新たな光景
エリュティアがパトローサ郊外の広場でアトラスの帰還を迎える準備を整えた頃、アトラスは早朝にリマルダの地との境を超えてシュレーブへと入り、陽が中天を少し過ぎる頃にパトローサに戻るつもりでいた。
ヴェスター国からの帰途は順調で、広大な麦畑が広がる平原の向こうに、パトローサの家並みが見えてきた。アトラスは隊列のほぼ先頭にいて、アトラスの前に護衛として五名の兵が馬を進めていた。
「あれは……」
ラヌガンがめざとく指さす先に、青紫のルージ国王家の旗がたなびいて見えた。あの旗を掲げる事が出来るのは王であるアトラスと、もう一人、王妃のエリュティアだけだ。 いつもは街を行き来する隊商が、荷を積み卸ししたり、荷をここで売りさばく露店や、広場に集まる人々に食べ物を売り歩く者たちで慌ただしい広場だった。今はそんな場所に、エリュティアがアトラスの帰還を出迎えるためにいるということだった。
しかし、アトラスは妻の出迎えを知って眉を顰めた。ここはルージ国の領土とはいえ、彼が戦火に晒した元シュレーブ国の民が住んでいる。憎しみと蔑みの視線を浴びる自分の姿が、妻の目の前に晒される。そればかりか、彼の傍らに立つ妻も侮蔑の声を浴びるに違いない。アトラスにとってもっとも避けたい事だった。しかし、引き返す理由も見つからない。アトラスは行軍を停止させることも出来ないまま、パトローサ市街へと足を踏み入れていった。
「あれはエリュティア様では?」
スタラススが指さす先に一人の女性が居た。輿から降りた人影は、侍女に囲まれていて間違いなくエリュティアだった。アトラスは戸惑った。大勢の民がいて、王と王妃の行動を見守っている。悪鬼と蔑まれる自分が、民の前で王妃に親しい態度を取れば王妃の人としての名誉も汚される。
エリュティアが輿を降り、ハリエラナたちに寄り添われながら歩み寄ってきたため、アトラスは行軍を停止させて馬を降りた。向き合う二人は、民の前で仲の良い夫婦を演じるには未熟だった。
アトラスはエリュティアの出迎えにどう応じて良いのか分からずに戸惑い、それを眺めたエリュティアも、夫の態度にどう対応して良いのか分からず戸惑った。民衆も二人を無言のまま注視していた。
北風の音さえ聞こえる静けさの中、群衆の中から一人の少年が進み出た。年の頃は十二、三か、アトランティスで大人の補助的な仕事を担う年頃だった。その少年に更に幼い二人の少女が寄り添っていた。
少年が短剣を手にしていたため、アトラスの護衛たちは緊張した。アトラスもエリュティアを短剣の危険から守るように背後に追いやって体の向きを変え、少年少女と向き合った。
少年が差し出した短剣の束に、小さなアクアマリンが陽の光を受けて青く輝いていた。間違いなくルージ王家のもの。記憶を辿れば二年半年前の秋の出来事。この少年は街道を進むルージ軍の先頭を行くアトラスに石を投げて罵声を浴びせた。
アトラスは記憶を辿って、少年に静かに言った。
「ようやく。復讐の時が来たというのか」
アトラスは少年に短剣を与えた時、これを生活の糧に換えるか、復讐を心に抱いて生きるか自分で運命を決めろと言った。アトラスは考えた。少年がこの短剣を手放さなかったと言う事は、少年が復讐心を捨てなかったと言う事だろう。当時の少年の言葉も記憶の隅に残っている。両親を失ったのがアトラスのせいなら復讐心が薄れる事はあるまい。
一瞬、アトラスはここで死んでも良いと思った。人々を救う事も出来ず、パトローサに戻れば妻の名誉を汚すだけ。死んでいった者たちの重荷を背負い、人に蔑まれながら生き続けるなら、この場で死ねば楽になる。
短剣を差し出す少年が、小さく何かの言葉を繰り返す様子から、少年が自分の心をどうやってアトラスに伝えて良いものか分からずにいる事が分かった。
その少年の言葉の一つがようやく聞き取れた。
「返します。もう要らないから」
予想しなかった言葉にアトラスは混乱した。続いて、傍らの二人の少女が目に涙を浮かべて次々に言った。
「ありがとう」
「本当にありがとう」
アトランティス全土で戦い続けたアトラスが、民から感謝の言葉を受けたのは初めてだった。アトラスは初めての経験に戸惑いを隠せない。背後にいる一組の男女が、少年と少女を心配するように見守っている。その理由は単純。アトラスが危険な悪鬼だから。
その男女が少年と少女に注ぐ視線は真剣で、子どもたちの行動を見守りながらも、何かあれば身を挺してでも子どもたちを守るという意志を感じさせる。少年と少女が、戦火の中で死んだと信じていた両親と無事に再会できたのか、平和を取り戻した街で新たな両親を得たのか、どちらだろう。
そんな光景を重ねて子どもたちの言葉の意味を推測すれば、生きていられた事に対する感謝だろうか。意味を図りかねて首を傾げるだけのアトラスに、少年も自分の心を伝えきる事が出来ずに、アトラスの顔をじっと見たまま短剣を差し出し続けていた。
エリュティアはそっと寄り添って優しく、しかし確信を込めて言った。
「何も考えないで。全てを受け入れれば良いの」
彼女は聖都攻略戦を民と共に耐える中でそんな事を学んでいた。
(全てを受け入れろと?)
そんなアトラスの思いに気づいたように、エリュティアは振り返ったアトラスにそっと頷いて見せた。
少年が短剣の受け取りを催促するように、更に一歩進み出た。警護の兵がその動きを警戒して少年を取り押さえようとした。アトラスはその兵を制止して言った。
「よせっ。かまわぬ」
アトラスは少年の前に片膝をついて、少年と視線の高さを同じにした。王が貧しい少年に跪いたように見えて、周囲の民衆の間にどよめきが広がった。
少年が自分の心を説明できないように、アトラスの言葉も短い。
「では、受け取ろう」
与えた品を返してもらうのではなく、差し出された短剣と共に少年の心を受け取るという。アトラスに短剣を渡し終えた少年は、幼い少女二人を伴って、彼らを見守っていた男女の元に駆け戻った。少年は自分の行動を誇るような表情で男を見上げ、女は戻ってきた子どもたちを愛おしそうに、三人纏めて抱きしめた。そんな様子を見れば、血の繋がりがあるかどうか定かではないが、あの男女と三人の子どもは仲の良い親子だった。
アトラスはあの少年と出会った時の少年の言葉を反芻していた。
「何故、お前は生きている? お前も死ね!」
いま、アトラスはその言葉から解き放たれたが、新たな疑問にも包まれていた。
「私は生きていても良いと言う事か。では、何のために生きる?」
悩みづけて無言のアトラスを眺めていたエリュティアは、ハリエラナに促されて帰還した王への挨拶を思いだした。
「運命の神と平穏の女神に感謝を。王の無事のご帰還、心から安堵いたしました」
「ああっ。無事に戻った」
アトラスは微笑みながらも、群衆の視線を避けるようにエリュティアを輿に導いて、ハリエラナに命じた。
「先に行け。我らはその後に続く」
エリュティアは背を向けた夫を追わず、黙って輿に乗り込んで帰途についた。彼女は自分の今までの思いを心の中で反芻した。
(私は何も出来ず、ただの足手まとい。私に生きる意味はあるのでしょうか)
しかし、今はきっぱりと決意を込めて口に出して呟いた。
「私はアトラス様を支えて、共に生きられる」
少年の出現はアトラスだけではなく、エリュティアの意識も変えていた。




