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アトラスとトロニスの意図

 不戦の儀式の夜、アトラスは聖都シリャードの西、聖都シリャードから十ゲリア(約8km)ばかりの所にある町で宿を取ったあと、早朝に出立して次の日の太陽が中天に差し掛かる前に領主の舘があるリウダの町に到着した。

 アトラスは朗らかで、その朗らかさに釣られたスタラススとレクナルスも笑顔と軽口を絶やさなかった。ただ、アドナのみ彼女自身が説明のつかない重苦しい心持ちを表情に顕していた。

「アドナよ。どうしたのだ? そんな不機嫌そうな顔のままで」

 馬上から振り返って問うアトラスに、アドナは首を傾げて言った。

「うまく言えない。でも、戦の臭いがする」

 その奇妙な表現はスタラススたちを笑わせた。平和をもたらすという儀式におけるトロニスとシミナスの様子。そして、トロニスの護衛が漂わせていた殺気と言っていい緊張感を感じ取っていれば、アドナの言葉に納得しただろう。

 しかし、アトラスは陽気に笑って、アドナの不安を吹き飛ばそうとした。

「アドナよ。もう戦は終わりだ。後は聖都シリャードに集う日を待つのみ」


 リウダの小さな領主様にも、事の顛末を伝えて安心させてやらねばならない。アトラスは領主の舘に立ち寄った。

 舘の門の前をうろうろしていたリシアスがアトラスの帰還を待ちかねていたように駆け寄って、嬉しさを爆発させるように言った。

「アトラス様。ご無事だったのですね」

 領地に踏み込んできたラルト軍やグラト軍の戦の気配、そして兵士も伴わずにグラト国王トロニスとの面会に向かったアトラスの安否など、館の中にいても心配でたまらず、何かの知らせを待って門の所にいたのだろう。幼いながら、領主としての責任感がうかがえた。

 ただ、幼い面を素直に見せる微笑ましさもある。この時のリシアスは、母の名を呼んで舘に駆け込んで叫んだ。

「お母様。お母様。アトラス様が無事にお戻りになりました」

 その微笑ましさに、不機嫌そうな表情だったアドナでさえ、乗ってきた馬を下りながら苦笑いを浮かべていた。

 リシアスはすぐに母親のレスリナを連れて戻った。レスリナは舘にいた家臣たちを手際よく舘の扉の前に整列させて、アトラスたちを出迎えた。ただ彼女自身が家臣の一人であるかのように息子の横に侍り、息子に領主としての立場を自覚させているように見える。

 アトラスは思った。

(忠実な家臣と、しっかり者の母。リシアスは彼を支える人々に恵まれている)

 レスリナが家臣を代表するように進み出て、笑顔で一礼して言った。

「よくご無事でお戻り下さいました。今夜はこの舘でおくつろぎ下さいませ」

 彼女はリシアスと共に館の中に迎え入れながら言葉を続けた。

「今は新鮮な山菜パニスが採れます。宴の席には川魚メーシナ山菜パニスの煮込みなど用意させましょう」

 彼女が言う料理の名についてアトラスにもリーミルから聞いた記憶があった。貴人をもてなす手の込んだ料理ではないが、リマルダの人々が身内など本当に心を許した人を迎える時の郷土料理である。レスリナはアトラス一行を家族同様に受け入れるという。

 アトラスはリーミルの記憶を辿って言った。

川魚メーシナ山菜パニスの煮込み。今は亡きリーミル殿の代わりに頂くとしよう。そなたが勧められたがリーミル殿にはその機会がなかったとか」

「あら。よくご存じで」

 彼女もあの時の記憶を辿りながら微笑んでそう言った。料理に使う新鮮な山菜パニスが採れるのは冬の終わりから春にかけて。そう考えるとリーミルとの出会いも二年の月日が流れていた。

 レスリナは歓迎の宴と称したが、彼女は舘の広間でアトラスと家臣たちの儀礼的な挨拶などさっさと済ませると、後は一行を寛がせるように重い甲冑を脱がせ、領主が利用する食堂に案内した。

 大きなテーブルの上座に、アトラスとリシアスが並んでつき、あとの席にレスリナと、アトラスの供が三人だけ。いや、もう一人。リシアスが使うにしては大きい、しかし、一般の兵士の持ち物ではあり得ない豪奢な作りの剣が壁に飾られていた。アトラスはレスリナの意を察し、武人として敬意を捧げるよう剣に向かって軽く頭を垂れて席に着いた。

 それを眺めるレスリナの目に涙がにじんでいた。剣は彼女の夫でリシアスの父ガルラナスの物。レスリナはこの歓迎の席にガルラナスを同席させているつもりなのだろう。

 レスリナの合図で侍女たちが料理や飲み物を運び入れてきて歓迎の宴が始まった。貴人と食卓を囲むなど初めてのアドナでさえ、この部屋の雰囲気に染まって寛いだ雰囲気を漂わせていた。

 血なまぐさい話題を避けた会話の中、アトラスはふと気づいて言った。

「リシアスよ。私はリーミル殿と敵同士だったが、リーミル殿の提案に乗って和解した。そしてそなたの母レスリナ殿はリマルダに攻め込んだリーミル殿を、この川魚メーシナ山菜パニスの煮込みでもてなそうとした」

 突然の話題に首を傾げたリシアスに、アトラスは短く言い添えた。

「私は、国々が平和に集う事が出来ると考えている」

 アトラスの言葉に、リシアスは哀しげに問うた。

「では、ラマカリナなどの地はどうなるでしょう。アトラス王の統治を求めています」

「ブレヌス様の体のお加減が悪いとか」

 レスリナが話題を逸らそうと語る言葉にアトラスが答えた。

「それは私も聞いている。心配な事だな」

「時折、ピメルサネ様がコモラミアのお父上の見舞いに参るようです。その途中、我が家にも立ち寄るのですが……」

 言いよどむリシアスの言葉を補って母親のレスリナは言った。

「ラマカリナの者たち。いえ、ヴェスター国の版図に入ったシュレーブ国の領地の者たちは、いつアトラス様が来てくださるのかと心待ちにしていると」

「それはヴェスター国のこと。私には口出しできぬ」

「しかし、ヴェスター国のレイトス様は亡くなり、その跡継ぎも居ない今、アトラス様が……」

 そのリシアスの言葉を制する哀しく厳しい目をしたアトラスにレスリナが言った。

「欲の無いのは美徳でしょうか。それが苦しんでいる民を見捨てる事になったとしても?」

 アトラスは顔を背けて言った。

「いや。まつりごとの話しは改めて。今はこの料理を堪能させていただこう」

「いえ。私も領主の母の身に過ぎぬ身分で、差し出がましいこと事を。お許しを」

 口を差し挟む事を控えると言ったレスリナの目は哀しげだった。戦勝者によって無造作に作られた新たな国境で、多くの親類縁者が引き裂かれた。一方は少しづつだが以前と変わらぬ生活を取り戻しているが、もう一方は為政者による過酷な労役や重税に喘いでいる。

 アトラスもそれ以上言及することは出来なかった。ヴェスター国への遠征の折、彼自身が困窮する民の姿と彼に救いを認める領主を眺めた記憶がある。

 スタラススたちアトラスの供は何も言えず、そんな会話を聞いているしかなかった。この時、地が揺れてテーブルの上の食器がかたかたと鳴った。人々にとって日常の一部になった光景だが、今のアトラスたちにとって、彼らが交わす言葉をあざ笑う冥界のエトンの声の響きのようにも思えた。


 明くる日の早朝、アトラスたちが出立の準備を整えていると、部屋にリシアスが男を伴って駆け込んできた。

「アトラス様。パトローサからアトラス様に火急の使者が着きました。パトローサが……、パトローサがグラト軍の攻撃を受けていると」

「グラト軍の?」

 アトラスは使者が差し出すスクナ板を受け取り、包みを解いて記載された内容を眺めたアトラスの目が突然に険しくなった。

「リシアスよ。舘にいる主だった者たちを集めよ」

「既に母が声をかけました。間もなく舘の広間に集まるかと」

 戦が始まった知らせを伝えに来たという使者の話に、レスリナは事の重要性を察して、息子のリシアスに重臣たちの招集をさせていた。

 広間には戦が始まったと聞いた重臣たちの不安とどよめきに満ちていた。リシアスがアトラスを伴って姿を見せたために生じた沈黙を切り裂くようにアトラスが言った。

「皆の者、聞け。グラト軍が我が国に侵入したと言う事は、既に聞いていよう」

「グラト王は聖都シリャードを包囲した軍を既に撤退させたと聞いたのですが」

 重臣の一人が発した言葉にアトラスが答えて言った。

「我が国に侵入してパトローサを攻めているのは、それとは別の部隊だ。三日前の夜陰に紛れて三千の兵がルードン河を渡って攻め込み、更に千か二千の兵が渡河し、パトローサに進軍しているという」

「五千もの軍がパトローサに」

 重臣の一人がその数の多さに驚きの声を上げた。リマルダは民も多く裕福な土地だが、それでも、すぐにかき集める事が出来る兵など五百にも足りない。

「心配は要らぬ。パトローサには我がマリドラス率いる精鋭が居る。私より上手い戦をする男だ。兵の進退は任せれば良い」

「では、王はどうなさるので?」

「すぐにパトローサに戻って、我が軍と合流し、敵をルードン河の向こうへ叩き返す」

 アトラスの言葉にリシアスが反応した。

「では我が領地の兵を招集いたしますのでお連れ下さい。戦に長けた指揮官もおります」

「いや。もしトロニス殿が気を変えればリマルダも危ない。戦の用意のみし、父から継いだ領地と領民を守るがいい。そして、コモラミア、グラナ、アモリスの領主に事態を知らせ、同様に戦準備をして領地を守れと伝えよ。今ひとつ、トロニス殿に使者を立て、クスニルスの進軍について王の意図を探れ」

 アトラスは供に視線を転じて命じた。

「レクナルス。そなたはルナイロスの父の元に戻り、父と共にパリナルとガレオルの地にも兵を招集してパトローサの北、タッドルの町へ向かわせよ。そこに我が軍を集結させる」

「承知しました」

 スタラススには別の領地への派遣を命じた。

「スタラススはオスアナ、その後ニアハに向かい、領主に派兵を求めよ」

「……。レネン国には? 事情を話せばデルタス殿も加勢してくださるかと」

 ニアハの地から一日分、足を伸ばせばレネン国に入る。加勢を依頼する事も出来るという。しかし、アトラスは未だに新たな秩序に拘って、多くの国を巻き込む戦を避けようとした。

「いや。不用。我らだけで充分」

 その決断に広がる不安な面持ちにアトラスは念を押した。

「では、確かに命じたぞ」

 背を向けたアトラスにリシアスが言った。

「せめて数十人の護衛でもお連れなさいませぬか」

「我が護衛はアドナがいれば充分。パトローサまで馬で一気に駆ける」

 早く帰るためにも、兵を連れずに先を急ぐ方が良いと言う事である。その言葉の通り、アトラスは足早に広間を去った。命じた事以外の口出しは無用という決意が溢れていて、そのアトラスに声をかけて引き留める者は居なかった。

 アトラスはアドナ一人を連れてパトローサへ馬を飛ばし、レクナルスやスタラススも命じられた行く先へと姿を消した。


 町の街道を往来する人々は、女戦士を伴った片腕の武人が馬で駆けて行く姿にアトラスだと気づいた。

 そんなリウダの町に商人姿の一団が居る。注意深く先頭を歩く男の後ろに荷車を曳いたり押したりして歩く男が四人。町から町へ渡り歩く旅の商人に見えるが、よく見れば荷車の動きは軽やかで、布でくるまれた荷は商売をするにしては小さく軽い。男たちの目は商人らしい愛嬌が無く、鋭く油断無く光っていた。もし、荷車の上の包みを解けば、男たちの剣が出てくる。そんな男たちの集団が、町の広場の片隅で、一隊、また一隊と合流して五隊になった。

 男たちはさりげない様子を装いながらも、押し殺した声で言葉を交わしていた。

「アトラス殿は既にリウダの町を出てパトローサに向かった」

「おいっ。お前。すぐに戻って我らが王に、アトラス殿がリウダを離れたとお伝えせよ」

聖都シリャードを包囲していた我が軍がルードン河を渡り、兵士たちは故郷に帰ったという噂はばらまいた」

「リウダの町の民もさぞかし安心するだろう」

「しかし、領主の舘が慌ただしい。領地の中から兵を集めているようだ」

「その兵をパトローサに向かわせるつもりか」

「分からぬ。しかし、我らが王にはお伝えせねばなるまい」


 そんな男たちの一部が一人、また一人と、情報を携えてルードン河を渡って王トロニスの元に戻って事態を告げたのは明くる日の朝である。

「アトラスはリウダの町を離れたか」

 トロニスの言葉に息子のルタゴドスが尋ねた。

「では、すぐに兵を渡河させましょうか」

「いや。未だ。アトラスがパトローサで戦を始めてからだ」

「しかし、クスニルスが勝手に戦を始めるなど」

「ならば、それを利用するまで」

 二人はそんな言葉を交わしたが、クスニルスが暴走した意図はよく分かる。世継ぎ争いの中で、弟に後れを取っている事を自覚して焦っている。

 トロニスが本国に残した兵は僅か。クスニルスはそんな父が残した僅かな兵の他に、各地から民を兵として徴募し、五千を超える部隊を編成した。昔はシュレーブ国の中心に位置したパトローサも、グラト国がルードン河の南を手に入れた今はルードン河を渡れば目と鼻の先にある。パトローサにいるルージ軍は一千足らず。ルージ島が海に沈んで弱体化したあと、実質的な都として機能している町を簡単に占拠できるようにも思えたのだろう。

 クスニルスがその果敢な判断を実行に移し目的を遂げる事が出来れば、彼には王としてグラト国を統治するに足る能力がある。しかし、父王の命令も受けず兵を動かして目的を果たせなかったとなれば、王位は次男のルタゴドスの物だ。

 ルタゴドスは父トロニスが自分に向けた視線で父の本心を察した。この戦で世継ぎ決定するもりだろう。


 そして、仮にクスニルスが失敗したとしても、ルージ国内で起きた大混乱につけ込んで、王トロニスの指揮下の正規兵が、ルードン河の対岸に見えているリマルダの地を占領するのは容易な事に思える。ルージ軍もクスニルスの兵との戦いで疲弊しているだろう。リマルダの地を占領した後、弱ったルージ軍を殲滅してシュレーブの地を手に入れる機会も生じる。

 更にトロニスを喜ばせる知らせが届いた。ヴェスター国で重臣が反乱を起こして王レイトスやその息子オルエデスが内乱で死んだという。ルージ国を攻めてもヴェスター国が加勢に来る事はないと言う事だ。


 意図せず始まった戦だが、今からルージ国に講和を求めても立場が不利になるだけだ。有利に進んでいる今、一気に攻めれば、聖都シリャードのあるリマルダの地と旧シュレーブ国の王都パトローサがあったシュレーブの地を奪う事も出来るだろう。民の数でも肥沃な地という面でもこの二つの地を奪われたルージ国は一気に弱体化する

 トロニスは決断して命令を発した。

「三日後。我らは再びルードン河を渡る。目的地はリウダの町。幼い領主はすぐに降伏するか逃げ去るだろう。リマルダを占領した後は、隙を突いてパトローサも陥落させてやろう」

「いよいよですね。楽しみです」

 ルタゴドスもこちらの戦で有能なところを見せておかねば王位は兄の手に転がり落ちかない。



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