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バディの実

 ジグリラスが帰国する使者を王宮の門まで見送る役を命じられた。彼がその役割を終えて戻る時、声をかけた者が居た。

「ジグリラス殿。いつになく不機嫌ですな」

「マリドラス殿ですか。」

 ルージ軍が旧シュレーブ国の都パトローサを占領した後、アトラスからラヌガンと共にその占領統治を任された男だった。武人だがその統治手腕は優れている。パトローサが大きな混乱もなく終戦を迎えたのは、この男の存在が大きい。ライトラスとジグリラス親子が隠遁生活を捨ててアトラスの配下に加わったのは、このマリドラスの人柄を見込んだからである。

 ジグリラスは素直に不満を吐き出した。

「グラト国の使者の傲慢な態度、まったく腹立たしいことです」

「彼らは我が国を侮っているのでしょう。我が国は本国の土地と民を失い、今やシュレーブ国の旧領を十残すのみ。対してグラト国は本国は安泰。しかも新たに得た領地は十二に及びます。国力の差は歴然としておりますな」

「その国力の違いでで、盟友関係も崩れていると言う事ですか」

「我らが王は、春のアトランティス議会で国々の新たな秩序を打ち立てようと考えておられる。その考えは正論で、誰も抗えぬ。それゆえ、その前に勢力を拡大して、他国に自分の武威を見せつけておこうと考えるのは当然の事。もはや盟友ではなく、国力を背景に相手を威圧する関係」

「では、我らはどうすればよいとお考えですか」

 悩む彼にマリドラスは微笑んで、しかし決意を込めて言った。

「私にはジグリラス殿のような悩みなどありませぬよ。戦えと言われれば戦うのみ」

 戦いは覚悟しているというマリドラスにジグリラスが尋ねた。

「では、グラト国との戦になるとお考えで?」

「ルードン河を渡って、グラト国から逃げてきた民が数多くいる。その者たちに聞いたのですが、我らの領地の対岸で、グラト軍が戦準備を始めているようです」

 ジグリラスが抱いた疑念について既に調べてあるという。ジグリラスは重ねて尋ねた。

「戦準備とは?」

「イドランの町に集積していた物資を北のニナロスの地へと移しているとの事。ラルト国との戦が一段落すれば、その兵を我らに向けてくると言う事ですよ」

「戦とはいつ? どこで?」

「まずは、春、聖都シリャードのあたりに。聖都シリャードは我が国の中にありながら我が国ではない。グラト国が兵を移動させたからと言って我らがその退去を求めるのは難しい」

「再び聖都シリャードが戦火に晒されると?」

「いや、それもまやかしでしょう。ニナロスの地の西、ルードン河の岸辺に三十ほどのいかだが隠してあったとの事。その辺りのルードン河の川幅は半ゲリア(約40メートル)ばかり、夜の闇に隠れ一晩で数千の兵を対岸の我が国へ上陸させる事も出来ましょう」

 マリドラスが指摘した場所は思いもかけずこのパトローサに近い。ジグリラスは驚いて尋ねた。

「それほどの敵がいるなら、このパトローサも危険では」

 各地の領主が招集していた兵は、領主と共に故郷に帰っている。ルージ軍の主力となる騎馬兵は遠くヴェスター国の地にあり、今このパトローサを守るのは、数百のギリシャ人部隊に過ぎない。

「心配には及びますまい。ギリシャ人部隊は幾多の戦場をくぐり抜けた勇者たち。一方、グラト軍の主力はラルト国との戦と占領地の統治で手一杯。我らの隙を狙うのは新たにかき集められた徴募兵たちです。数は多くとも練兵は行き届かず、士気も低い。まともな指揮官なら我らに挑む愚を悟って、戦を起こす事はありますまい」

「しかし、ヴェスター国のオルエデスのような事もあるのでは」

「ジグリラス殿のご心配はもっもなれど、この件については、既に王にはお伝えいたしております、間もなく戻ってこられるでしょう。後は王のご判断次第」

「手際の良い事で」

「いや。これもテウススの入れ知恵」

 情勢に機敏なテウススの名に、ジグリラスは心配そうに眉を顰めて尋ねた。

「そのテウスス殿の体調は?」

「昨日も今日も、本人は気丈に振る舞ってはいるが……。ここだけの話し、この冬を越せるか心配になる事がある」

「それほどに」

 幼い頃からアトラスに仕えてその性格を熟知している。敵国との交渉に赴くなど外交上の経験が豊富なだけてはない。戦場では誰より勇敢で、幾多の戦場でアトラスと共に戦って戦場での兵の進退も学んでいる。今のルージ国の混乱を収めるために欠かせない人材の一人だった。


 そのテウススは、宮殿に隣接する近衛兵の宿舎にいる。常設の軍としてシュレーブ王ジソーに仕えた近衛兵も、戦でその数を減らし、敗戦と共に一部の兵を宮殿の護衛に残して近衛兵団は解体された。その空いた兵舎に、今はルージ軍兵士が駐屯しているのである。聖都シリャードを攻略していた頃は、マリドラスとラヌガンが率いるルージ軍騎馬隊兵士、今は、奴隷上がりのギリシャ人部隊がマリドラスの指揮下に入って駐屯している。


 そんな兵舎への道すがら、ユリスラナはリズムを付けて歌うように自分の任務を口にした。

「私は陽気なスクナ板。今日もお伝えいたします。バディの香りにイチジクの甘さ。なんでもお任せ下さいな」

 彼女が運ぶ手提げ籠に、アトランティスの人々がバディと呼ぶ拳二つほどの大きさの甘酸っぱい果物が五つ、袋一杯の干しイチジクを入れている。

 そして、確かにバディの甘酸っぱい香りは、彼女の重い気分を和らげてくれていた。ユリスラナは王妃エリュティアに命じられて、兵舎にいるテウススへ果物などを届けるのが日課になっているのである。

 兵舎のベッドに伏せったままのテウススに、エリュティアの日々の出来事やアトラスから届けられた知らせを伝え、逆にテウススから幼い頃のアトラスの話を聞き取ってエリュティアに伝えて王妃の心を和ませている。彼女はそんな自分の役割を、アトランティスの人々が情報をやりとりするスクナ板に例えているのだった。

 

 兵舎までの道はこの一本だけ。この時間に王宮から兵舎に行くのは彼女ぐらいのもので、道には人の気配が途絶えた。そんな道の傍ら、一本の大木の影に、太い幹が隠しきれない男の後ろ姿がちらりとあった。彼は地面に腰を下ろし、樹にもたれて眠ったように目を閉じているようだった。ユリスラナはその男をめざとく見つけて声をかけた。

「あらっ。エキュじゃないの」

 普段はユリスラナの姿に笑顔を返すエキュネウスだが、この時には顔を背けるように言った。

「兵舎から離れたここなら、一人になれるかと考えたのだが……」

 彼はそんな言葉で誰にも邪魔されず考え事をしたいと言った。ユリスラナはその言葉も聞こえないように、ここで一休みする事に決めた。彼女は果物の入った籠を地面に下ろし、エキュネウスの傍らに腰掛けて、彼の横顔をじっと眺めた。エキュネウスは彼女の方を見もせず言葉を継いだ。

「アトラス殿は、どれ程の重荷を背負っているのだろう」

 唐突な言葉で、ユリスラナには彼の言葉の意味が掴みきれない。しかし、彼の思い詰めた横顔に、彼女は穏やかに尋ねた。

「どうしたの?」

 短い問いに、エキュネウスはようやく彼女の方を向いて言った。

「私には二七人の仲間がいる。もはや故郷に帰る事も出来なくなったばかりか、ここには我々の居場所もない。その仲間のこれからの人生を考えてやるのは気が重い。私には背負いきれぬほどだ。しかし、アトラス殿は、一体、何人の命を背負っておられるのか」

 彼がギリシャからアトランティスに来て三年半。二千人を超える仲間は聖都シリャードの包囲戦とその後の退却で潰えた。今の彼の元に居るのはその生き残りだった。しかも兵として行動できる者は半数にも満たない。多くは腕や足や目に生涯癒えることの無いことのない傷を負っている。彼は若いながら、たまたま指揮官の立場だったために、その生き残りの指導者の立場にいる。

 ユリスラナが少し考えて言った。

「アトラス様がどんな人か、知りたい?」

「知る事が出来るなら、どんな事でも」

「では、ついてきて」

「どこへ行くんだ?」

「貴方もよく知ってる人の所よ」

「誰だ?」

「テウスス様」

 確かに、エキュネウスはその人物の人柄まで知っている。幼い頃からアトラスの側に仕えてきたと言うイメージがあった。

「なるほど。名案だ」

 エキュネウスはようやく微笑んで、ユリスラナをかき抱いて唇を重ねようとした。ユリスラナはそんな彼を両手で押し返し、顔を背けてキスを拒んだ。

「今はそんな気分じゃないの」

 エキュネウスは彼女の言葉に意外そうに首を傾げた。今の二人は手を握ったりキスを交わす親友の関係を越えて、体も交わした、いわば恋人の関係だった。そんな彼女が突然に距離を置こうとする理由が分からない。

 ユリスラナには、彼を拒む口にしにくい理由が二つあった。彼女は人の出自など気にしないたちだが、自分の立場を自覚してみると、エリュティアの侍女だった。このアトランティスで栄華を誇ったシュレーブ国王家の高貴な血を引く女性で、今はルージ国の王妃。そんな女性に仕える者が、時に蛮族タレヴォーと呼ばれるギリシャ人と結ばれては、エリュティアの名誉を傷つけるのではないかという不安。

 そして、もう一つの理由は、言葉通りその気分になれない。最近の彼女は、快活さを装っていても、体がだるく重いような気がして、何事にも積極的になれず、時に吐き気を感じるほど気分が悪い。

 彼女が立ち上がって籠を手に取ろうとしたとき、よく熟れたバディの香りが彼女の体を心地よく癒した。その瞬間、その甘酸っぱい香りに幼い頃の記憶が一つ蘇った。

 彼女の弟を身籠もっていた頃の母親が、バディの実を食べていた時の記憶。

「バディはね、姉の豊穣の女神アナリシアから、誕生の女神アルテリシアに送られた悪阻つわりの良薬なのよ」

 彼女の母親は、お腹の子どもにも言い聞かせるようにお腹を撫でた。そんな記憶だった。

(まさか……) 

 彼女が自分が身籠もった事に気づいた瞬間だった。その子どもがいるとしたら、父親は目の前の男に違いない。自分の顔をまじまじ見つめる彼女にエキュネウスは尋ねた。

「どうしたのだ?」

「いえ、何でもないわ。ただの気の迷いよ」

 彼女は首を横に振って話題を転じた。

「じゃあこれを持って」

 ユリスラナは彼女が抱えていた籠をエキュネウスに押しつけた。彼女は先頭に立って歩きながら、新しい役割にリズムを付けて口にした。

「私は親切なスクナ板。今日は困った殿御も運びます。アトラス様ってどんな方?」


 彼女は大きな荷物を持ったエキュネウスを従僕のように従えて女主人のように歩いた。しかし、愛する人の子どもを授かったかも知れない喜び、侍女として蛮族と禁忌を犯したのではないかという戸惑い。乱れる心を心を抑えた彼女の表情は複雑だった。

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