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ルタゴドスの出撃と敗北

 オルエデスが隘路で悪戦苦闘する夜から丸一日前の夜の事、アトラスとその騎馬兵は国境のヴェスター国の関所を襲って占領していた。

 関所を守っていた者の立場で言えば、夜半、闇の中に轟音が響き、眠い目を擦って起きてみれば、既に関所の中は剣を抜いた敵の姿が溢れていた。もともとルタゴドスに対する忠誠心はなく、兵士としての練度も低い。関所の兵たちは剣を抜く暇どころか、剣を抜く決意を定める前に目の前に現れたアトラスたちに恐怖した。運の悪い者は出会い頭に斬られた。運の良い者状況を確認する間もなく恐怖で逃げ出した。残った者たちは武装解除されて捕らえられた。


 早朝、これから夜明けを迎える前の薄明かりで、アトラスたちが戦果を確認すれば、アトラス指揮下の兵に戦えぬほどの負傷者はない。負傷した者でも馬車に乗り換えて兵糧を運ぶ事が出来るだろう。一方、関所に居た者たちは役人と兵士の死体が六人。二十五人が捕虜となり、残りは逃げ去ったことが分かった。

 捕虜たちにとって、得体の知れない魔物に襲われた恐怖に震える夜が明けた。次に処刑されるのではないかと死の危険に更に怯えた時、彼らは閉じこめられた部屋から連れ出され、広場に整列を命じられた。

 剣を構えたルージ兵に囲まれる捕虜たちは、ルージ軍兵士の中から一人の武将が進み出て来るのに気づいた。その男には左腕がない。

悪鬼ストカルだ。悪鬼ストカルが居る」

 そんな絶望的な囁きが捕虜の間に広がっていった。彼らはアトラスの顔は知らないが、左腕のない武将として、その名をアトラスではなく、悪鬼ストカルとして記憶している。


 哀しく皮肉な事に、アトラスにはこの異名に利用価値がある。彼は残酷そうな笑顔を作って、死に怯える者たちを脅かすように怒鳴った。

「私が率いる五万の軍勢は、闇のどこからでも沸いて出る。戻って、ルタゴドスとその配下の兵どもに伝えよ。『闇に注意せよ。悪鬼ストカルの軍勢はどんな闇の中からでも沸いて出て、お前たちの背後から襲いかかり、喉笛を食いちぎってその血をすすり、心臓を掴みだして喰ろうてくれる』とな」

 アトラスが合図に右腕を上げると、ルージ兵の包囲の一部が開いた。

「何をしている。さっさと逃げぬと、お前たちの肝を先に喰ろうてやるぞ」

 この場を逃げる事が出来るかも知れないと気づいた捕虜たちは一斉に逃げ始め、アトラスたちはそれを追わなかった。もともとアトラスが率いてきた兵は五百を少し越える程度。捕らえた捕虜をここに留めて監視するために割く兵の余裕など無い。


 スタラススが笑いながら言った。

「この五百の兵が五万の軍勢とは。嘘が過ぎると商売のベナススの怒りを買わぬか心配です」

「商売は信じる事が一番だ。今の彼らは五万の兵が闇の中から沸いて出るという事を疑いはすまいよ」

「何より、彼らの口を通じて、悪鬼ストカルが出たという噂を広めてもらうのが肝要」

 レクナルスの言葉にアトラスは笑顔で言った。

「そなたもよく分かっているな」

 アドナはそんな会話に興味なさげに空を見上げて眉を顰めた。

「雨の気配がする」

 言葉の通り空に雨雲がかかり、日の出の明るさを隠し始めていた。しかし、アトラスの見るところその雨雲も、西風に吹き流されるようで軽い。東に向かうにつれて土砂降りの雨か雪でも降らせるかも知れないが、この辺りでは通り雨程度だろう。

「アレスケイア」

 彼は今は老いて馬屋に繋いで残してきた愛馬の名を呟いた。アトラスは幼い頃に愛馬と共に野山を巡って、そういう自然現象を読む知恵を身につけていた。

 アトラスはスタラススたちに言った。

「では、ここで昼まで兵と馬を休めて雨をやり過ごそう。昼食を摂った後に出発する」

「ここでルタゴドスを待つのでは?」

「いや。あの捕虜たちは、今日の夜半にルタゴドスの元に着く。ルタゴドスが宮殿の包囲体勢にある兵士どもから一部を引き抜いてこちらに向けるのが明日の朝。こちらから出迎えに行くさ」

 アトラスはピメルサネやその護衛の言葉から、敵の数を二千から三千と考えていた。敵の包囲軍がアトラスに兵を向けてくるとすれば千五百ばかり。この関所付近はその敵と有利に戦える場所ではない。


 アトラスが通り雨と称した雨を降らした雨雲が、その日の夕刻に、ルダゴドスの陣を覆い、アトラスに解放された捕虜たちも三々五々、陣に到着し始めた。雨雲も更に分厚くなりつつ、今はルタゴドスの頭上の月を隠して雨の滴が幕舎を濡らしていた。

 戻ってきた捕虜たちの言葉はルタゴドスを驚かせたばかりではなく、その指揮下の兵士たちに広がって不安を煽り、指揮官たちは闇を恐れて、小雨の中、かがり火の数を増やすよう命じた。

 ルタゴドスは彼に協力して兵を出した四人の領主を、自分の幕舎に集めて尋ねた。

「もう聞いているだろうな」

 領主たちは頷き、その一人が言った。

「あの悪鬼ストカルが姿を見せたとか」

 関所から戻ってきた兵士たちは、指揮官に報告する事も気づかぬように陣中で関所での恐怖を触れ回った。それが広がってルタゴドスたちの耳にも入っている。

「どうされるおつもりか」

 尋ねた領主の声に恐怖が籠もっていた。アトラスが悪鬼ストカルかどうかは別にして、彼はアトランティスに名を牙狼王として恐れられたリダルの息子としての実績を見せている。

 ルタゴドスは断言した。

「千の兵で宮殿の包囲を続け、残りの兵を私に預けよ。アトラスなど儂が片付けてきてやるわい」

 意外な言葉だった、ルタゴドスは今まで戦場に出た事など無い。しかも、身に降りかかる危険は他人に押しつけながら大臣まで上り詰めた男だった。そんな男が、どうして危険な任務を率先して引き受けるのか理解できない。しかし、自分に降りかかりそうな火の粉を避ける点で、反対する領主はいなかった。


 明くる日の夜明け、ルタゴドスは陣に並んだ千五百の兵に言った。

「急げ。悪鬼ストカルとやらの首、我が手で切り落としてやるわい」

 太り気味の体で兵士と共に行軍する気はない。ルタゴドスは屈強な四人の担ぎ手に支えられた輿の上で、千五百の兵に出発を命じた。

 ルタゴドスは政治や謀略に長けた男だが、兵を率いて戦った経験はない。兵を率いれば得られた情報が全てで、そこから想像が膨らまない。もう一つ、高慢で自信過剰な性格で、自分の想定が揺らぐなどと考えても居ない。

 そして、ルタゴドスは現実的で、アトラスという青年を意味もなく侮っているわけではない。彼はアトラスをよく知ってもいた。三年半前、アトラスは数千の兵を率いてヴェスター国の都レニグに姿を見せた。王子の肩書きは持っていても、父親のリダルの気迫の足元にも及ばない若造という雰囲気だった。その印象は誤りではなかった。続く戦はルージ軍の勝利と称しては居たが、多くの兵と有能な武将を失い、敵を殲滅するにはほど遠い結果だった。何より、左腕を失って、都レニグに後送されてきたアトラスは、惨めな敗軍の将のようにも見えた。

(アトラスの勇猛さなど噂だけ。アトラスを倒せば、儂の武名も上がって従う者どもも増える)

 ルタゴドスはそう考えていたのである。そして、彼は策を立てていた。都レニグと国境の関所を結ぶ街道沿いにいくつも町や村がある。そこに彼の兵を潜ませ、通りかかったアトラスの率いるルージ軍を側面から奇襲する。ルタゴドスはその思いつきに酔っていた。その思いつきを前提に想像を膨らませれば、夕刻にたどり着く村の先に兵を伏せるのに良い森がある。ルタゴドスは今夜はその村に兵を留めて、三ゲリア(約2.4km)先まで物見を出して、状況を探らせるつもりで居た。

「もうすぐ、ラッディード村だ。そこまで行けば、ゆっくりと休ませてやる」

 ルタゴドスは輿の上から兵士たちにそう言った。雨は止んでいたが、大した休息もなくここまで来た兵士たちに疲れがあると判断したのだろう。ルタゴドスが考えた疲労もそうだが、兵士たちの心の隙間には悪鬼ストカルと戦う恐怖も広がっていた。

 

 そんな行軍の様子を旅人姿の男が二人、物陰に身を隠して眺めていた。戦慣れした男たちで、ルタゴドスの兵の行軍を眺めれば、その兵の数ばかりではなく、練度や疲労度まで見抜く。男たちはルタゴドスたちから姿を隠したまま、木陰に隠していた馬まで早足で駆け寄ると、最初は物音を立てぬよう、やがて馬の腹を蹴って勢いよく駆けさせて遠ざかっていった。

 アトラスは、二人組の物見を十五ゲリア(約12km)先まで出して状況を探らせている。その物見が戻る頃、次の物見を出すというん念の入れようだった。ルタゴドスが想定した距離に比べればずいぶん遠方まで探っているように見えるが、人の足で三時間、馬を駆けさせれば一時間とかからぬ距離である。

 アトラスは既に戦うべき相手の位置と兵力を知っていた。そしてその掲げた旗から指揮官がルタゴドスだろうと言う事と、彼が隊列の後尾にいる事も知っていた。


 ルタゴドスにとって突然、アトラスたちにとって当然の出会いになった。街道が原野を抜けて村に差し掛かろうする場所。ルタゴドスが間もなく一休みできると考えた時、ルタゴドスが命じもせぬのに、隊列の先頭が足を止め、後続の者たちが前の者にぶつかるのを避けるように立ち止まって隊列が乱れた。

「何事か?」

 ルタゴドスが怒りを込めて怒鳴った時、隊列の前方に何かが降り注ぐのが見えた。届いた多くの悲鳴から、それが矢の雨だと気づかされた。アトラスたちはルタゴドスがこの夜過ごす予定の村に進出し兵を伏せていたのである。


 大地が揺れているのではないかと思うほどの轟音と共に、ルタゴドスの兵の隊列に沿ってアトラスの騎馬兵が後方へ駆け抜けて行った。馬という巨大な生き物が数百頭も駆ける様子はルタゴドスの兵を怯えさせるのに充分だった。

 ルタゴドスはその騎馬の先頭の男を見て思った。

(牙狼王リダルは、死んだはず)

 その直後、その人物に左腕がない事にも気づいてその正体を知った。今のアトラスは父リダルが漂わせた気迫を身につけていた。アトラスが通り過ぎていったと考えたのも束の間、隊列の後方に回った騎馬兵は一斉に向きを転じ、馬に跨っていた兵士たちは馬から下り、剣を構えてルタゴドスの部隊に襲いかかってきた。その先頭にアトラスがいる。


 アトラスの立場で見れば、狙う目標はただ一つ、ルタゴドスの命のみ。そして、その目標は隊列の後方、アトラスの目の前にいた。アトラスは常に兵の先頭に立って勝利を見据えて敵中に突入する。その姿は片腕を失ったネルギエの戦いような無謀な突撃をする過去のアトラスではなかった。

 その傍らにはスタラススたち近習が控えていたし、背後には忠誠心の厚い歴戦の兵がアトラスと心を一つにして付き従っていた。アトラスがルタゴドスを見据える目には、勝利を目指す信念と共に、部下に対する信頼に満ちていた。

 ルタゴドスはその視線に怯えた。彼が乗る輿の四人の担ぎ手もまた、敵の勢いに恐怖した。担ぎ手の一人が逃げ出すと輿が大きく傾いた。哀れなルタゴドスは輿から地面に転げ落ち、そんな主人を気づかう事もなく残った担ぎ手も、兵士をかき分けて逃げ出した。

 哀れな主人を守ろうとアトラスに剣を向けるルタゴドスの兵士も居たが、アドナたちが切り捨てた。輿から落ちて地面に転がったルタゴドスの命乞いの間もなく、アトラスはその胸を刺し貫いた。そうしている間にもアトラスの背後から沸いて出るようにアトラス配下の兵士たちが、ルタゴドスの兵に挑みかかって行った。

 腕力に長けたアドナが剣を振るってルタゴドスの首を落とし、その血まみれの首を掲げた。その彼女の姿は戦の女神パトロエの化身のようにも見えた。

 彼女は叫んだ。

「ルタゴドスは死んだぞ。この通り」

 彼女は繰り返し叫び、アトラスやスタラスス、レクナルスも、敵と剣を交えながら叫び続けた。

「ルタゴドスは死んだぞ。命が惜しければ剣を捨てて投降しろ」

 アトラス指揮下の兵たちも叫び始めた。

「ルタゴドスは死んだぞ。命が惜しければ剣を捨てて投降しろ」

「関所で投降した者たちは命を長らえたぞ。お前たちは死んでも良いのか」

「反乱を起こしたルタゴドスは討ち取ったぞ。反乱に荷担する気がなければ剣を捨てよ」


 アトランティスの武将たちがよく言う例えに「怯えた兵士など案山子も同然。兵の数に入らぬ」というものがある。

 今のルタゴドスの部隊を良く表す言葉だった。彼らは悪鬼ストカルの噂に怯え、突然の敵の出現に驚き、馬の疾走に怯えた。そして更に、彼らを兵士として弱々しく繋いでいたルタゴドスを失った。

 彼らの前方には降り注ぐ矢に倒れた味方の負傷者と、弓を剣に持ち替えたルージ兵たち、後方にはアトラスが率いるルージ兵たち。そして、いつしかルージ軍は千五百の兵を包囲しかけていた。僅か五百の兵で千五百の敵を囲むなど、危険きわまりない体勢だが、もはやルタゴドスの兵の中には命の危険を冒してルージ軍と戦って逃げようとする者も僅かだった。

 ルージ軍の兵士たちが叫ぶ言葉が、恐怖に囚われていた敵兵の間に広まって、剣を捨てて地にひざまづく者が一人、また一人と増えて、ルージ軍と戦っていた者たちは剣と共に戦意を捨てた。

 

「指揮官は何処だ? 指揮官は何処にいる?」

 兵の中に身を潜めるようにいた男が仲間の視線を浴びて、観念したように進み出た。アトラスは、反乱軍の兵士が千人で宮殿を囲んでいる事、討ち取ったルタゴドスが反乱を起こした領主たちのまとめ役だった事、宮殿は固く守られていてまだ落ちる気配はない事など、新たに情報を得た。勝ち目のない戦で、不可思議な勝利を収め続けているように見えるアトラスだが、情報収集に抜かりはなく、兵を動かす最善の方向を掴んでいる。

 

 アトラスは新たな決断を下して、指揮官に言った。

「良いか。この首を持ち帰り、他の反乱首謀者に伝えよ。『投降せよ、命だけは助けてやる。さもなければ、お前たちもこのようになる』と」

 やや間をおいて付け加えた。

「今ひとつ、お前たちの仲間たちに伝えるがいい。『反乱の首謀者の命令に逆らえなかった罪は問わぬ。故郷に戻って暮らすがいい。そして、もしお前たちの手で反乱の首謀者を捕らえてレイトス殿の御前に差し出せば、褒美も与えてやろう』と」

 その言葉が広まって反乱に荷担した領主の耳に届けば、配下の兵士たちに褒美目当てで捕らえられる危険を冒して反乱を継続する事は難しくなるだろう。


 しかし、この時、まだアトラスはレイトスが殺害された事は知らなかった。

追記

アトラスの馬から下る戦い方に疑問を抱かれた方も居られるかも知れません。騎馬兵という言葉を使っていますが、この時代には馬に乗ったまま戦う長剣もなく、馬上で剣を振り回す体を支える、馬の鞍や鐙も装備していません。後世の騎馬部隊のように馬に乗ったまま戦うのではなく、移動にのみ馬を使うという中途半端な部隊という設定です。


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