アトラスの目覚め
夜が明けて、エリュティアの居室に朝日が差し込んだ。しかし、アトラスとエリュティアを目覚めさせたのは、真理の女神の輝きではなく、冥界の神の哄笑に似た地鳴りと共に揺れた大地だった。
目覚めたエリュティアが恐怖の表情を浮かべ、アトラスが彼女を安心させるように優しく抱いた。
「町の様子も心配だ」
今の激震で都にも被害が出ているかも知れない。アトラスは町と民の様子を確認せねばならぬと言う。エリュティアも夫の胸から顔を上げてその言葉に頷いた。
しかし、その二人だけの時も途切れた。部屋の仕切のカーテンの向こうに人の気配がしたかと思うと、ハリエラナの声が響いた。
「アトラス様。リマルダの地より、領主様の火急の使者が参って、広間で謁見を求めているとの事でございます」
「分かった。すぐに行こう」
ベッドに取り残されたエリュティアが、ベッドから出て衣服を身につけるアトラスに寂しげな表情を浮かべた。アトラスは左胸に指先を当てて微笑んで、その指の下の胸板に象徴される彼女と共にいる事を伝えた。
広間で待っていた使者は、グラト国とラルト国の戦況を伝えに来た。その二カ国が戦っているというのはアトラスも知っていた。その報告を聞いたライトラスたちは口々に感嘆の声を上げていた。
「さすがはガルラナス殿のご子息じゃ」と。
ラルト国とグラト国に戦端が開かれた後、有利に戦を進めていたラルト国だったが、都を離れて戦を指揮する王シミナスは、思いもかけずラルト国の東部が海に沈んで行くという災厄に襲われた。
ラルト国内は混乱を極め、それを収めるべき王は戦場にあって何も出来なかった。大地が海に沈むという災厄は、今もラルト国を襲い続けてその国土を浸食しつつある。前線にある王は後方からの支援も受けられなくなった。戦の勢いは逆転し、いくつかの戦場で負け戦を繰り返した。
リシアスの使者は、アトラスが知りたいと考えていた状況を伝えた。聞く者にその光景を想像させるほど詳細な報告だった。ただ、その知らせにアトラスは心を閉ざすように無表情だった。アトラスの本心を明かせば、春のアトランティス議会の時期が迫っていた。彼はその場に各国が集い新たな秩序を打ち立てる事だけを考えていた。
使者は話しを締めくくるように言った。
「グラト国との戦に敗れたラルト国王シミナス殿は残された兵五百を率い、ルードン河を渡って聖都に籠もったとの事でございます」
使者は役割を終えて一礼すると、重臣ライトラス目配せを合図に、広間から去った。
広間にはいくつかの思いが入り交じって沈黙となって満ちていた。ライトラスが進み出て口を開いた。
「我らが王に申し上げたき事がございます」
「何か?」
アトラスの短い問いに、ライトラスは意を決したように言った。
「申し上げます。このパトローサに遷都なさるべきかと」
ルージ国と言えば、元は本土から離れた島国。その都バースも今や海に沈んで失われていた。いま、ルージ国は国の象徴ともなる都を持たない。他国から侮られる原因かも知れない。ライトラスはアトラスにルージ島は沈んで失われたと言う事を受け入れるべきだと申し出たのだろう。家臣の立場から見ても、アトラスが大きな状況の変化の中で、過去に囚われすぎている事を危惧しているに違いない。
アトラスは彼の言葉を受け入れた。
「分かった。パトローサを新たな都とし、新たなルージ国を作り上げる事にしよう」
アトラスは故郷や家族を失った哀しみを振り払い、エリュティアと共に新たな人生を歩み出そうと決意したのである。
ライトラスは頭を垂れて恭しく言った。
「では、仰せの通り、事を進めます」
アトラスは無表情の中にも、ライトラスの指摘の的確さを認めていた。三年にわたって続いた戦乱が終結したとは言え、未だに国内は治まっていない。ルージ島を故郷とする者たちは故郷を失った痛手から回復しているとは言えず、ルージ国の新たな領地となった旧シュレーブ国の民も未だ自分たちの国を奪った者たちへの恨みを忘れていない。新たな国を一つに纏め上げねば、アトラスが考えるアトランティスの新たな秩序などおぼつかない。
この時、アトラスは軍の指揮を預かるマリドラスが何かを言いかけたものの思いとどまる様子を眺めたが、何も問わなかった。アトラスは心を閉ざす一方、マリドラスの意図も察していた。いま、この国は軍事的な脅威にもさらされかけていると言う事である。注意せねばならないはずだった。
アトラスは広間に集まった者たちに散会を命じ、再びエリュティアの居室へと足を運んだ。エリュティアに伝えていない事があった。
アトラスは椅子に腰掛けていたエリュティアが、夫の気配に嬉しそうに振り返るのを眺めて言った。
「そなたを始め、都にいた者たちには私の帰還を知らせた。今日、もう一人、知らせたい者が居る」
「私も参ります」
夫と行動を共にしたいという歓迎すべき言葉に、アトラスは眉を顰めた。エリュティアが外出するとなれば、彼女が乗る輿の担ぎ手、彼女の身の回りの世話をする侍女たち、護衛の兵など総勢三十名は越える一行になる。この時のアトラスには、遷都に先立って落ち着いて過去を振り返りたい思いがある。
彼は訪問する相手を明かして、エリュティアがついてくる必要はないと言った。
「私が行きたいというのは、アレスケイアの墓だ。共に過ごした友人だ」
アトラスは亡くなった愛馬の墓を詣でるという。
「それなら、私がその場所を知っています」
エリュティアは自分がその場所に案内すると言った。アトラスはエリュティアの決意を込めた視線に、こういう時のエリュティアの頑固さを知った。彼は妻の意志を変えさせる事は諦めて言った。
「では、つきあってもらおう」
一頭の馬に二人で乗っていく事は出来るだろう。
エリュティアがユリスラナに付き添われながら馬屋に足を運んでみれば、傍らに立つ馬は予想外に大きい。緊張するエリュティアを、馬が振り返って優しい視線を注いでいた。
アトラスがエリュティアを馬の背に押し上げ、反対側からアドナがエリュティアが落ちないよう支えた。アトラスの手がふと止まったため、エリュティアが怪訝な表情を向けた。
「いや。リーミル殿の事を思いだしていた。リーミル殿を馬に乗せた時、彼女は馬なんか乗るものじゃないと文句を言われた」
アトラスの中でフローイ国のリーミル王女の存在が懐かしくなるほどの時が過ぎていた。アトラスの口から他の女性の名を聞いて不安と嫉妬を感じていたエリュティアも、今は素直な笑顔を返した。
ユリスラナが言った。
「エリュティア様。私も同行いたします」
「いえ。いいの。夫婦の事です。妻の私がしなければ」
そんな言葉に、アトラスはアドナに向かって言った。
「そう言う事だ。アドナもここで待っていてくれ。エリュティアが私を守ってくれる」
侍女のユリスラナも、護衛のアドナも、王妃と王にやさしく拒絶され、顔を見合わせて首を傾げた。以前なら身辺に侍る者として、二人の心の隙間に忍び込むように付き添う事もできた。しかし、今の二人に割り込む隙がない。
エリュティアの後ろからアトラスが馬に跨って手綱を握った。今のアトラスとエリュティアは体も心も共有して一つになった。
宮殿を出て街道を行く二人は、民の視線を浴びた。
「おお。エリュティア様じゃ」
民衆は馬上のエリュティアの姿を眺めるのは初めてだが、今までと変わらぬ好意を見せていた。
アトラスがアドナに言ったエリュティアが私を守るという言葉の通り、エリュティアの背後のアトラスが、民から受ける嫌悪の視線は和らいでいた。周囲を見回せば、路上に散らかった物を片付ける者や、井戸で売り物の果物についた泥を洗って、籠に入れて並べる母子の露店商の姿が見えた。皆、朝方の地の揺れから普段の生活を取り戻そうとする人々だった。耳を澄ませば壊れた家屋を修理する鎚音が聞こえる。普段にも増して活気のある町だった。
エリュティアの姿に気づく者も増えた。アトラスは馬を止めて叫ぶように言った。
「安堵せよ。エリュティアはそなたたちと共にあり、そなたたちを見守っている。そして、この私は災厄に立ち向かうそなたたちに、心から勇気づけられている」
民の姿を眺めたアトラスの飾り気のない言葉だった。その素直さの故、彼の言葉は民の心に届いた。ただ、一方でアトラスは民の言葉を拒絶するように、馬の腹を軽く蹴ってその場を去った。
「次の十字路を北へ折れてください。そうすれば目印の樹が見えてきます」
エリュティアに指示されなくても、アトラスはその場所をマリドラスに聞いて知っていた。しかし、アトラスはエリュティアの言葉を楽しむように、黙って微笑んでエリュティアに従っていた。
アトラスはエリュティアに導かれるまま郊外の森にたどり着いた。アトラスは、その場所を知っては居ても、その場所の光景を眺めたのは初めてだった。木々の枝振り、その枝に密に茂る葉の形、ルージ国の都バースの郊外の森で見かけたのと同じ木々。故郷の森とよく似た雰囲気を持つ場所だった。密に茂った葉が小さな泉の所だけ隙間があって陽の光が漏れて輝いていた。
ルージ軍が故郷から連れてきた馬はアレスケイアだけではない。戦場で死んだり病気で亡くなった馬もいる。ルージ国の人々にとって馬は家族も同然だった。マリドラスはそんな馬たちをこんな場所に纏めて葬っていた。アレスケイアも今はそんな仲間たちと共にいる。
アトラスはそんな馬たちの墓標代わりの石の前に片膝をついて、記憶を辿った。
「私の心を理解してくれる優しい友だった」
エリュティアはそんなアトラスの肩に手を添えて言った。
「今は私にとって貴方が私の心を理解してくださっています。私も貴方の心を理解しようと努めています。でも、この先どうなるのでしょう」
エリュティアが問うのは今のアトランティスの情勢の事だった。アトラスを信じようとしながらも、心によぎる不安も拭いきれない。アトラスは彼の秩序への構想を語って聞かせた。
「春に各国の王が聖都に集う。そこで新たな神帝を選出し新たな秩序の元で平和を取り戻す」
「フローイ国やヴェスター国はどうなるのですか。
エリュティアの疑問はアトラスの心を抉った。その両国が乱れている事は知っている。しかし、今のアトラスはその状況に目をつむろうとしている。彼は曖昧な返答をするしかない。
「今は王を失った国も、それまでには新たな王を擁立するだろうよ」
「本当ですか?」
エリュティアの真剣な視線に、アトラスも真剣に答えざるを得ない。
「きっとだ。約束する」
そんな短い言葉に、アトラスは心にわだかまっていた思いを吐き出した。彼自身、フローイ国やヴェスター国の人々を見捨てようとしていた事を心の底では気づいていた。今はそれが恥ずべき事のように思える。
アトラスはエリュティアへの感謝を、亡くなった愛馬に語りかけた。
「アレスケイアよ。私は良い伴侶を得た。静寂の混沌でながめているか」
しかし、王宮に戻ったアトラスとエリュティアを、思いもかけなかった知らせが待っていた。




