受け継ぐ思いと失ったもの
ユマニとピメルサネは突然に思いもかけなかった状況に追い込まれた。彼女たちの周りは敵意を露わにする十数人の兵士たちと、味方とは言えない使者と御者だけ。
「ユマニ様」
ピメルサネは王妃の名を呼んで懐に秘めていた短剣を取り出して馬車を降りようとした。かなわずとも敵兵から王妃を守るつもりだった。しかし、使者が素早く彼女の手首を掴んで短剣を奪い、振り返った御者が彼女を背後から羽交い締めにして馬車に留めた。
使者は興奮するピメルサネに怒鳴るほどの声で言い聞かせた。
「奴らが用があるのは王妃だけだ。お前は邪魔をするな」
その声は兵士に囲まれているユマニにも届いている。なんとか生き延びてピメルサネを無事に逃がさねばならないという義務感が崩れ去った。今のユマニは自分の身柄の事だけ考えていればいい。
包囲の輪を縮める兵士たちにユマニが言った。
「近寄ると、死を選びます」
ユマニは短剣の切っ先を自分の首筋に当てた。敵にとって、自分が死体になれば人質としての利用価値はなくなるということである。人質として敵に惨めな姿を晒すばかりではなく、愛する夫の判断を誤らせる事になるのは耐えられない。
しかし、未熟な兵とその指揮官は、高貴な者の誇りも、愛する者を思う女性の愛も、死の恐怖を超越している事を理解していない。
兵士の指揮官は怒鳴るように命じた。
「ええいっ。面倒だ。一気に押し倒して捕らえろ」
この状況に、ユマニは思いを定めて叫ぶように言った。
「ピメルサネ。あとは頼みます」
それが王妃ユマニの最後の言葉だった。夫のため、国のためのデルタスへの加勢の申し入れをピメルサネに託した。地に倒れて動かなくなったユマニの体を囲んだ兵士たちが信じられないように声を上げた。
「この女。本当に死にやがった」
その言葉にピメルサネは悲鳴を上げ、背後の御者の手をふりほどいて馬車を降り、ユマニに駆け寄った。冷たい大気の中で冷えたピメルサネの手が、ユマニの血で赤く温かく染まった。
「どうして?」
ピメルサネが呟いたのは、死を選んだユマニの表情に悔いはなかったことだろうか。
兵士たちにとって状況は大きく変わったが、捕らえるべき人質を失った今、上官に任務の失敗を言い訳するのに、この若い女を連行するのが都合が良い。指揮官の目がずる賢く光ってピメルサネに向いた。
この時、突然に駆けつけた別の武装集団の声が響いた。
「待て。そのお方をお放ししろ」
オルガスが剣の束に手をかけて叫んだ言葉だった。馬車に乗ったピメルサネが連れ去られるのを見て、追ってきたのである。血なまぐさい実戦をくぐり抜けてきたオルガスの戦術眼は確かで、敵の指揮官が状況を飲み込めず慌てふためくところを切り捨てた。他の護衛が二人の兵士をいともなく切り捨てるのを見た敵の兵士は恐怖に取り憑かれて逃げ始めた。
オルガスたちは逃げる兵士を追わなかった。この場でピメルサネを連れ去る無理を察した使者も御者に命じて馬を飛ばして逃げ去った。
ややあって、息を切らしたトステルが追いついてきて、周囲の光景をながめ、状況を察したようにピメルサに尋ねた。
「これからいかがされるおつもりで?」
「宮殿に戻って、レイトス様に事の次第をお伝えしなければ」
「それは無理です」
オルガスは宮殿の方向を指さした。煙が立ち上り戦が始まっているのがわかる。いかに
戦いに慣れた傭兵でも、敵の囲みを破ってピメルサネを宮殿に送り込む事は出来ない。
「それでは、デルタス様の元へ。ユマニ様に代わってレイトス様への加勢をお願いしなければ」
「では、急ぎましょう」
出発を急かすオルガスに、ピルサネが言った。
「ユマニ様のご遺体を」
宮殿へ運べないなら葬らねばならないという。しかし、トステルは首を横に振った。
「ゆっくりと葬っている暇はありません。逃げた奴らが追っ手をかけてくるでしょう。遺体は木陰に移しておきましょう」
その提案を受け入れがたいという雰囲気を漂わすピメルサネに、トステルが言葉を継いだ。
「亡くなった王妃様なら、ピメルサネ様が無事に逃げ延びる事を望むはずですぞ」
ピメルサネはようやく頷いて、ユマニの意志を継ぐと言うように、彼女が持っていた護身用短剣の血を丁寧に拭って鞘にしまい懐に抱いた。
オルガスが短く言った。
「さぁ、早く。追っ手がかかるまでに国境の関所を抜けましょう」
早足の旅。しかし、ピメルサネの悲痛な沈黙が続いた。トステルが今までの出来事を整理するように、これから面会する人物の事を言った。
「しかし、デルタス様を信用しすぎない方が良いのやもしれません」
「どうしてですか?」
「何故、デルタス様は我らがヴェスター国にはいる時、都から離れた国境の町におられたのでしょう」
「それは、デルタス様も仰っていました。町の検分に来たと」
「本当でしょうか。もしヴェスター国で叛乱が起きる事を知っていて、国境に近いあそこにおられたのなら……」
世間の人々の駆け引きに慣れた商人トステルの言葉には重みがあった。言われてみれば、ピメルサネにも疑問が湧く。
「まさか、デルタス様が」
「それに、ピメルサネ様が王宮について間もなく、レネン国からの使者が王宮に着いて、御母堂とお后、ピメルサネ様を脱出させる手はずをしていたとか。手はずが良すぎると思いませぬか」
トステルの言葉に首を傾げたピメルサネに、戦術に長けたオルガスが言った。
「もし、国境の町に居られて、ヴェスター国の都で起きた叛乱の知らせを知るのは早くとも一日後、その状況を探るのに一日。包囲された知らせを受けるのに更に一日、使者を出すのに一日。三日はかかるでしょう。ところがデルタス様は一日で使者を出されている。予め叛乱が起きる事を知っていなければ難しい」
「ではどうすればいいのです?」
「もし、叛乱にデルタス様が関与しているなら、加勢はしてくだりさりますまい」
トステルが言ったのはデルタスと面会しても無駄かも知れないと言う事である。
この日の夕刻。関所を無事に抜けられるかどうか不安は募っていたが、関所に常駐する兵士は反乱に狩り出されたようで居らず、僅かに残った役人たちも混乱の中にあった。噂を聞きつけて戦火を避けて脱出しようとする者たちが後を絶たず、役人たちもそんな人々の詮議をしている暇はなかったのである。ピメルサネたちは無事に関所を越えた。
ここはレネン国内。ヴェスター国の追っ手の手は届かないはずだった。トステルは国境の町でピメルサネのために一夜の宿を手配した。
明くる朝、ピメルサネは誰より早く起きて出発の準備を整えた。この町の南へ半日の距離にもう一つのヴェスター国との国境の町がある。元はシュレーブ国だった土地との国境で、今はその国も分割されてヴェスター国の版図に入った。ピメルサネがデルタスと再会したセキュタルの町である。
彼女は歩きながら呟き続けていた。
「人の命はそれほど軽いものなの?」
兵士たちに囲まれて、迷わず死を選んだユマニの事である。迷いも後悔も感じさせない彼女の死が理解できないまま心にわだかまっていた。
日が中天を過ぎる頃その二つ目の国境の町セキュタルが見えてきた。この町で街道は二方向に分かれて南へ行く道はソールケ街道と呼ばれて聖都へ至る。北西に向かう道を辿ればレネン国の都ガルタルに着く。都に戻っているデルタスを追って、ガルタルに向かう予定だった。
しかし、セキュタルの町に入ってみると、その喧噪の中、笑顔の民の輪の中に、デルタスが民に混じって筵を敷いた地面にあぐらをかいて座って居た。王とは信じられぬほどの気さくさで民に溶け込みつつ、一方で民にない存在感だった。
デルタスは女や子どもにまで優しげな笑顔を振りまきながら、油断亡く周囲を眺めていた。その視線がピメルサネ一行を捕らえた。
「おおっ。コモラミアの春の精ではないか。ヴェスター国で叛乱が起きたと聞いて心配しておったのだぞ」
優しげな言葉にピメルサネは冷たささえ感じさせる固い表情で言った。
「デルタス様」
「何かな?」
深刻な話題になりそうな気配を察したデルタスは筵から立ち上がり、民に手を振ってお前たちとの世間話もこれまでだと告げた。彼は立ち去る民やピメルサネたちに背を向けるようゆっくりと歩き始めた。ピメルサネは彼の後を追いながら声をかけた。
「ヴェスター国で叛乱が起きる事、知っておられたのですか」
あまりに素直な質問だった。ただ、彼女は幼い頃からデルタスが心に秘めたものの一端に気づいていた。人当たりの良い笑顔で本音を固く閉ざして他人に見せない。しかし、こちらが本音を包み隠さず接すれば、デルタスもまた本音を返す。彼が人生の中で身につけた哀しい習性だったのかも知れない。
デルタスは人気のない木陰に立ち止まって振り返った。
「コモラミアの春の精は、何もかもお見通しなのかな」
彼はそんな言い方で叛乱が起きる事を知っていたことを否定しなかった。ピメルサネは非難の口調を隠さず言った。
「私はユマニ様に宮殿を出てデルタス様に身を預けようと説得し、ユマニ様もそれを聞き入れてくださいました。しかし、お亡くなりに。私がユマニ様を死に追いやったのと同じ。デルタス様は私にその死の片棒を担がせた」
彼女が語るのは、反乱の影にデルタスが居るだろうと言う事である。デルタスは静かに言ったる
「今はただ、命を長らえた事を、寿命の神か運命の神、そなたが信じる神に感謝を捧げるがいい」
「神に祈るなら、私は審判の神に祈りとうございます」
トステルとオルガスはそんな言葉を背筋が寒くなる思いで聞いた。彼女は正と邪を審判する神に、目の前の王が裁かれると良いと語ったのである。しかし、彼女は心に秘めた言葉を素直に吐き出した後、背負った責任を果たすよう、デルタスの前に片膝をついて頭を垂れて言った。
「でも、今の私はユマニ様の思いを引き継ぎたいと存じます。忠誠の神とデルタス様のご慈悲にすがって、レイトス様へ加勢の兵を出していただけませぬか」
デルタスは彼女の誠実な姿勢に、妹を見守るような微笑みを自虐的な笑みに変えて肩をすくめて言った。
「春の精霊は、私が反乱を起こしたと責めたかと思うと、今度は兵を出して戦火を盛り上げろと言う。はてさて、どうしたものか」
「レイトスさまへの加勢は、ユマニ様の死を賭した願い。それでもかなわぬと?」
「できぬ。反乱はヴェスター国の事。他人の私が介入し、ヴェスター国の命運を左右するなど許されまい」
「今の私は、ユマニ様と思いを同じくしています。もし、願いが叶えられなければ亡くなられたユマニ様がどれ程悲しむか。そのユマニ様を失ったレイトス様がどれ程嘆かれるか、心が痛みます」
「レイトス殿か。思いを同じにすると言うなら、レイトス殿も私と同じ、愛する家族を失った哀しみを感じる事になるだろうよ」
まるでレイトスが手を下してデルタスの愛する家族を奪ったかのような言い方だった。
「どういう事ですか?」
「それは、アトラス殿に尋ねてみる事だ」
彼はレイトスばかりか、アトラスも共犯であるかのように言った。デルタスがレイトスに加勢するつもりはないのは明らかだった。彼女はそれを悟って静かに立ち上がって言った。
「考えを変えない頑固さも昔のまま。では、私はこれで失礼いたします」
「好きにするが良い。しかし、アトラス殿の元へ帰るなら、早く帰る事だ」
「どういうことでしょう」
「叛乱を知ったお二方、オルエデス殿が実父ルタゴドスの加勢に駆けつけよう。そして、アトラス殿も叔父レイトス殿の加勢に。祭りの炎は大きく燃えさかる」
「祭りですって。大勢の人が死ぬのに」
「人は誰でも死ねば、静寂の混沌で一つに溶け合うという。このアトランティスでの出来事など、永遠に続く調和の前の祭りのようなもの。祭りが終われば一抹の寂しさと共に全て忘れ去られる」
「私は、忘れません。夫を失った哀しみも、いつしか薄れましたが、愛した夫の面影は残っていて私を導いてくれます」
「それは困った事だ。愛が残るというなら、憎しみもまた残るだろう。私は愛する家族の死が生み出した憎しみによって導かれ続ける事になる」
「哀しい方……」
哀れむように言ったピメルサネに、デルタスは微笑んで答えた。
「哀しいというなら、そなたも同じ。ここまで来て何を成し遂げたのだ? 王妃の死を目撃しただけではないか」
きつい言葉も、デルタスは優しく締めくくった。
「愛しい人を失った哀しみ。人の世界のもの全てに捨て去って良いものだろうか。そなたが見捨てたものをもう一度探してみる事だ」
そういう言葉は昔と変わらず、親しい兄の言葉のようだった。
「私が何かを失ってしまったと?」
思いもかけない指摘に、ピメルサネは混乱し苛立ちも生んだ。しかし、何かその言葉に同調する意識もある。




