マリドラスの決意
物語は時をやや遡る。アトラスが聖都でグラト国とラルト国の不戦の約定の立会人を勤めようとしている頃。
パトローサの町、とりわけ宮殿に住まう者たちは、重臣から小間使いに至るまで喜びに沸いていた。アトラスがパトローサに遷都する事を決心した。彼らにとってパトローサが再び都になるというのは、失われた国が復活するかのような高揚感をもたらしていた。
グラト軍が攻め込んできたという信じられない悲報が舞い込んだのは、そんな時だった。政務を預かるライトラスは、息子のジグリラスに命じた。
「大至急、広間に主だった者たちを集めよ」
「エリュティア様には、いかが致しましょう」
出席を願うかどうかと言う事である。ジグリラスの言葉に、ライトラスは少し考え込んだ。エリュティアは民や家臣から敬愛される存在であっても、政治や軍事には疎い。しかし、王アトラス不在の今、国の行く末を左右する会議に、国を代表する者の列席が望ましい。
ライトラスは眉を顰めたまま決断した。
「出席をお願いせよ」
慣れない会議だが、出席を求めればエリュティアが断る事はあるまい。しかし、このライトラスの決断が大きな悲劇を招く事になった。
軍権を預かるマリドラスが甥のラヌガンと連れだって、会議が開かれる広間に姿を見せた。もちろん、敵の侵攻の状況は二人の耳にも入っている。
「いよいよ来おったのですね。しかし、まずい時に」
そういうラヌガンに、マリドラスは普段と表情を変えずに答えた。
「我らにとってまずい時だからこそ、奴らはそこに付け込んで来た」
広間にエリュティアが姿を見せて会議が始まったが、重臣たちの視線はエリュティアではなく、会議の帰趨を決めるマリドラスに注がれていた。ライトラスは会議の開催を告げる間もなく尋ねた。
「マリドラス殿。どうされる? 存念をお聞かせ願いたい」
彼に尋ねられるまでもなく、マリドラスは既に合理的な戦術を組み立てていた。
「敵の数は三千を越えるという。このパトローサにいる我がルージ軍は八百ばかり。まずはギリシャ人たちに伝令を発してパトローサの北のタッドルの町に集結させましょう」
パトローサの防備を空にすると言うマリドラスに、ジグリラスが慌てて尋ねた。
「パトローサはいかがするので?」
「まずはエリュティア様には安全なところに避難していただく。我らはエリュティア様をお守りせねばなりません。戦はその後の事」
大事な事は国の存続。エリュティアは国を象徴する存在としても民の敬愛を集める存在としても、まず危険な場所から離して保護せねばならない。このパトローサにいるルージ軍は彼女を保護しつつ安全な場所に移すと言う事である。その後に、各地から呼び集めた軍勢と合流し、敵と戦うということである。
今、パトローサを守ろうとして、マリドラスが蛮勇を振りかざして四倍もの敵に挑めば全滅の恐れさえある。全滅すればパトローサを守る者も居なくなり、パトローサが敵の手に落ちるのは必定。
それならば、一端パトローサを離れ、味方の兵力を集めて反撃するというのは合理的で、現在の彼らが取り得る最善の選択肢に見える。重臣たちは頷いてマリドラスに同意した。
しかし、ここでエリュティアが立ち上がって叫ぶように尋ねた。
「それは、私がこのパトローサを立ち去るという事ですか?」
「それは一時。パトローサが安全になれば戻ってきていただかなくてはなりませぬ」
「でも、それでは、私が民を見捨てるという事になります」
そんなエリュティアの言葉に、ライトラスがマリドラスを支持して言った。
「むろん、民もまたエリュティア様とともにパトローサを離れるでしょう」
しかし、エリュティアの反対は止まらなかった。
「でも、病人や年寄り、乳飲み子を抱えた女とその家族など、パトローサを立ち去る事が出来ぬ者も多いでしょう。それが、私たちが本当に守らなければならない人たちです」
守るべきものもある。しかし……と、ラヌガンは口を開いた。
「しかし、戦も勝たねばなりません。負ければ国も民も踏みにじられる事はエリュティア様もご存じでありましょう」
アトランティスの中原に栄華を誇ったエリュティアの生まれ故郷も、今は戦の勝者によって分割され、民は辛苦に喘いでいる。彼女は戦に負ける結果を経験している。しかし、エリュティアの疑問は止まらなかった。
「でも、民を守れぬ戦いに意味はあるのでしょうか」
エリュティアの問いに、マリドラスは揺るぎない彼の思いを語った。
「私は武人です。戦いに意味があるかどうか迷いはしません。私の主人たるべきお方の命令に忠実な存在かどうか、それを証明する事が、私の戦う意味です」
マリドラスはアトラスの事はもちろん、その父のリダルや、更に祖父のロスドムの事も記憶にある。ルージ王家は、代々、私心の無い王を輩出し、家臣に対して公平であろうと自分自身を律する人物たちだった。その代わりであるように、家臣たちは王に対する絶対的な忠誠を尽くそうと自らを律した。そんな関係がルージ国を支える柱だった。
エリュティアはそんなマリドラスにとって致命的な言葉を吐いた。
「では、マリドラス様にお願い致します。私と民をこのパトローサに留めたままお救い下さい」
他の選択肢はないと言わんばかりの決意に満ちた言葉だった。ライトラスはマリドラスに首を横に振って見せた。エリュティアがこうやって何かに拘った時、彼女の意志を飜すのは難しいと言う事である。
マリドラスは深いため息と共に、決意を込めて言った。
「分かりました。なんとか、戦の算段をいたしましょう」
その言葉にラヌガンが大きく目を見開いてマリドラスを眺めた。この場でマリドラスが心に秘めた意志を悟ったのは、彼の甥で、やはりルージ王家の仕来りをよく知るラヌガンだけだったかも知れない。
マリドラスは戦の算段と言ったが、この時点で彼らが把握している敵の数は、三千から三千五百。今はもっとと増えているかも知れない。それだけでもパトローサに駐留するルージ軍八百の四倍の兵力だった。その相手をパトローサに接近させないよう迎え撃つ。
敵との間には砦など防御拠点は無く、街道の一部の北に森林地帯がある事を除けば、見晴らしの利く大平原だった。敵味方が遠くから互いの姿を確認できるだろう。正面からぶつかり合う小細工の利かない戦いになる。
「では、時の余裕もございませぬ。早速、兵を率いて参りたいと存じます」
敵がパトローサに迫りつつある今、ここで無駄に時間を潰している暇はなかった。彼はそう言ってエリュティアに一礼し、広間を去り際にジグリラスの傍らで囁くように言った。
「三日の時を稼ぐ。その間にパトローサを守るギリシャ兵も到着し、各領地の兵も到着しよう。その後の算段はそなたの父に任す」
ジグリラスも彼の意図を察した。
兵舎にある私室に戻って甲冑に身を包みながら、マリドラスは自らが置かれた状況を苦い思いで考えていた。
ルージ国にとって致命的な奇襲を受ける事は避ける事が出来たはずだった。もともとグラト国の圧政を逃れて来た民が、ルードン河に集結するグラト軍の存在を伝えていた。
グラト軍も集結させた軍が大軍で、本来は隠すべきその軍の存在を隠しきれていなかった。大軍だがその主力は五百人ばかりのグラト軍の正規兵に、占領各地から徴募した民から編成される事も知っていた。
ただ、戦慣れしたマリドラスに後悔があったとすれば、彼は自らの経験と戦術の常識として、そのように多くの民を指揮官の下で兵士として戦わせるためには、少なくとも百五十日から二百日は必要だろうと判断したことかもしない。
彼の判断では、グラト軍が攻め込んでくるにしても、訓練にまだ五十日や百日の時を要する。攻め込んでくるのはその後という誤算があった。
しかし、彼にも幾分かの利を挙げるとすれば、ルージ島が海に沈んで帰る故郷が無くなった兵士がそのまま残っていた事だろう。解放されたギリシャ兵たちの多くも故郷から家族を呼び寄せてパトローサの近郊に住んでいる。呼び寄せれば、アトラスと共に幾多の激戦をくぐった忠実な兵士たちだった。
マリドラスには各地の領主に派兵の命令は出す権限はないが、パトローサがグラト軍の攻撃を受けかけているという知らせは送った。有能な領主たちはその意を察して出兵の準備を整えるだろう。
彼の命令が及ぶギリシャ兵たちに対しては既に派兵を求める使者を送ってもいる。彼らはパトローサ近くの森を住居として樵として生計を立てる者が多い。再び兵士として招集してパトローサに呼び寄せるには数日はかかるだろう。しかし、グラト軍の様子をみれば、彼らギリシャ人たちがパトローサに来るまで待っているわけにはいきそうにない
敵に勝つのは難しいが、敵を足止めをして、味方の兵がパトローサに集結するまでの時間を稼ぐ事は出来るだろう。命を代償にその時間を稼ぐというのがマリドラスの決断だった。
ふと気が付けば、兵の集結を命じていた甥が、役目を終えて姿を見せていた。
「ラヌガンよ」
普段は彼を家長として立てて「ラヌガン殿」と呼ぶマリドラスはこの時は叔父と甥の血縁を協調するように名を呼び捨てにして言った。
「五十の兵を残す。そなたはここに残り、ギリシャ人たちの増援が着き、アトラス様が戻るまでエリュティア様を守れ」
その言葉と静かに微笑む表情に、ラヌガンは叔父の心情を察して思い出を語り始めた。
「叔父上。ネルギエの戦いの折、父はフローイ軍に包囲されたアトラス様の救援に向かった。不利は承知。命を捨てる覚悟だったのでしょう。私は父を尊敬していますが、ふと思うのです。亡くなった者は戦の神の祝福を受ける。しかし、残された者はどうでしょう。私はずっと思い悩みました。何故、私は生き残ったのか、何故、父は死なねばならなかったのか、父は私の代わりに死んだのではないかと」
ラヌガンはそこまで言って、晴れやかな笑顔をマリドラスに向けた。
「あれほど思い悩むのはもうごめんです。戦の女神の祝福なら、叔父上と共に受けたいと思います」
ラヌガンはマリドラスが戦場で死ぬなら、自分も共に死ぬという。エリュティアが意図せず投げかけたのは、マリドラスとラヌガンに死を決意させる命令だった。
二人はルージ国の武人として、抗わずその命令を受け入れた。ただ一つ、彼が戦の前に果たしておくべき事がある。彼は部屋に姿を見せたライトラスに言った。
「すまぬが、一つお願いがある」
「何かな?」
「出発の見送りを、エリュティア様にお願いしたい」
王女を政治や軍事の席に引っ張り出すのは好ましくない事は知っているが、アトラス不在の今、この国家を象徴するのはエリュティアだけで、国家の命運をかけて出撃する兵士を見送るのは彼女以外には居なかった。
「分かった。私からお願いしよう」
日が中天を過ぎる頃、マリドラス指揮下の騎馬兵たちは出発の準備を全て整え、兵舎から宮殿の前へと移動して、馬を下りて馬と並んで整列した。宮殿の前には重臣たちが立ち並び、その中央にエリュティアが侍女ユリスラナに支えられるように立っていた。その前に整列した兵士たちは、自分たちがこの国を守り支える存在だと悟っただろう。
マリドラスが兵士たちと向き直り声を上げた。
「我がルージ国の勇士たちよ。我が同胞よ。われらの生まれ故郷、ルージ島は既に失われた。しかし、ここは新たなルージ国。新たな故郷である。我らはその故郷を守る先鋒となる。見よ。エリュティア様も、国を守る我らを見送ってくださっている」
彼は剣を抜き、天に掲げて叫んだ。
「戦の女神よ。この勇者どもをご照覧あれ」
彼の言葉に兵士たちの言葉が重なって地に満ちた。
「戦の女神よ。ご照覧あれ」
兵士のどよめきが収まるのを待たずラヌガンが命じた。
「乗馬せよ。愛馬と共に東へ駆けるぞ」
これからの戦で、少なくとも大半の兵は死ぬ。その兵士たちにこの戦が無駄ではなく、命を落とした兵士たちにも自分の命が無駄ではなかったことを教える事が出来た。
マリドラスは馬上からエリュティアに頭を下げてその礼をして、馬の腹を軽く蹴って東へと駆け去って行った。




