タッドルスス戦死
ラヌガンたちを送り出した後の駐屯地の夜も更けた。見張りを残して兵士も馬も眠りにつきかけた頃、マリドラスは近づいてくる馬蹄の音で目を覚ました。馬で駆けるとすればルージ軍。前方にいるラヌガンが急ぎの使者をよこすことは考えられるが、近づく馬蹄の音は一つや二つではない。
「何事か」
彼はベッドから起き出して幕舎から姿を見せた。そこには敵陣に向かったはずのラヌガンの姿があった。
「叔父上。敵は既に進軍を始めています」
敵が宿営地に留まって休息していれば、昨夜同様に敵を攪乱する事も出来るが、移動して居るとなるとそれは難しい。攻撃をかけるより、その行く先を突き止める方が良い。
マリドラスが尋ねた。
「それで、敵は何処へ?」
「街道から外れ、ルードン河に向かう模様です」
「ルードン河だと」
「おそらくは、水を得るためでしょう」
ラヌガンの言葉にマリドラスは頷いた。彼らはグラト軍の進路上の井戸を埋めるなどして敵の水の補給を絶っていた。敵はそれに加えて昨夜のラヌガンの襲撃で起きた火災を消すのにも水を消費しすぎたのかも知れない。敵が水を得るにはルードン河に頼るほかない。
マリドラスは目の前の光景に、疑問の矛先を変えた。
「しかし、そなたが連れている者たちは誰だ?」
ラヌガン背後に、彼の指揮下の兵士たちが与えた水を、むさぼるように呑んでいる十数人の者たちが居る。不思議な事に、彼らが身につけている武具はグラト軍の物だ。与えられたパンにむしゃぶりついて喉に詰まらせてむせ返る者も居た。奇妙な男たちが渇き飢えている様子がうかがい知れた。
「この者たちは敵の脱走兵です」
ラヌガンの言葉にマリドラスは頷いた。やはり敵は水の不足に困っている。アトランティスの軍隊が携行食にするカンバクと呼ばれる固く焼いたビスケットは、水がなければ飲み込むのも難しく、塩気の強い干し肉も水がなければ食べられない。敵兵は渇きだけでなく飢えにも悩まされている様子がうかがい知れた。
マリドラスがそんな敵の脱走兵を眺めて尋ねた。
「そなたは、この者たちを捕虜にしたというのか」
「捕虜と言えるかどうか。途中、この者たちと遭遇し、話を聞いてみると、ルードン河対岸の元シュレーブ国の民で、村々から徴募されてグラト軍兵士にされた者たちだと」
脱走兵の一人が言った。
「脱走すれば、故郷の家族が酷い目に遭います。しかし、大勢の仲間が死にました。我らが逃げても、誰が逃げたかなど分からないだろうと思います」
別の脱走兵も言った。
「グラト軍は我らを兵士にしながら正確な人数も知りません。ひょっとすれば、脱走した事も知られずにすむかと」
「なるほど」
頷くマリドラスにラヌガンが言った。
「そして、この者たちが気になる事を……」
そう言ったラヌガンに促されて脱走兵の一人が口を開いた。
「タッドルススの後に、クスニルスが率いる兵隊が三千ほど。その内、私たちのような徴募兵が二千ばかりと聞き及んでいます」
「他にも敵が居るというのか……」
マリドラスが呆れたように言った。彼か率いる八百人の騎馬隊だけでタッドルススが手に余っているのに、その敵に更に三千もの新手が居るという。タッドルススが徴募兵を平気ですりつぶす戦が出来るのも納得が出来た。
マリドラスは改めて尋ねた。
「ではその後方の部隊をクスニルスが率いているというのだな?」
その問いに大勢の脱走兵が頷いて、疑う余地はなかった。そんな脱走兵の中から別の声が上がった。
「我らはどうなるので?」
グラト軍から脱走して、もはや帰る事は難しい。彼らは次に降りかかってくる運命を心配しているのだった。
マリドラスは彼らに笑顔を向けて言った。
「安心せよ。そなたたちの事はエリュティア様も心配しておられる。きっと良く取り計らってくださるだろう」
そのエリュティアという名に脱走兵たちは頷きあって納得した。シュレーブ国は滅んで分割されても、民には王家の姫に対する敬愛が残っていた。
しかし、敵の兵力は更に増し、ルージ軍は大きく不利になった。その不利を覆すとすれば、ただ一つしかない。そう言わんばかりにラヌガンが言った。
「叔父上。クスニルスの居場所が分かったところで夜襲をかけてはいかが」
もともと、敵の王子さえ葬れば敵の軍は瓦解すると考えている。危険だが、ラヌガンが言うのは、少数のルージ軍が大軍のグラト軍を打ち破る最善の方法だろう。
しかし、今はマリドラスは首を横に振った。
「いや。今から前面のタッドルススを避けて遠回りをして後方の敵と当たろうとすれば、夜が明ける。まずは今夜の内にタッドルススと一戦しよう」
マリドラスはそう言って、脱走兵たちに向かって言葉を続けた。
「そなたたちの力を借りたい。そなたたちが、仲間を救うのだ」
「どうするのです」
首を傾げるラヌガンにマリドラスが答えた。
「エリュティア様の御名を利用させてもらおう」
彼は旧シュレーブ国の民にとってエリュティアの名が絶大な信頼感を持っている事を知っていた。今はグラト国の民になった脱走兵たちの様子を見てもそれがわかる。
マリドラスの騎馬隊は松明の明かりも持たずに闇にとけ込んで、星の光だけに照らされた街道を東へ進んだ。やがて、タッドルスス率いるグラト軍の隊列が掲げる松明の明かりが見えた。その明かりを繋いでみれば長い列を作って進んでいるのがわかる。その隊列の進む先は街道を外れてルードン河の方向である。脱走兵がもたらした情報通り、水不足に悩んだ敵はルードン河で水を得ようとしている。
そして、タッドルススは水不足と、ルードン河の河原に移動するという知らせを後方のクスニルスの部隊にも伝えているに違いない。クスニルスもタッドルススの部隊を追ってルードン河の川辺に来る。
タッドルススが指揮するグラト軍の正規兵は百名余り。その大半が、士気が低く逃亡の恐れもある徴募兵の見張りとして、長い隊列の要所要所に分散している。隊列の後尾を行くタッドルススの身辺を守る正規兵は僅か。その護衛が持つ松明に照らされてタッドルススらしい姿が闇に浮かび上がっていた。
接近すれば敵に見つかる恐れもあり、敵をまっすぐ狙うには距離があるが、斜め上に矢を放ち敵の頭上から降らす事なら出来る距離である。
馬を下りた兵には弓を持たせている。
「矢を放てっ」
低いが良く通る命令が闇に響いた。数百の矢が空に放たれた。間もなく敵の隊列に灯った松明の明かりに乱れが生じた。ルージ軍が放った矢が、敵の辺りを外さず降り注いだということである。長い隊列の横を、後方の異変に気づいて移動する松明の明かりが見える。徴募兵の逃亡を見張っていたグラト軍の正規兵が、後尾の指揮官の異変に気づいて駆けつけていくのだろう。タッドルススの周囲にはそんな正規兵の数が増え、指揮官の負傷とどこから飛んできたのか分からない矢に混乱を深めている。マリドラスはそんな場所に更に三度矢を射させた。
マリドラスは兵に乗馬を命じながら言った。
「叫べ。エリュティア様に刃向かう者こそ敵である。エリュティア様に刃向かう者を殺せ。グラト兵を殺せ」
叫ぶ相手は敵の徴募兵である。徴募兵に本当の敵が誰か教えてやらねばならない。マリドラスは部下に命じながら、自らも叫んだ。敵との間に距離があって、敵に声は届いても声の意味を理解する事は難しいかも知れない。
マリドラスは敵の後尾めがけて駆け始め、兵士たちも迷いも見せず彼の後を追った。
「エリュティア様に刃向かう者こそ敵である。エリュティア様に刃向かう者を殺せ。グラト兵を殺せ」
その声は馬上のルージ軍兵士たちに広がりつつ、敵に迫っていった。
隊列の後尾に馬を乗り入れてみると、矢を受けたグラト軍兵士が数多く倒れ苦痛に喘いでいた。僅かに残っていた兵士たちが守ろうとしているのが、やはり矢を受けて負傷した指揮官のタッドルススに間違いなかった。
マリドラスたちは馬を下り、剣を抜いてグラト軍兵士に挑みかかって行った。この馬を下りなければ、敵と剣を交わして戦えないというのが、ルージ軍騎馬隊の致命的な欠点と言えた。馬で駆ける勢いも利用できず、生身の人間同士、剣を交える。
同じ頃、ラヌガンが連れ帰った脱走兵たちが、闇の中からグラト軍の隊列に混じり込んで叫んでいた。
「エリュティア様に下って、グラト兵を殺せ」
「エリュティア様こそ我らの王女」
先の戦いで、徴募兵の数は二千五百余りに減っていた。それでも、彼らを統率する正規兵百人より遙かに多く、その正規兵も隊列後尾の騒動に駆けつけて行って、徴募兵の逃亡を見張る正規兵の姿はまばらだった。
そして、徴募兵たちには、自分たちを死地に追い立てる正規兵たちに恨みと憎しみが渦巻いていた。脱走兵たちの叫びは、そんな徴募兵の憎しみに火を付けた。隊列のあちこちで徴募兵を見張っていた少数の正規兵は、徴募兵に襲われて抗う統べもなく殺されていった。
「ルージは味方。敵はグラト。我らはルージの先兵となる」
脱走兵たちはそう叫んで回っていた。仲間を無駄死にから救うために必死な叫びだった。
一方、グラト軍の隊列の後尾でも戦闘は終わった。
「タッドルススは討ち取った。タッドルススは死んだぞ」
そんな勝利の雄叫びが馬を下りたルージ軍の間に広がり、僅かに残ったグラト軍正規兵も、戦意を失って逃亡したり、ルージ軍の捕虜となった。
夜が明けて戦の全貌が明らかになってみると、グラト軍に属した徴募兵の大半は武器を捨ててルージ軍に下った。マリドラスにとってそんな勝利の喜びも眼中になく、目の前に横たわる味方の死体の前で瞑目していた。彼はこの夜の戦いで五人の味方兵を死なせ、十人の兵がもはや戦えないほどの傷を負った。
次に控えるクスニルスの戦いでは、今回のような都合の良い展開にはなるまい。クスニルスの正規兵千と直接に剣を交わす激しい戦闘になる。
大きな勝利に、彼に尊敬の視線を向ける兵士たちが居る。彼は笑顔で答えながらも兵士たちと見つめ合う事が出来ないで居た。彼はこの多くの兵士たちを死に追いやる戦をしなければならない。
「冥界の神……」
地が揺れて敵を飲み込んでしまえば、この兵士たちを死なせずにすむ。しかし、彼は自分の心の迷いに苦笑いをして、そんな思いを振り払った。
彼らアトランティスの人々は、人が人として、自ら運命に挑む人々だった




