛から外れて、王子の守りが手薄になる。部下の兵には王子を討ち取れと厳命を下してあるばかりか、ルージ軍には今一人、指揮官としてラヌガンがいる。マリドラスが敵将と戦っている間にラヌガンが王子を討ち取る戦いをする。
ただ、彼に一致討ちを挑んできた相手を眺めれば、見上げるほど体格が良い。彼は敵を眺めて微笑みながらも思った。
(何のために生きてきたのかだと? この瞬間に輝くためさ)
ワングルスが力任せに振りおろした剣を受け止めた盾から左腕が痺れるほどの衝撃が伝わってきた。マリドラスはワングルスが再び剣を振り下ろそうと振りかぶった隙を突いて剣を敵の胸にめがけて突き出した。しかし、ワングルスは意外に身軽に上半身を反らして避け、マリドラスが頭の側面に構えた盾を叩き割るほどの勢いで、大きな剣を横になぎ払った。マリドラスは盾を構えてそれに耐え、間髪入れずに剣の切っ先をワングルスの胸元に突き出した。互いに剣を交わす間にも彼らの周りでは敵味方の兵士が戦い、傷つき倒れていった。
体格の良いワングルスが力強く振り回す大きな剣を避けようとしたのはマリドラスだけではない。一騎打ちによって、密に詰まっていた敵味方の兵の隙間がワングルスの周りで大きくなった。
ラヌガンが数人の兵と共に、その隙間をすり抜けるように突入した。クスニルスまであと十数歩の僅かな距離だった。
ワングルスが傍らをすり抜けたラヌガンに気づいて、相手を変えて剣を振りおろそうとした。
「そなたの相手はこの私だろう」
マリドラスはそう叫んで、ワングルスへ剣を投げつけた。ワングルスはそれを避けきれず、腹に受けた。しかし、ワングルスは腹に刺さった剣を、やや眉を顰めただけで何事もなかったかのように抜いて捨てた。
ワングルスはまずは邪魔者から片づけると決めたように、剣を構えてマリドラスに歩み寄り、マリドラスは戦死した敵兵の槍を地面から拾って構えた。再び、二人の一騎打ちが始まった。しかし、二人の足下はただの大地ではなかった。ワングルスは一歩踏み出した足が死体につまづいて、重い剣を振り回す上体がふらついた。マリドラスが突き出した槍の穂先が鎧を貫いて心臓に達した。ワングルスは悲鳴も上げずに絶命したが、その勢いのままマリドラスに剣を振りおろした。マリドラスも地に伏した敵の負傷者の体に足を取られてよろめいてその切っ先を避ける事が出来なかった。マリドラスは鎧の肩から胸へと切り裂かれて血に染まった。
マリドラスは残された命の僅かな間に、槍を杖に立ち上がり、ラヌガンが進む方向を眺めた。クスニルスはもはや十歩ばかりの距離。数人の護衛を打ち払えば、彼の剣はクスニルスに届く。
「ラヌガンよ。頼むぞ」
マリドラスが地に倒れ伏す前に吐き出した呼吸ともつかぬ言葉は、そう言う意味だったろう。
八百人近くいたルージ兵もグラト軍の正規兵と共にすり減るように数が減り、いま勢いよく剣を振る者など僅か。皆疲れ切って呼吸が荒い。ただ、それはグラト軍の正規兵も同じ。互いにじりじりと兵をすり減らして、グラト軍の包囲網もいまや十数人規模に分かれていくつもの戦闘が行われている有様だった。
その中で、ラヌガンの傍らで彼を守りつつ戦う味方は十数人。クスニルスを守っていた兵士の数もまた同じぐらいに減り、もはや意識もなく戦え事も出来ない負傷者と戦死者の遺体ばかりが増えていた。
ラヌガンは兵士に守られて移動している男に叫んだ。
「お前がクスニルスか。静寂の混沌への手みやげに、そなたの命を所望」
男はラヌガンに応じようと向き直りかけたが、周囲の兵士がそれを遮った。王子を子の戦場から無事に脱出させよというのがワングルスの命令だった。グラト軍兵士たちはその命令を守るつもりで居る。
ラヌガンは更に徴発の言葉を投げかけた。
「臆病者のクスニルス。逃げ回っていては戦にならぬぞ」
クスニルスも戦場で臆病者呼ばわりされるのには耐えられなかった。彼は叫んだ。
「我はグラト国王子クスニルス。逃げも隠れもせぬ。クソ生意気なお前は誰だ?」
「我はルージ国王アトラス様に仕えるラヌガン」
そう名乗るラヌガンの姿を眺めてクスニルスはほくそ笑んだ。目の前の将は少数の兵で戦いを挑み、今は肩で大きく息をするほど疲れ切っている。戦場で敵将を討ち取るのはアトランティスの武人にとってこのうえもない名誉だった。クスニルスにはその名誉が自分に転がり込もうとしているように見えた。ただ、彼はラヌガンの目の奥の戦意の鋭い光を見落としていた。
クスニルスは自分を守って戦場を脱出させようとしていた十数人の兵士たちに命じた。
「私はあの敵将を討ち取ってくれる。お前たちは他の邪魔者どもを片付けてしまえ」
王子の命令には逆らえず、クスニルスを守っていた兵士たちがルージ兵に襲いかかってきた。兵士たちが戦い始めるや、クスニルス自身も剣を抜いてラヌガンに挑みかかってきた。
しかし、疲れ切っているとはいえ幾多の戦場を経験しているラヌガンに分があり、一合、二合と剣を交わすにつれてクスニルスは新たな傷を負い、その目の驚きがやがて恐怖に変わった時、彼の命が尽きた。ラヌガンは地に倒れたクスニルスの首筋を剣で貫いて止めを刺し、クスニルスを最後の苦しみから救った。
ラヌガンは戦場に轟き渡る勢いで叫んだ。
「クスニルスを討ち取った。クスニルスは死んだぞ」
この事実さえ戦場の敵味方に広まれば戦の勝敗は決定し、指揮官を失った敵は退却するしかない。
言葉を繰り返そうとしたラヌガンだったが、突然の衝撃に大きく目を見開いて胸元に突き出した槍の穂先を眺めた。彼の口から血が溢れて言葉が途絶えた。ルージ兵との一時の勝利を得た敵兵の一人が、次の戦いを求めて突き出した槍が、ラヌガンの体を背後から貫いていたのだった。




