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運命と調和

 アトラスがギリシャ兵を連れて聖都シリャードから旧王都パトローサへと向かう頃、彼の母国のルージ島では、妹のピレナが馬で緩く駆けていた。

「おおっ。ピレナさまじゃ」

 アワガン村の女たちが、村の街道を馬で駆ける女性の姿を見つけて、網の補修をする手を休めて笑顔を浮かべた。その女性の顔立ちに幼さが残る。村人たちは十六歳というピレナの年齢まで知っていた。

 アトランティスの国々の中では、辺境のルージ国は野蛮で礼儀を知らないと揶揄される一方、王侯貴族と民の距離は近くて親近感を持つ間柄だった。ピレナもまた馬上から村人に気づいて笑顔で手を振った。


 アトランティス大陸の東、ルージ島の都バースの近く、島から西へ張り出した岬の丘に、涼やかな風が吹いていて夏の汗ばんだ肌に涼しかった。陽は西にかかりはじめているが、赤く空を染めるには未だ時間がある。

 岬から見下ろす北の砂浜に、豊漁の船を浜に引き上げる漁民の姿と、そんな夫や息子の帰りを待っていた女や子どもが駆け寄る姿が見える。ルージ国王アトラスの兄ロユラスに率いられた彼らが、命がけで国を守ったのも、既に過去の記憶に変わりつつある。この漁村は平和な姿を取り戻し始めていた。

 まもなくアトランティス本土に遠征した兵士たちが帰国するという噂も流れていた。

「なにもかも、元通りになればいいのに」

 ピレナは子どもっぽくそう願った。ただし、何もかもではない事はよく知っている。彼女が愛したザイラスという青年は亡くなった。彼女は愛していると考えているが、彼女の心は未だ幼くて、好意なのか本当の愛なのか格別がつかない。ただ幼い故の純真さで、彼女は思い定めていた。

(私はもう一生結婚はしない。私が愛するのはザイラスだけ)

 彼女がこの岬でザイラスの墓を飾って根付かせたはずのローホミルの花はなく、今は墓の周辺をアトランティスの人々がセイレナスと呼ぶ野草が、彼女の膝の高さまで茂って、その伸ばした柔らかな枝先に黄色い花をつけている。しかし、美しく咲き誇っていた花々も、花びらを地面に落とし始めていた。ふと気づけばシーナと呼ばれる草花が枝を伸ばし始めている。秋の始まりの頃に白い大輪の花をつける。透けるほど薄く大きな花びらが風にそよぐ光景は美しい。そして、そのシーナも冬の始まりと共に地に帰に帰る。冬の冷たい地面が露出した頃に、ふと気づくと、ローホミルが再び小さな葉を付け始めている。命が凍り付くほどの寒さに耐えながら、地面に這わせるように枝を伸ばし力強い緑の葉を茂らせる。その幾枚もの葉の間に紫色の斑点が見えてくれば、それがローホミルがつけた蕾。小さな紫色の花を満開になると冬の終わりを告げる。

 彼女はこの三年で自然の摂理を学んだ。多くの草木が同じ地面の上で季節を変えて住み分ける。枯れ果てて土に戻ったローホミルも、死によって消滅したのではなく、眠りについて次の目覚めを待っているだけ。自然は大きな調和の中にある。


 馬の嘶きに目を転じて見れば、南の水平線の彼方にキシギル山の頂上付近が見える。ルージ島の南のヤルージ島にある山で、良質の硫黄が取れて古くからルージ国の交易品になっている。しかし、その山の噴煙は太く濃くなり、最近はルージ島まで轟くほどの轟音と共に火や石を吹き上げるようになった。人々はそれを冥界のエトンが大地を追われた恨みを吐き出していると考えていた。

 そんな光景を見ながら、ピレナは不満を口にした。

「文句を言いたいのは、私だから」

 ここの所、彼女は母との口げんかが絶えない。彼女はその母から一時逃げ出して、この思い出の地に来た。そんな彼女の背後から声を掛ける者がいた。

「ピレナ……。バースは戦勝の宴で喜びにわき上がっているのに、どんな文句があるのです?」

 呼びかける名に未だぎごちなさがある。しかし、友人の間柄で呼び捨てにしてくれと頼んだのはピレナだった。

「タリア、それにフェリムネ様も」

 お転婆という雰囲気を除けば、ピレナは王族の姫としての気品を漂わせている。タリアと呼ばれた若い娘は、日に焼けた肌で漁師の娘だと分かる。その傍らの女性はフェリムネというアトランティス人ではない名前だった。一見無関係な三人は、ロユラスという青年で結ばれていた。

 振り返れば二十年数前、先代の王の子を身籠もったフェリムネは、王と共に遠征先からルージ島へ来て、ロユラスを生んだ。ロユラスは蛮族の女が産んだ子として王位継承から外され、岬の下に見えるアワガン村の漁師たちの中で育った。タリアとはそこで幼なじみから愛し合う関係になった。

 正妃リネはロユラスが生まれる頃に身籠もってアトラスを生み、続いて四年後にピレナを出産した。

 ロユラスはその母や恋人や妹など周囲の人々には思いがけない稀代の戦略家という面を持っていた。ロユラスは弟のアトラスにフローイ国を攻略するという戦略を与え、自らは海賊を率いてシュレーブ海軍の攻勢を防ぎきった。


 しかし、その才覚故に、ロユラスもこの世を去った。

「タリアにこの岬なら海が遠くまで眺められると聞いてきたの」

 戦で亡くなった者たちは、海で生きるこの村の風習に従って、遺体は小舟で沖合の潮の流れに乗せた。遠ざかる死者の魂を、母のフェリムネは浜から、タリアとピレナはこの岬の高台からロユラスの魂を見送った。

 フェリムネは眩しそうに目を細めて日差しが照り返す海を眺めて微笑んだ。

「この国に来て長くたつのに、この岬に来るのは今日が初めて」

 様々な哀しみに心を閉ざして、王に与えられた館に閉じこもるような人生だった。海を眺めてこれほど心が開放されるのは久しぶりだというのだろう。彼女は決意を込めて言葉を続けた。

「私は、ここが私の故郷だと決めました。ロユラスが静寂の混沌ヒュリシアンへと行けるように」

 一瞬の間をおいてピレナとタリアは、フェリムネの心情を察した。自分はアトランティス人と違って海の彼方から来た。その彼女の血を半分引いたロユラスの魂も、アトランティスの人たちが行く安らぎの世界に行く事は出来ないかと不安に考えているのだった。

 ピレナは確信を込めて言った。

「フェリムネ様の生まれ故郷で何と呼ぶのか知りません。でも、静寂の混沌ヒュリシアンは、この世の全ての物事をその調和の一部として受け入れます。タリアも私もフェリムネ様もその調和の一部。亡くなった後は、みんな静寂の混沌ヒュリシアンに戻る。私たちはその調和の一部だという事に喜びと感謝を持って一生懸命に生きればいいのよ」

 彼女は視線を周囲の草花に転じて結論を下した。

「そして、いつか新たな調和の要素として再生する」

 ピレナもアトランティスの女性として結婚してもおかしくはない一人前の女性になりかけた年齢だった。しかし、フェリムネとタリアは、ピレナが解き明かしたこの世界の理(理)に驚いて顔を見合わせた。

 ピレナは笑って種明かしをした。

「兄様の受け売りなの……」

 彼女の兄で、今はルージ国王となったアトラスの言葉だという。幼い頃、父に愛されていないと孤独に悩んだアトラスが、自然の中で学んだ摂理といえるかも知れない。

 この時、切ない話題を振り払うようにピレナの愛馬がいなないた。ピレナは思い出したように先に漏らした文句の理由を語った。

「乗馬もルージの女のたしなみよ。そうでしょ? 母がヴェスター国では、王侯貴族が馬に乗るのは下品だというの」

 昔、アトランティスの人々は海外の遠征で馬という生き物の存在を知った。馬は質実剛健なルージ国の人々の気質に良く合い、多くの馬が遠征先から連れ帰られてルージ国で繁殖した。今や馬とルージの人々の関係は友人とも言えるほどだが、他の国々人々から見れば、王侯貴族、とりわけ女性の移動手段は人が担いぐ輿だった。

 ピレナの口からヴェスター国の名が出た事で、タリアは噂を思い出した。

「では、ヴェスター国のオルエデス様がピレナ様を嫁に迎えに来るというのは本当なのですか?」

 ピレナは不快そうに眉を顰めたが、噂を否定しなかった。王女ピレナが海を隔てた隣国のヴェスターに嫁ぐという。その噂は都バースから漏れ出してアワガン村にまで伝わって、この国の人々は広く知っている。しかし、そんな噂もルージ国の重臣たちはあずかり知らぬ事。今、この国では重臣たちが聞かされても居ない情報が、民の噂になる。その噂の出所は、ピレナの母のリネだった。


 王アトラスが不在の今、ルージ国の混乱と破滅を予感させるように、キシギル山から立ち上る噴煙はいよいよ濃くなっていた。


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