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破滅の予兆

 アトラスは奴隷の身分だったギリシャ人たちに自由を約束して命を差し出させて兵士にした。自由を与えるだけでは駄目だろう。土地や仕事も与えてやらねばならない。

 土地を与えるとすれば、今のアトラスの自由になるのは、戦いの後、彼の直轄地となったシュレーブの地である。ただし、当然のことながら古くから住む住人たちが居る。新たに移住するギリシャ人たちと古い住人たちにいさかいが起きぬように取りはからわねばならない。アトラスはその入植地を探すようにラヌガンに命じて旧王都パトローサへ帰していた。

 

 彼は陣にギリシャ兵を整列させて言った。

「約束通り、戦功に応じて土地を与える。土地を望まぬ者には相当する財貨を銀で与えよう」

 アトラスの言葉にギリシャ兵たちの喚声が上がった。自由を約束されて戦に加わっていたが、戦の勝利を収め、権力の基盤を固めた今、王は約束を反故にする事も出来たかも知れない。彼らが密かに恐れていた事だが、アトラスは約束を守るという。

「出立は明日だ。移動の準備を怠るな」

 アトラスは兵士たちにそう命じて、ギリシャ兵の指揮官に視線を転じて言った。

「クセノフォン。あとは任せたぞ」

 そう言い終わる前に、アトラスはクセノフォンに背を向けて、彼が寝起きしている天幕の中へと姿を消した。兵士たちと喜びを分かち合う事も、兵士の感謝を受ける事も拒否するような雰囲気が漂っていて、クセノフォンも感謝の言葉を口にしそびれた。彼はただ右の拳を胸に当てて感謝と敬意を込めて一礼しただけだった。


 アトラスは出発前に、妻をここに残して行く言い訳をしなければならないと考えていた。しかし、その決断はずるずると伸びて出発の前になった。出発の準備が整いかけているギリシャ兵たちを眺めながら、アトラスは近習たちと護衛のアドナを伴って聖都シリャードの中のシュレーブ王の館を訪れた。

 対応に出てきた侍女ユリスラナがアトラスに向ける視線が冷ややかだった。その理由は理解できる。自由と土地を与えると聞いて喜んだギリシャ人たちは、聖都シリャードの中で、王と共に旧王都パトローサへ赴く事を吹聴した。館の出入りの商人などを通じて自然に、館の者たちにも耳に入る。王妃を旅に同行させるなら、前もって準備させておく必要があるはずだが、それがない。ユリスラナの冷たい視線には、王が王妃をうち捨てていくのかという非難がこもっていたのである。

(これは、エリュティアにも謝罪せねばならぬか)

 アトラスはエリュティアが居る庭園の東屋に案内されながらそんな事を考えていた。しかし、アトラスの訪問を知ったエリュティアは長椅子の上でよろりと半身を起こして謝罪した。

「本来なら私も同行せねばならないところですが」

 他の誰より良く旧王都パトローサを知る自分が同行して案内しなければならないのにそれが出来ないという。アトラスは謝罪の言葉を口にしそこねて、言い訳の言葉を吐いた。

「そなたの生まれ故郷。私もそなたと共に眺めたいのだが、この先、ルージへの旅が待っている。今はここで静養してくれ」

 アトラスの言葉にエリュティアは寂しげに微笑んだ。

「今の私にはそれしかできませんものね」

「ルージでは、私の母も私とそなたが帰るのを待っている」

「私は幼い頃に母を失って、母の顔すら覚えておりません。その私に母が出来たのですから、お会いできるのが楽しみです」

 エリュティアの口から母と言う言葉を聞いた時、アトラスの心の中でエリュティアが母の姿と重なった。彼が幼い頃から眺め続けた夫の愛が得られずに嘆く女の姿だった。今のアトラスはあの頃、尊敬しつつ嫌悪もした父の立場にいる。

 彼は複雑な心境を隠して作り笑いで言った。

「すぐに戻る。体を労って養生してくれ。ここからルージまでは十日もかかる旅になる」

 聖都シリャードから西にある旧王都パトローサで用を済ませた後、この地に戻ってエリュティアと共にルージ島へ行くつもりで居る。ここから川船でルードン河を下り、河口で船を乗り換え、波の静かな湾を渡り、波が荒く潮の流れも速い外洋を渡って行く。今のエリュティアの体力で耐えられる旅ではない。彼女には少しでも体力を回復しておいてもらわねばならない。


 慌ただしく立ち去るアトラスを、エリュティアは侍女のユリスラナに支えられながら見送った。

「いいのですか?」

 ユリスラナはエリュティアに、ここに置き去りにされても良いのかという。歩くのが無理でも、馬車に揺られていく事も出来るかも知れない。船でルードン河を遡っても良い。アトラスを旧王都パトローサまで追う方法はあるはずだった。しかし、エリュティアは首を力なく振って寂しげに言った。

「良いのです。私はこの病弱な身。あの方の足手まといになってはいけません」

 この時、ユリスラナはエリュティアが愛する夫と距離を置いている理由を知った。今の自分は愛する人の足手まといになるだけの存在だと考えている。


 出発の二日目の朝、前方には目的地のパトローサの町が見えていた。アトラスが振り返れば、背後に距離を隔てた聖都シリャードは、肥沃な大平原の地平の彼方にかすんでいた。そんな光景を眺めたアトラスの表情に陰りがあった。

 気づいたアドナが言った。

「良かったのかい?」

 近習たちはその短い言葉の意味を察した。ギリシャ兵たちの移動だけなら、その指揮官クセノフォンに命じればすむはずだった。しかし、病弱な王妃を聖都シリャードに残して、旧王都パトローサに向かう判断に、後悔はないのかと問うているのである。

 アトラスは再び視線を西へ向けて言った。

「私の贖罪の旅に、エリュティアは不要」

 贖罪と言う言葉で、アドナや近習は理解した。アトラスは人々からの嫌悪や憎しみの視線を受け入れ続けてきた。三年間の戦乱で起きた多くの悲劇を一人で背負うつもりでいる。彼にとって、人々の哀しみや憎しみをエリュティアに背負わせるなど論外だった。


 この時、前方から兵士が馬で駆けてきた。アトランティスの大地で伝令が馬を使うのはルージ国ぐらいのものだ。その姿が明らかになってくるや、ルージ風の出で立ちで、旧王都パトローサにいるラヌガンからの使者だと知れた。伝令は驚くべき報せをもたらした。

 四日前、今は分割されてフローイ国とグラト国になった旧ゲルト国で、大きく地が揺れたかと思うとその南西部の大地が割れて、沖合から押し寄せた波に飲まれた。波が流れ去った後にはその大地が海に変わったという。被害の全貌ぜんぼうは未だ不明だが、南西部の大地の一部が、そこ住む人々と共に失われたのは間違いないという。

「四日前と言えば、聖都シリャードの地が揺れた時か?」

 アトラスはエリュティアと面会していた時の事かと問い、テウススは頷いた

「そのようです」

 頷き会う近習たちにアトラスは返事ともため息とも付かぬ呟きを漏らした。

「ハッシュラスの呪いか、冥界のエトンの仕業か」

 旧グラト国南西部と言えば、先の戦で虐殺があった場所。その先王の呪いを受けたのか、邪悪な神の仕業かどちらだろうと首を傾げている。ただ、その実感が淡い。この時のアトラスは、海に沈むという運命が自分たちにも降りかかってくるとは思いも寄らなかった。



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