オルエデス、裏切り者の息子
馬が疲れ切らぬよう、アトラスは焦る気持ちを抑えて騎馬隊を北へ勧めながら、先行させた物見が国境沿いの町から戻るのを待っていた。ヴェスター国の人々は敵も味方もアトラスの騎馬隊の機動力を実感しては居ないだろう。アトラスが加勢に来ると想定していても、常識的にまだパトローサを出発した頃だと考えているに違いない。未だ反乱軍にアトラスの存在を悟られないよう。国境の町でヴェスター国の反乱の状況を調べるのである。
間もなく、物見が戻った。戦慣れした男で任務にそつがない。町外れの森に馬を隠し、ヴェスター国への旅人を装って、町の商人や宿の者たちから的確に情報を集めてきた。
「国境を越えたヴェスター国の関所は、封鎖されて人の出入りを阻んでおります。しかし防護柵で固められるなど戦備えはされて居りません。ただ、役人に加えて兵が三十ばかり駐屯しているようです」
「敵か? 味方か?」
「敵。ルタゴドスの反乱軍のようです」
「ということは、どういえ事だ? 反乱軍が我らの良く手を阻むつもりか」
「ピメルサネ様が傭兵に守られて国境を越えられたとか。そうやって強引に抜け出そうとする者を防ぐため」
こんな報告の状況をアドナは一言で評した。
「大事な事は、まだ戦が終わっていないという事さ」
そう言ったアドナにアトラスたちの驚きの視線が集中した。奴隷上がりで王の護衛を務めるだけと考えていた女性だが、部隊の指揮官としての戦術眼を身につけ、今は大局を考える将軍の能力も身についているらしい。
アトラスはアドナの一言をわかりやすく言った。
「アドナの言うとおり。まだ反乱は収まっては居ない。ピメルサネが言った反乱軍の包囲は続いていて、レイトス殿はその中で防戦中だ」
この時、パトローサを発ってから何度めか分からないほど繰り返される地の揺れが起きて、アトラスたちの不安を煽った。
まだ、レイトスが生きていることは分かったが、物見が町の人々から聞き取ってきた敵の兵力は大きい。民の目撃情報で正確さは欠けるが、包囲する兵は二千人余り。アトラスが率いてきた騎馬兵の四倍の兵力だった。
「反乱を起こしたのはルタゴドスだけではないようですね」
レクナルスの言葉にアトラスは頷いた。領主一人が捻出できる兵など無理をしてかき集めても五百が良いところだろう。反乱軍に二千の兵が居ると言う事は、反乱の首謀者ルタゴドスは、彼の息のかかった領主数名と叛旗を翻したと言う事である。
敵に比べて劣勢。それに気づいたラヌガンが問うた。
「では、我らはどういたしましょう?」
彼はそう質問しながらも、恐れは感じさせない。アトラスと共に何処へでも行くという覚悟がうかがえた。
アトラスは言った。
「まずは悪鬼が、ここに居るぞと教えやるさ。闇の中から沸いて出て関所の兵を襲ってやる」
彼は空を仰いで言葉を続けた。
「さあ、天候が崩れる前に関所で休憩するとしよう。そうすれば、オルエデスのお父上もやってこよう」
空を見上げれば、雨の気配がする。一気に関所を奪えば、その知らせがルタゴドスにも届いて背後を脅かす事を恐れたルタゴドスは兵をよこす。その間に休息を取ろうと言うのである。
アトラスがオルエデスの名を呟いた頃、彼は兵を率いてイドポワの門を抜けて隘路を進んでいた。
「まったく頼りにならぬ奴らめ」
オルエデスは自分への苛立ちも込めて叫んだ。二千の兵を募り、都レニグに戻るつもりだったが、夜が訪れるたびに、徴募した者たちが闇に紛れて逃げ去って、今は総数が千数百になった。大半は戦も知らない農民たちが、突然に連行され槍を持たされ、兵士の数を増やすためだけの存在だった。彼らは新たな支配者に敬意どころか嫌悪感しか持っていない。命を長らえて家族の元に帰ることしか考えない者たちが、逃げ出すのも当然だった。
オルエデスは逃げ遅れた農民兵五百をイドポワの門の中へ追い立てて、背後からオルエデスが率いる六百人ばかりの正規兵がその背後から脅すように進んだ。両側は切り立った崖で、農民兵は逃げる場所もなく、前に進むしかない。
もともと大軍の通行を妨げる狭い道だが、その道も路上に巨大な岩がいくつも転がって、道を塞いでいた。見上げれば崖の上に、最近崩れたらしい土が露出している部分がある。先の地の揺れが崖の上の岩を落としたのだろう。
彼らはそんな岩を乗り越え、道だった崖の隙間の底を歩いた。左右を見上げれば恐怖が湧く。このば゛大きな地の揺れに見舞われて大規模な崖崩れでも起きれば、彼らは逃げる場所もないまま生き埋めになるかも知れなかった。彼らは二度、小さな地の揺れに遭遇して恐怖した。ただ、幸い小石が降ってきただけだった。
その代わり、氷混じりの雨が降り始めた。荒れた地の踏破で火照った体を冷やし、髪から頬へ伝わる雨を舐めて喉の渇きを潤した心地よさもつかの間、衣服に染みこんだ雨は彼らの体温を奪い続けた。
冷たい雨は農民兵も正規兵もオルエデスにも公平に残酷だった。違いがあるとすれば正規兵たちが雨具にもなるマントに身を包んでいたことか。彼らは焚き火で暖を取る事も出来ず、ひたすら歩くしかなかった。雨は音を立てて降り続いた。
この地形を良く知る者は、早朝にこの隘路に入り、夕暮れ前に抜ける。しかし先を急ぐオルエデスは日が中天に差し掛かる頃に突入した。当然、隘路を抜ける前に陽が暮れ夜が更けた。激しくなる雨の中、松明も役に立たず、彼らは灯りのない闇の中を歩いた。手探りで進むような行軍の中、躓いて、足元を手で探れば先に倒れた仲間だったりする。疲労と寒さに倒れる者が出始めていた。やがて倒れた仲間を助けて歩く者も力尽きて倒れ始めた。もはや倒れた者は見捨てて行くしかなかった。
空が明るさを取り戻したのは、夜明けが近いからなのか、雨雲が去ったからなのかどちらだろう。しかし、夜明け前の一日でもっとも冷え込む時間に、さらに多くの者たちが倒れた。
先を歩ませた農民兵たちがようやく隘路を抜け始めたが、広がった視界の中に、彼らが体を温め休める場所は見あたらなかった。彼らの数は既に三百に満たないほどに減っていた。残りの者たちは恨みの声を上げる力もないまま、街道のあちこちに骸を晒して居るだろう。
正規兵の姿も見え始めた。農民兵に比べればましではあったが、疲労困憊して表情を失っているのは同じ。隘路の中で武器も捨て去り、勝手気ままに彷徨い去って行く農民兵を連れ戻す余力はなかった。
隘路を抜けたオルエデスは疲労の中にも愕然とした驚きを見せた。過去に多くの兵を失ったが、一夜の間にこれほどの兵を失った事はない。しかしオルエデスは兵士の命を顧みる事はなかった。
その姿は兵を労るアトラスと対照的に見えるかもしれない。しかし、もしアトラスの目から見ればどうだろう。戦で多くの兵や民の命を犠牲にしてきた自分自身と重ねて考えるかも知れない。アトラスにとってオルエデスという人物の姿は自分自身の半身とも言えた。
オルエデスはそんな事を知る事もなく、雨で濡れてずっしり重くなったマントを脱ぎ捨てた。それを見た兵士たちも次々にマントを捨てた。彼らはマントの重みでさえ苦になるほど疲れ切っていた。凍るほどの寒さの中、彼らの体から湯気が立っていた。マントで雨を防いでも、内に籠もった体温で汗をかく事を妨げる事は出来ず、寒空の下で彼らは汗でびっしょりだった。
あてもなく彷徨う農民兵たちと違って、ヴェスター国出身のオルエデスや正規兵は地理に明るい。この隘路の出口から西へ行けば、村があり、体を休める事が出来る。農民兵たちは寒さから逃れようと、捨てられたマントを拾って身につけた。もはや武器を捨てて兵士とも言えない男たちの中には、正規兵の後に続く者も現れた。体を温める食事や寝床にありつくには、そうするしかない。哀れな幽霊たち行進に見えた。
見上げれば雨は止んだが全天薄曇りで、体を温めてくれる太陽は見えないが、常緑樹の葉先から滴る水滴まで見える明るさになっていた。今は、正規兵たちの衣類の汗も凍り付くほど冷えて、震えていない者は居なかった。そして、正規兵たちは一糸乱れずオルエデスに従っているように見えるが、彼らの心の中は乱れていた。漏れ聞こえる指揮官たちの会話から本国で反乱が起きている事、反乱の首謀者がオルエデスの実父だということ。噂は正規兵の中に密かに広がっていた。
彼らはやっとの事で一つの村にたどり着いた。村の広場で焚き火が大きく燃えさかっていて、オルエデスたちはその暖かさを期待して安堵のため息をついた。
やがて村の中から数人の兵士が現れて、先頭にいたオルエデスに尋ねた。
「お前たちは、何者か」
突然に敗残兵のような兵士たちが現れ、その後方には乞食が幽霊か分からぬ者たちを付き従えている。その身分が問われるのも当然だった。
「馬鹿者。この私を知らぬと言うのか。この国の王レイトスの息子オルエデスぞ。寒い! 早く乾いた衣類を準備せい」
兵士はようやくオルエデスに気づいて驚いて一礼し走り去っていった。その先を見れば幾張りものテントが見えた。この村にいた兵士たちはあのテントで夜を明かしたのだろう。確かに村は小さく兵を収容するに足る家はない。
中央で燃えさかる焚き火は大きくとも全ての兵を暖めるには足りない。オルエデスの兵は家々の軒先に積まれていた薪を奪い、自分たちのための焚き火を燃やし始めた。
「まだか? 遅い」
オルエデスは村にいた兵士たちの対応に苛立ちを感じ始めていた。広場にいくつもの炎が燃え始める頃、オルエデスは自分だけでも温かく乾いた場所に身を移そうと考えた。
部下に広場にいるよう命じた後、彼は一人、広場から燃える一番大きな家に踏み込もうとした。ドア代わりに入り口に下がっている分厚い布をめくって中に入ろうとした時、中から指揮官らしい男が出てきた。ぶつかりそうになった男の肩越しに部屋の中を見たオルエデスは驚いて言った。
「これはどういう事だ?」
部屋の床に敷いた毛布に数十人の負傷者が横たわっていた。腕や頭部に巻いた包帯に滲む血は新鮮で赤い。まるで大きな戦をくぐり抜けてきたようだった。男が答える間もなく、オルエデスはベッドの上に一人の男に目を止めた。その顔はよく知っている。
「ロイテル。あれはロイテルではないか」
男は隠しきれないと覚悟したように言った。
「左様でございます。昨夜、お亡くなりに」
オルエデスは思い当たった。広場の焚き火は死者を静寂の混沌に送る儀式の送り火だった。
「まさか。ロイテルと言えばこの国を支える勇将。そう簡単に死んでたまるものか」
オルエデスがはベッドに駆け寄った。勇猛果敢さを窺わせる表情も今は冷たく青ざめて、凍り付いたように動かなかった。頭部に巻いた包帯から血が滴るほど赤く染まっていた。ヴェスター国を支える勇将の一人が亡くなったというのは間違いがなかった。信じられない光景にオルエデスは質問を繰り返した。
「これはどうした事だ?」
「我らは王の命により、波に飲まれて被災した村々の救援に参りましたが、突然に都から帰還するよう命令を受け、戻る途中、大地が大きく揺れ、大地は我らの目の前で仲間と共に海に沈んで行きました。我らは命からがら脱出しましたが、ロイテル様は負傷されて、ここまでお運びしましたが……」
「我が国の地が海に沈んだと申すのだな」
「はいっ。真理の女神に誓って。真実でございます」
大地が海に沈むというのは余人には信じがたい出来事だが、オルエデスはそれをルージ島で経験し、恐怖と共に記憶に刻んでいる。あの光景がヴェスター国でも繰り返し起き始めていると言う事である。
「早く、レニグに帰らねば、父上が……」
ロイテルの配下の指揮官はふと質問した。
「お父上とは?」
そのさりげない問いに、オルエデスは立場を悟って愕然とした。改めて周囲を見渡せば、ロイテルの兵ばかりかオルエデスが率いていた兵も彼に疑念に満ちた視線を注いでいるように思える。兵士たちはオルエデスを王レイトスに叛旗を翻した裏切り者のルタゴドスの実子として眺めている。




