新たな命
王宮に戻ったアトラスは、ラヌガンに兵の指揮を任せて兵舎に留め、役人たちには帰還した兵士のために食事と酒の準備をするように命じた。
そんな王の帰還の合間に、大臣として政務を預かるライトラスと、王妃エリュティアの生活を取り仕切るハリエラナが短い会話を交わした。
「これでご満足かな」
「ええ。結構ですわ」
二人が交わした短い会話は、王の帰還を祝う祝賀会の事である。政務を預かるライトラスとしては盛大な祝賀会を開き、民にアトラスという王の存在感を誇示したい。しかし、エリュティアの妻としての寂しさを知るハリエラナとしては、形式だけの歓迎会など無用。王と王妃の若い夫婦がくつろげる時間を作りたい。
この時はライトラスが妥協した。ライトラス自身が頑固者であるが故に、ハリエラナの頑固ぶりも認めている。
王の留守の間に王が居なければ判断できない政務がたまっている。それらを円滑に勧めるために、ここでハリエラナに譲歩する事も必要だった。しかし、ライトラスの譲歩は、やがてアトラスが王妃の相手をしていられなくなるほど忙しくなると言う事だった。
ユリスラナがエリュティアの誘いをアトラスに伝えるために来たのも、ハリエラナの指示だった。
広い王宮とは言え、王と王妃が二人きりで言葉を交わす事が出来るのは、広い庭園の中央の東屋かエリュティアの居室ぐらいだった。ユリスラナはアトラスを東屋へと導き、庭園の入り口でエリュティアが待つ場所を指さして見せた。
「その後、貴女はお二人の邪魔にならないよう戻ってくるのですよ」
それが、ハリエラナがユリスラナに与えた指示だった。子どものように素直にユリスラナについてくるアトラスの様子を窺ってみれば、二人っきりでそっとしておくのが良い。ユリスラナは微笑んでハリエラナの指示の細やかさに納得した。
しかし、東屋の中で二人きりになった二人は、共通の話題に困って見つめ合っただけの短い沈黙があった。エリュティアが会話を切り出す言葉を見つけて言った。
「あの少年とはどういうお知り合い?」
先ほどアトラスが言葉を交わした少年の事である。アトラスは記憶を辿るように答えた。
「彼は私に石を投げて死ねと言った。しかし、子どもを相手にするのも武人の恥。大きくなってから、もう一度復讐に来いと言ったのだ」
「その時にあの短剣を与えたのですか」
エリュティアは頷くアトラスに言葉を続けた。
「でも、おの少年は貴方を受け入れ、貴方もまた」
「そなたが囁いてくれたおかげだ」
「いえ。それはきっかけ。貴方の心の中にあの少年や少女を受け入れる場所が出来ていたのでは?」
戸惑い、返事に窮していたアトラスは、思いもかけなかった事に後悔の声を上げた。
「すまぬ。気づかなかった」
アトラスは自分の話しに夢中になっていて、王妃が寒さに震えているのに気づかなかった。侍女たちの配慮で厚手の衣類を重ねていたが、庭園を吹き渡る風は思いの外強く、彼女の手を握ると冷たい。
「どこか温かく、くつろげるところに」
エリュティアも頷いて立ち上がろうとしたが、その足下がふらついた。アトラスはその妻の体を支えた。エリュティアが足元を見れば、花壇からはみ出して地を這うように柔らかで細い枝を伸ばし、小さな葉を育む野草が見えた。アトラスはエリュティアの体調を気づかうのと同時に、彼女がこの命を踏みにじる罪悪感から救ったのだった。
アトラスはその野草に視線を向けて、その名を明かした。
「ローホミルというのだ。間もなく小さな紫色の花を開かせる」
「私は、そんな事も知りませんでした」
エリュティアの記憶の片隅にはあった草花だが、彼女がその名を知ったのは初めてだった。アトラスは穏やかな目をエリュティアに向けて、伝承と重ね合わせて教えた。
「それは、今までこの花がそなたに名乗らなかっただけ。今は私の口を通じて名乗った。私も姿は見た事はない。可愛い男の子たちだそうだ」
冬の終わりに一株にいくつも小さな花をつける。その花の一つ一つに男の子の姿をした精霊が居るという。ただその花も夜明けに咲いて日暮れにはしぼむ。短い命の象徴である。
アトラスはそんな儚い命をエリュティアと重ねて、彼女が傷つく事を恐れるようにそっとエリュティアに寄り添い、彼女の体を支えて居室へと歩いた。
居室は無人だったが、暖炉の薪は燃えさかっていて部屋は暖かい。テーブルの上には準備したばかりのように、ワイン水が壺の中から香りと湯気を立てていた。
アトラスはエリュティアをベッドに横たえて休ませようとしたが、エリュティアはもっと話しをしていたいと言うように、ベッドに腰掛けただけでアトラスと向き合った。
エリュティアはくすりと笑って、アトラスがローホミルと重ねた伝承の事を言った。
「草花の精霊に、お友達が多いのですか」
冗談ともつかぬ笑顔で彩られた言葉だった。二人は生真面目な性格という垣根で、未熟な互いを遮っていた。しかし、エリュティアが無意識にはなった冗談が、心の垣根を取り壊した。
アトラスは突然に身近に感じた王妃の笑顔が美しいと思った。エリュティアもまた初めての経験に戸惑う夫の笑顔が、今までになく人間臭く感じられた。
エリュティアがアトラスのためにワイン水カップに注ごうとしたため、アトラスが慌てて代わった。体が冷えていて、暖かな飲み物を必要としているのはエリュティアの方だろう。
蜂蜜で甘みを付けた湯に少量のワインを加えて香り付けをした飲み物で、酔う事は出来なくても、その温かさは二人を寛がせた。
姿はなくとも大勢の人に見守られ支えられている。エリュティアはそんな思いを込めて言った。
「私には周囲の人たちが教えてくれる事だけが、この世界でした。でも、聖都では民に多くの事を教えられました。私は民に支えられ、導いていく」
「今は、私も導いてもらっている。そなたに」
「本当?」
「本当だ。本当だぞ」
アトラスは子どものようにムキになって、いきなり上着を脱いだ。愛する者に自分の本心を知って欲しいという無邪気さが感じられて微笑ましい。微笑むエリュティアの前でアトラスは下着まで脱いで上半身を露わにした。
「見ろ。今でも、そなたにもらった胸板を身につけている。我、常に真理の女神と……」
胸板の裏に刻まれた言葉の続きは、エリュティアも知っている。彼女はアトラスに代わってその言葉を口にした。
「我、常に真理の女神と共に在り。真理の女神、常に我を導かん」
「私にとって真理の女神とはそなたの事だ」
アトラスの言葉に、エリュティアも微笑んで答えた。
「私も頂いた物をもっています。ずっと」
エリュティアが首にかけた紐を引いて胸元から小さな袋を取り出した。袋の中の物を手の平に取り出して見せた。アトラスは呟くように言った。
「月の女神の涙」
水滴の形の真珠だった。エリュティアが身につけ続けたという言葉を裏付けるように、表面の光沢は失われているが、その輝きの内側の本当の美しさを見せるように鈍く温かい光沢を持っていた。
アトラスが強く閉じた瞼から一筋の涙がこぼれた。彼の故郷や家族に連なる思い出の品である。エリュティアはアトラスの涙に気づかぬふりを装って視線を落とした。目の前にアトラスが胸に露出させたクレアヌスの胸板がある。着用する者を勇気づけると言われる品だった。その丸い金属板の表面には、アトラスがエリュティアに例えた真理の女神の像が刻まれているが、その金属板の表面に斜め上にと抉った傷がある。その傷を指で辿れば、アトラスの左の脇腹と二の腕の内を抉った傷へと続いていた。
エリュティアの指先の感触を感じ取ったアトラスは、微笑んで言った。
「私は戦場で名も無き兵の槍で死ぬ運命だった。そなたはその運命から私を救い、生き延びさせた」
ベッドに腰掛けていたエリュティアは向き合って立つアトラスの右手を引いて、傍らに座らせた。アトラスは言葉を続けた。
「では、私は何のために生きて居るんだろう」
「私も同じ。何のために生きているのか分からなかった。でも、今は分かる。きっと私たちがここで出会うため」
エリュティアがアトラスに優しく微笑みかけてそう言った。今、ここから始まる。アトランティスに充満する憎しみや恐怖を払い、哀しみと不安に苛まれて生きる民を救う。二人にそんな生き方が訪れるのだという。
「エリュティア」
アトラスは妻の名を呼んでも満足な右腕と、肘から先を失った左の二の腕で彼女を抱きしめた。エリュティアもまた、アトラスの胸に素直に顔を埋めた。
(暖かい)
二人はそろってそんな満足感に酔った。触れあった肌が温かく、二人は一つに溶け込むようだった。この夜、エリュティアの子宮に、新たな命の灯火が灯った。
しかし、その明くる日、二人の運命を切り裂く警告のように、大きく地が揺れた。




