入り乱れる思惑 ピメルサネが見つけたもの
アトラスが率いる騎馬部隊五百の兵は国境を越えた。
「ここからは敵地も同然です」
馬上から周囲を見回したラヌガンが油断無く言ったのを、アトラスが微笑んで応じた。
「敵地とは?」
この辺りから北は、分割されたシュレーブ国がヴェスター国の版図に入った土地。いわば信頼できる盟友の国内だった。ただ、最近、オスアナに侵入してアトラスを驚かせたオルエデスが管理する土地でもある。アトラスの元を訪れたデルタスの使者によれば、オルエデスは部隊を率いてヴェスター本国に戻ったという。
そんな複雑な事情など意に介さず、アドナが断言した。
「アトラス様に害を為す者は全て敵だ」
アトラスは彼女の単純な忠誠心を愛でて、馬上で朗らかに笑った。
「わかりやすくて良いな」
周囲を見れば突然に現れた武装集団に驚く者たちも多い。目的地に着くまで馬を疲れさせるわけも行かず、駆け続けさせる事も出来ない。
アトラスはデルタスからヴェスター国反乱の知らせを受けるや兵を動かした。デルタスの読み通りだった。ただ、ヴェスター国の都までオルエデスに統治が委ねられた、敵味方の分からぬ土地である。
オルエデスの息がかかった領主たちが兵を挙げてアトラスたちの進路を妨害する可能性も高い。そうすればアトラスたちは、それぞれの領地で戦いつつ、ひたすらヴェスター国の都を目指す行軍になる。
アトラスは長く行動を共にしたギリシャ人部隊を、マリドラスの配下に加えてパトローサの守りにつかせ、パトローサ周辺の守りについていた騎馬兵を伴って出陣した。領主が領地に侵入された事を知って応戦の兵を集めている間に、その領地をすり抜けて行く。その機動力を生かすつもりだった。
何よりその兵は僅か五百だが、三年前にアトラスと共にルージ島を発って以来の強者たちだった。故郷を共有するという点で、ギリシャ人部隊とは違う結びつきがあった。
「三年前、フローイ国に上陸したときのことを想い出します」
スタラススの言葉に、アトラスは自分を教え導いてくれた人物の名を挙げた
「あの頃はサレノスが居た」
その老将も、今は亡くなって、静寂の混沌に戻った。傍らにいたアドにも寂しそうに言った。
「ゴルスス様も」
久しぶりにラヌガンと行動を共にしてみると、懐かしく哀しい記憶が蘇る。ただその人々は勇者として心に刻まれて残っていた。
そして今一人、アトラスと行動を共にし続けたテウススは、先の戦で負った傷の静養でパトローサに残っていた。
ふと、アトラスの心にテウススの言葉が蘇った。
「デルタス様に油断なさいますな」と。
この時、街道をゆく騎馬部隊に、一人の身なりの正しい男が両腕を広げて立ちふさがって言った。
「アトラス様ですな」
男は片腕の将という特徴で、アトラスの人物を確信しているのだろう。
「誰か?」
短く問うアトラスに、男は一礼して言った。
「ゴダルグの領主、ストラタスと申します」
その名を聞いたアトラスは、男に敬意を示すように馬から下りた。
「聞き覚えがある。ピメルサネのお父上だな」
「ピメルサネは我が息子エルグレスの妻にございます」
「その御仁が、私に何の用か」
「ここから先。ソールケ街道を北上しレネン国を経由してヴェスター国に入るおつもりでありましょう」
ストラタスの意図も分からぬまま、アトラスは頷いて正直に答えた。
「その通りだ」
「私は病弱故に同行はかないませんが、配下の者を案内に付けましょう」
「案内だと?」
「この北、ラマリア、イリロス、ラカスロル、コリロス、四つの領地と四人の領主がおります。案内人が領主たちと話を付け、アトラス様ご一行を無事にお通しする手はずです」
「私が来る事をどうして知ったのだ?」
「レネン国のデルタス様からそのような知らせが参りました。おそらく、他の領主にも同様の知らせが……」
「それで、ヴェスター国王の臣下のそなたが、レネン国王デルタス殿の命令に従ったと?」
「いえ。命令ではございません。ヴェスター国で反乱が起きたという状況で、アトラス様がレイトス王の加勢に来る。何をすべきか考えよとの申し入れでございました」
「分かった。先導を頼もう」
ストラタスは申し入れを疑わず素直に受け入れたアトラスの度量に感心しながら言った。
「今ひとつ、お願いがございます」
「何か?」
「我が息子エルグレスの妻、ピメルサネの事」
ストラタスの一言に、アトラスはその先を察して答えた。
「分かっている。そなたにも申し訳ない事をした。ピメルサネをヴェスター国のレイトス殿の元に送ったのはこの私だ。私が責任を持って、彼女がここへ帰れるよう取りはからおう」
アトラスがそんな約束をした日の昼頃、ピメルサネ一行はゴダルグに境を接するラマリアの地にいた。アトラスに事の次第を報告しようと、街道を南へと足を運んで、日暮れには嫁ぎ先の養父の顔を見る事も出来るだろうという位置だった。
「ピメルサネ様。あまり深く思い詰めない方がよろしいかと」
レネン国を発ってからピメルサネの表情が重く言葉も少ない。トステルがそんな彼女を心配して声をかけたのだった。
信頼できる者たちに、彼女は首を横に振って心の底にわだかまっていた本音を吐いた。
「いいえ。アトラス様から夫の死の経緯を聞かされた時、私の心の中には何もなくなった。思い詰めるものさえ残っていません」
彼女は寂しげな笑顔をトステルに向けて、言葉を継いだ。
「それを夫の意志を継いで生きようという思いで満たしました。でも、それも果たせなかった」
いまだ、彼女はヴェスター国で突然に反乱が起きたのは自分のせいだと考えているようだった。トステルはそれを否定した。
「反乱が起きたのはピメルサネ様のせいではざいません」
彼女はその言葉に答えず、記憶を辿って話題を変えた。
「ユマニ様がお亡くなりになった時、死に迷いは無かった。死には愛する人との別れの哀しみは無いということ?」
「私にはよく分かりませぬ。ただ、お話を伺っていれば、ユマニ様はレイトス様を信じておいでです。互いを愛する気持ちは変わらぬと」
「私は夫エルグレスの死で、全てが変わったような気がします」
護衛の指揮官オルガスが微笑んで意外な事を言った。
「ピメルサネさまは記憶しておられませんが、私は元はシュレーブ王ジソー殿に仕えておりました。その頃、一度、宮殿でピメルサネ様をお見かけしたとがございます。あの頃と変わっておられません。デルタス殿が知る春の精霊が変わらぬのと同じ」
しかし、ピメルサネは納得せず首を横に振って言った。
「でも、デルタス様が言った事。私が何かを捨て去り、それに気づいていないと」
この時、突然に彼女に声をかける者が居た。
「ピメルサネ。ピメルサネではないか」
意外な驚きを含んだ声に、ピメルサネも信じられない思い出その人物の名を口にした。
「アトラス様?」
互いに同じ街道を進んでいた二人の再会と別れは短かった。ピメルサネはアトラスに事の次第を話し、アトラスはこれからヴェスター国に向かうつもりだと伝えた。しかし、アトラスには、ヴェスター国に急を要する事態が待ち受けていて、ゆっくり留まって会話を続ける時間はない。ユマニの死を聞いて哀しみを押さえる表情をしただけだった。
「私の大切な人には、心強い護衛もいるようだな。では、この人を無事に送り届けてくれ。頼むぞ」
アトラスはオルガスたちが実戦経験豊富だと見抜いて、オルガスに頭を下げてそう言った。再び馬に跨ったアトラスの背に、ピメルサネは問いかけた。
「アトラス様。アトラス様は大切なものを失った事は?」
意外な問いかけに、アトラスは振り返って首を傾げ、少し考えて自嘲的な笑みを浮かべて答えた。
「考えても見よ。私は悪鬼だ。私が失ったものは数えきれぬ」
アトラスが多くの民から悪鬼と呼ばれ、憎まれ蔑まれている事はピメルサネも知っている。
「どうしてそのような生き方が?」
「私に思いを託した大勢の者たちのために、私には悪鬼の生き方が捨てられぬ。それがアトラス、私だ。しかし、そのような生き方も受け入れて導いてくれる人にも恵まれた」
「エリュティア様ですね」
ピメルサネの言葉に頷いたかどうか分からぬまま、アトラスは背を向け、部下の者たちに出発の合図をすると、アトラス自身を先頭に去っていった。
「さぁ。急げば日暮れ前にはお父上の元に帰れましょう」
トステルの一言で、ピメルサネたちも歩き始めた。早い冬の日暮れに影が長く伸びる頃、ピメルサネたちは町にたどり着いた。しかし、ピメルサネの迷いは晴れないまま表情は暗い。その彼女が、街角に目を止めた。夕刻、露天商が売れ残ったパンを投げ捨てるように与えた先に、その幼い少女と少年が居た。二人の歳は三歳か四歳。二人は地面に転がった一つのパンに駆け寄って、大切なもののように拾い上げ、路地に持ち込んで二人で分け合って食べていた。
薄汚れた外見の中に見せる表情には、ピメルサネも記憶があった。彼女がヴェスター国に赴く時に、この町で出会った幼い者たち。この二人を養っていた幼い兄を、ピメルサネ一行は盗賊として殺した。彼女たちはこの残された者たちを見捨てて去った。
今、ピメルサネの目の前にいるのは、まさしく彼女が見捨てた者たちだった。そしてこの幼い子どもたちを中心に、彼女の心の中で乱れた思いが精錬され結びついていった。この子どもたちの笑顔が見たい。そして彼女も夫との間に、こんな子どもを授かって親子共々笑顔で暮らす人生があったのかも知れない。
彼女は二人に歩み寄り、しゃがんで両腕を広げて二人を抱いた。そして、心から礼を言った。
「生きていてくれたのね。ありがとう」
生きている。ただそれだけで価値があると思った。思いもかけない出来事に戸惑う二人も、久しぶりに受けた抱擁を受け入れて、ピメルサネの顔を見上げるように眺めた。この時、アトラスがアトラスだと名乗った事を思い起こした。アトラスはアトラス。今の彼女は、他の誰でもなく、ピメルサネだった。
彼女は微笑んで子どもたちに言った。
「私はピメルサネ。あなたたちのお母さんになる女よ」
たぶん、こうやって、人は人として、それぞれの人生を歩み、結ばれ、溶け合う。彼女が他の誰でもない、自分自身の人生を歩み始めようとした瞬間だった。




