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エリュティアの決意

 ユリスラナは兵舎の入り口の左右に立つ衛兵たちに笑顔を向けただけで、慣れた足取りで兵舎の中へと踏み込んで行った。彼女の後に付き従うエキュネウスも、衛兵に身分を問われることなかった。

 兵舎の中から振り返ってみれば、衛兵がエキュネウスを眺めてくすりと笑っていた。確かに、手ぶらで歩くユリスラナの後ろに、重い手かごを下げて続くエキュネウスの姿は武人でありつつ、従順な下僕という奇妙な姿だった。


 広い兵舎の中、兵のベッドが並ぶ広い部屋の隅、カーテンで仕切られたベッド一つ分の区画がテウススが静養している病室と言えた。

 彼女はここでも慣れた様子でカーテンをめくって言った。

「テウスス様。今日はお客様をお連れしました」

 ユリスラナが紹介する間もなく、テウススは笑顔を浮かべて客人の名を呼んだ。

「ああっ。エキュネウス殿か」

「いや。そのままで」

 エキュネウスはベッドから起き上がろうとするテスススを制した。戦闘で矢傷を受け、一時は長く意識を失う状態だった事は知っている。テウススは頷いて再びベッドに身を横たえて言った。

「ここまで運んでもらった礼も言えず、心苦しい限りだった」

 ユリスラナが男同士の会話に割り込んで、エキュネウスの訪問の用件を語った。

「この人、アトラス様に憧れて、アトラス様のようになりたいので、アトラス様の事を教えて欲しいと」

 テウススは思い出に浸るように目をつむって言った。

「武人なら誰でもアトラス様のようになりたいと考える。あの勇敢さ、果敢な決断力」

 エキュネウスは我が身を振り返るように自虐的に微笑んで言った。

「しかし、誰でもアトラス殿のように多くの命の責任を背負えるわけではない。私は今、三十人に満たない仲間の命を背負って、その重荷につぶれそうだ」

 悩むエキュネウスを励ますように、テウススは苦笑いして言った。

「たぶん、アトラス様も我らと同じ」

「同じ?」

「腹の内をさらけ出せるのはアレスケイアだけ。そのアレスケイアも死んだ」

「アレスケイアとはアトラス殿の愛馬?」

「そう。王は幼い頃から私のような近習にさえ話せぬ悩みを心に秘め、その悩みを吐き出せるのは、物言わぬ愛馬だけ」

 常人と変わらぬ心に、隙間無く重荷を詰め込んでいるという。エキュネウスはため息と共に言った。

「お辛い事だ」


 ユリスラナはそんな男たちの会話を聞きながら、バディの実の皮を剥いて、籠の底から皿を取り出して乗せた。彼女の小さな計略で、食の進まないテウススに、こうやって皮を剥いて食べやすくして提供する。干しイチジクは一口大に切る。そして、去り際に皿を持って帰らねばならないと言えば、テウススは皿を空にする為に、皿の果物を平らげねばならない。テウススはその計略も見抜いているように言った。

「よく気が付く侍女殿だ」


 そのユリスラナはふと手を止めて、男たちの会話から記憶を辿っていた。彼女はバディの実を眺めたまま言った。

「エリュティア様と私……、聖都シリャードでアトラス様に命を救っていただいた時に、アトラス様が私たちの目の前で兵士を斬り殺すのを見たんです。まだ、少年のような兵でした」

 エキュネウスにも記憶がある。敵に長く包囲されて、兵の補充もままならない中で聖都シリャードに立てこもる民の中から兵を募った。中には老人や子どもと言っても良い者たちも多く混じっていた。

 ユリスラナはあの時の記憶を辿った。

「その時のアトラス様の目。とてもお辛そうでした。命を奪う度に、その相手の命を背負っておられるよう」

 ユリスラナの言葉にテウススは頷いて言った。

「あの方は、幼い頃から、背負った悩みを周囲に見せまいとなさる。幼い頃からそばにお仕えする私でさえ、お慰めする事はかなわぬ」

「エリュティア様も、同じ事を仰って居ました。アトラス様が心に背負う重荷を分かち合いたい。でも、迂闊に触れるとアトラス様の心が壊れてしまいそうで怖いと」

「時がたつほど、王の心は閉ざされていくようです」

 テウススが言ったのは、戦は続く気配があると言う事である。彼は気分を変えるように空になった皿をユリスラナに見せて微笑んだ。彼女の好意は受け取って全て腹の中。ユリスラナも満足して微笑んだ。バディの実はまだ手提げの籠にいくつか残っているが、これは土産にすることにしてテーブルの上に置いた。彼女は空になった籠に皿を入れて立ち上がったところで、ようやく今日の仕事を思いだした。

 

「お伝えし忘れていました。エリュティア様から、アトラス様が二日後にパトローサに戻ると連絡があったと、テウスス様に伝えておきなさいと」

 アトラスが無事に帰還する事を聞けばテウススも喜ぶだろうというエリュティアの配慮だった。

「エリュティア様には、よろしくお伝えを」

 そう言って微笑んだテウススの表情が、エキュネウスには何故か作り笑いに見えた。役目を終えた彼女はぺこりと一礼すると笑顔で帰って行った。

 ユリスラナが姿を消すと、テウススは大きくため息をつき、目をつむって上半身をベッドに横たえた。一瞬、エキュネウスはその静かな寝姿に、死を連想して不吉な思いを振り払った。その直後、テウススはいきなり寝返りを打つように、胸から上をベッドからはみ出させ、今食べたものを床に吐いた。弱った体を隠して食べたが、今のテウススの体は、水気の多い果物でさえ受け付けないようだった。

 

 そんな事情にも気づかぬまま、王宮に戻ったユリスラナは、いつになく賑やかになった様子に納得した。王の帰還を知った重臣たちがその歓迎の出迎え準備を始めているのだった。そして、その賑やかさの中心は、エリュティアの居室だった。

 エリュティアの念を押すような強い口調の声が響いてきた。

「私は王をお出迎えに行かねば」

 ユリスラナがエリュティアの居室に入ってみると、エリュティアの前で笑顔を絶やした事のない侍女たちは心配そうに眉をひそめていた。

 ハリエラナが侍女たちを代表して引き留めた。

「いえ、王妃様。宮殿の中で待っておられれば、お戻りになった王も訪ねておいででしょう」

 他の侍女たちも、エリュティアを思いとどまらせようとする言葉を口にした。しかし、エリュティアは迷いのない瞳で断言した。

「でも、私は出迎えに行かねばなりません。あのお方をお支えしなければ」

 こうやって思い詰めた時のエリュティアの意志をひるがえすのは誰にも出来ない

 王が帰還するまでの二日間で、その知らせは重臣や小役人、食糧を納める出入りの商人へと伝わり、パトローサ中に王が帰還する日取りまで知れ渡った。


 王宮に閉じこもって静養していたエリュティアが外へと出るのは、聖都シリャードからパトローサに戻って以来だった。あの頃は樹を赤く彩っていた葉も舞い散って土に戻った。時も過ぎて、その枝はいくつもの芽を吹き出した。今はその芽の先が白く染まってつぼみが開く時が迫っている事を知らせていた。

 パトローサに住む人々は、アトラスの姿を一目見ようと、町の東の郊外から王宮へと続く街道の両脇に立ち並んでいた。ただ、民衆たちが目にしたのは、ヴェスター国から帰ってくる王ではなく、王宮からパトローサの郊外へ王を出迎えに行く王妃の姿だった。


 エリュティアは四方二人づつ合計八人の屈強な担ぎ手が担ぐ輿に乗っていた。輿のエリュティアが乗る部分は細い支柱で陽を遮る屋根がついているが、周囲の視界を遮るものはなく、彼女は久しぶりにパトローサの町並みを眺めた。

 二年前、戦火に見舞われた傷跡も癒えているように見えた。

(すべて、この民のおかげ)

 エリュティアはそう考えて、輿の上から街道に居並ぶ人々に感謝の笑顔を返した。


 そんなとき、民の中から罵声が飛んだ。

「裏切り者め」

 そんな声に振り返った彼女の視線は、民の列から罵声を発した男の視線と交わった。別の方向からも別の罵声が響いた。

「国を滅ぼした女!」

「命惜しさに悪鬼ストカルに身を売りやがった!」

「ルージ国に媚びへつらう売女め!」

 自分に向けられた民の憎しみの目で、エリュティアはその言葉が自分に投げかけられたものだと知った。罵声を浴びてみれば、その理由も思い浮かぶ。彼女は敵に降伏し、国の分割を受け入れた。その代償のように敵国だったルージ国王妃の座について安穏としている。彼女は返す言葉もなく、目を大きく見開いてうつむいて黙りこくった。

 これが侍女たちがエリュティアに隠したかった今のパトローサの民の姿だった。

「あのような者たちの声には耳を傾けなさいませぬように」

 輿の傍らを歩いていたハリエラナが近づいて力強くそう言った。エリュティアは今の自分の姿に夫アトラスを重ねて呟いた。

「あの方はこんな哀しみを背負い続けているの。あの方も、ハリエラナたちも、この哀しみから私を隔てて守ろうとした。でも……」

 この時、彼女は自分もアトラスと共に、アトラスのように生きようと決意した。そして新たな女の声が街道に響いた。

「この恩知らず。聖都シリャードでエリュティア様がしてくださった事を忘れたのかい」

 エリュティアに罵声を投げかけた男たちを叱りつける声だった。更にいくつもの声が響いた。

「そうだ。そうだ。エリュティア様は私たちを助けてくださった」

「エリュティア様は我が身を犠牲にして我らを守ってくださった」

 次々とエリュティアを擁護する声が上がって、エリュティアをそしる声も途絶えた。パトローサが陥落する折、エリュティアと共に聖都シリャードへ脱出し、聖都シリャード包囲戦をエリュティアとともに耐えた人々が、この街に戻ってきているのだろう。エリュティアは涙を抑えてじっと前を見つめた。

(私は、この人々と共に……)

彼女はこの人々とともに生き、アトラスと手を携えてこの人々を守り導く責任がある事に気づいた。


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