ピレナの迷い
オルエデスは船酔いでふらつく足を桟橋から陸へと向けた。振り返って眺めれば、ここは商船が利用する港で、その港の桟橋に並んだ三十もの軍船は偉容を放っていた。人々は突如現れた軍船に怯えた視線を向けていた。オルエデスにはそれが心地よかった。船底の浅い軍船は港の桟橋に着けず、遠浅の砂浜に着岸させる事が多い。オルエデスにお目付役として同行するバイラスもそう進言した。港の喧噪を離れた浜ならルージ国の人々に与える動揺は少ないと。
しかし、オルエデスはこのお目付役に不快感を持っている。ヴェスター国を出港する日から兵の同行に反対するなど、お目付役はことごとくオルエデスに反対してきた。そして父のレイトスが最も信頼するこの老臣をお目付役としたのは、オルエデスを信頼していない証と言えた。
その父の監視役のバイラスが、上陸の時にもオルエデスに反対した。
「オルエデス様。どうか兵はジョルガスに任せてここへお留めになり、私と共にと王宮へ向かわれますよう」
兵は指揮官に任せておけばいいという。出来れば下船もさせずにおきたいほどだった。しかし、オルエデスは地に唾を吐くほどの嫌悪感を見せて拒絶した。
「くどいぞ。それでは私の偉容をルージ国の者どもに見せつける事が出来ぬではないか」
「オルエデス殿の偉容を見せつける事が目的ではございません。お父上も兵を同行させるなど、今頃お怒りになっているでしょう」
彼はそう言って、怒りの象徴であるようにキシリラ山の噴煙を見上げた。オルエデスは拗ねたようにそっぽを向いて言った。
「私は尊敬する父上から学んだだけだ」
「学んだと言われるのは、王が交渉に行かれたレネン国のことでしょうか」
「その通り。我が父は武力を誇示してレネン国を屈服させたのだぞ」
「それは筋が違いましょう。レネン国は敵味方の帰趨を明らかにせず、我が国を脅かしていた。しかし、ルージ国は我が国ともっとも親しく信頼できる同盟国ですぞ」
「ルージ国が本当に我が国を信頼しているなら、五百の兵など気にすまい。ルージ国の信頼を図るには良い機会であろう」
「しかし、アトラス王が知ったら何と思われるでしょう」
バイラスが口にした人物の名に、オルエデスは敏感に反応し吐き捨てるように言った。
「アトラスがどうしたというのだ」
「いや、アトラス王以前に、お父上がオルエデス殿をどう思われるでしょう」
アトラスとお父上、つまりアトラスとオルエデスの養父レイトスという二つの言葉が組み合わさってオルエデスは更に怒りを募らせた。バイラスは自分の過ちを察した。オルエデスにその二つの言葉を組み合わせて聞かせるのは、彼の劣等感を刺激し不快感を煽るだけだった。
その昔、ヴェスター国王レイトスの妹リネがルージ国のリダルに嫁いでアトラスを生んだ。今、ルージ国王アトラスは、紛れもなくヴェスター国王レイトスと血の繋がりがある甥と叔父の関係だった。比べてみればオルエデスは跡継ぎの居ないレイトスの養子として迎えられて血の繋がりはない。
そして、養父レイトスが彼とピレナの婚姻を勧めようとしている理由にも気づいていた。オルエデスが王位に就けば王家の血縁は途絶える。しかし王の姪に当たるピレナをオルエデスの王妃に迎えておけば王家の血筋は途絶えることなく続く。
彼がアトラスという名で思い起こすのは、そんな血縁関係の引け目と、聖都攻略で手柄をさらわれたと信じているからである。
聖都攻めの折り、彼は養父レイトスから守りのみ固めて包囲を継続しろと言う命令に反し、功に逸って攻撃を掛け全滅と言っても良い被害を被ったばかりか、包囲の陣形まで崩れ去った。そんな包囲戦の締めくくりに、アトラスは一日で聖都を解放するという離れ業で、三年間にわたって続いた戦の勝利の立役者になった。オルエデスにとって見ればアトラスに手柄を横取りされた気分になるのだろう。
兵の指揮官ジョルガスが二人の会話に割って入った。
「バイラスよもう止めい。オルエデス様がお怒りぞ。そなたの戯れ言の間に、次の使者が来おったわい」
ジョルガスが指さす先に、正装をした役人が急ぎ足でやって来るのが見えた。兵を都に留めろと伝えに来た最初の使者は追い返した。二人目の使者は兵を港で歓待するという条件でオルエデスと少数の付き添いのみ王宮に招くという条件を提示したがそれも拒絶した。三人目の使者は何を伝えに来たのだろう。
三人目の使者はルージ王家の旗を掲げた旗持ちを従者にしたてやって来て、王の館まで案内すると伝えた。異国の兵士の先頭にルージ王家の旗を立てておけば住民たちの混乱も少なくてすむという事か。バイラスはその臨機応変な処遇に感心した。しかし、オルエデスは兵を連れて王の館へ行くという彼の求めをルージ国に受け入れさせたという満足感に酔っているようだった。
陽が中天に差し掛かる頃、兵士を連れた一行は港町から抜ける街道を歩いて都の端にたどり着いた。案内人は良く整備された街道の両側に立ち並ぶこぎれいな建物の先を指さして言った。
「あれが我らが王のお住まいでございます」
そんな言葉に、オルエデスは侮蔑を隠さず言った。
「何と貧相な。我がヴェスター国の王宮の使用人が住む館にも劣る」
オルエデスはその後の言葉を心の中で呟いた。
(しかし、あのクソ野郎の妹さえ連れ帰れば、父も文句は言うまい)
クソ野郎というのは、むろんアトラスの事である。レイトスとリネの間でピレナを嫁がせる話も進んでいて、オルエデスがピレナを連れ帰れば養父の意向に沿う事になる。何より何も知らされていないアトラスに一泡吹かせる痛快感があった。もちろん、ピレナを娶ってもアトラスを義兄と仰ぐつもりはない。ピレナには王妃の座を与えつつ、実質上の人質としてアトラスに様々な要望を突きつけるつもりで居る。そんな陰謀のきっかけを作った女が館の門の前でオルエデスを出迎えた。
「おおっ、我が甥よ。よく来てくださった。待ちわびておりましたぞ」
そんな言葉を吐くリネの笑顔が不自然で、オルエデスに注ぐ視線がその背後の兵士たちへとちらちらと移動する。怯えを必死で取り繕っているようにも見えた。オルエデスは兵士を連れてきた自分の判断に満足した。この国の最高権力を振りかざすこの女を脅せば、ルージ国をそのまま差し出すのではないかとさえ思った。しかし、オルエデスはそんなどす黒い思いを笑顔で隠した。
「叔母上には、お初にお目にかかります。愛の女神に誓って、我がヴェスター国とルージ国に安寧の日々が訪れますように」
「おおっ。何という気高い挨拶でありましょう」
リネの言葉も耳に届かぬようにオルエデスは周囲を見回した。
「ピレナ殿のお姿が見えぬが」
十六歳になると聞いていたが、そんな年頃の女性の姿がない。リネが慌てて言いつくろった。
「いや、オルエデス殿が来ると聞いて恥ずかしがって部屋に閉じこもって出てこぬ」
「それは、それは、初々しい姫君だ。では私が迎えに参りましょうか」
「いや。それは無用に。まずは宴の場に案内いたしましょう」
リネは慌ててそう言い、オルエデスを導くように館の中へ歩き始めた。
オルエデスの到着前、母と娘はいつにないほど激しく言い争った。
「あんな男に嫁ぐくらいなら、タコに嫁いだ方がましだわ」
(タコ?)
母リネは娘の突飛な言葉を理解しかねて少し首を傾げたあと、両腕を脇でひらひらさせて八本の足を象徴させて見せた。ピレナはしかめっ面で頷いて、その八本足のタコの事だと認めた。母リネは聞き分けのない娘にため息をつくように言った。
「あんな男と言うが、まだ会った事もないであろう。会ってみれば気も変わるかも知れぬ」
「私が愛するのは、ザイラスただ一人よ」
「あのような身分の賤しいものと、結ばれる機会がなかったのも運命の神がそなたに与えた幸運」
「そんな言い方はしないで。ザイラスは我が父リダルを守った勇者の息子で、我が兄アトラスの一番の理解者でした」
「しかし、そなたがザイラスの死を嘆いたのも一時のこと。そなたも今は心穏やかに過ごしていよう。偽りの愛などすぐに覚めるもの」
「偽りの愛?」
「子どもにありがちな勘違いでしょうに」
「それは……」
母に偽りの愛と指摘されてみれば、ザイラスの死を知った十三歳の時の深い嘆きの涙もいつしか薄れて途切れ、十六になった今は、思い起こせば懐かしく心が温まる思い出だけになった。哀しみを忘れるのが本当の愛でないと言われれば、若いピレナには反論するための体験や言葉が無かった。
ピレナは拗ねるように母から顔を背けて言った。
「王家の身分を捨てて、愛の女神の神殿で巫女になります」
神々を祀るいくつもの神殿の一つに駆け込んで、神に仕えると宣言すれば、巫女の見習いになれる。神々の僕として、例え王族であっても、本人の意志に反して身柄を自由に出来ないという仕来りがある。巫女になるというのは、ピレナが子どもの頃から父や母に拗ねてみせる時の常套文句だったが、今回ばかりは本気の雰囲気を漂わせていた。
母リネはそんな娘を刺激する事を避けて、背を向けて最後通牒のように一言言い残して娘の部屋を去った。
「間もなくオルエデス殿が着く。母は出迎えの準備をせねば。出迎えはこの母と一緒にするのですよ」
そんな母の背に、娘は短く返答した
「嫌!」
到着前に母と娘の間でそんなやりとりがあった事はオルエデスは知らない。この場で彼がもう一つ知らないものを挙げれば馬蹄の響きだろう。彼は耳慣れないリズミカルな音が接近するのに気づいて視線を転じた。
「ピレナ」
そう呼びかけたリネの声で、オルエデスは馬上の女性の正体に気づいて作り笑顔を浮かべた。ピレナはまずその作り笑いが気に入らなかった。
「おおっ。これは見目麗しい」
そんな褒め言葉も、オルエデスの軽薄な性格の裏返しであるように感じられて、ピレナは馬上からオルエデスを見下ろして冷たく言った。
「お国にお帰りなさいな。ここは海の神の末裔が住むルージ国です。兵の数を頼みとする臆病者が来るところではないわ」
ピレナはそれだけ言い残すと、愛馬の腹を軽く蹴った。愛馬は彼女の意図を良く察して駆け始めた。
馬上の彼女は呟いていた。
「私の愛が偽物ですって。違う。愛の神の悪戯? いいえ。いいえ」
同じ愛でも、男女を温かく結ぶ愛の女神ではなく、いたずら者の恋の神の気まぐれだったのではないかという思いも否定した。
しかし、時に哀しみが濾されてザイラスが彼女の心に残した暖かな記憶ばかりになると母の指摘が胸に刺さる。彼女は自らの思いに迷い始めていた。
そんな中、彼女の前方ではキシギル山、背後にはキシリラ山が、いよいよ噴煙を濃くして人々の不安を煽っていた。