謀略の嵐
レイトスは、最近見せた事のない素直な笑顔で侍従に命じた。
「おおっ。ピメルサネが? すぐにここへ通せ」
王妃ユマニはそんな夫の表情を眺め、子どもを授かる事が出来なかった自分自身を寂しく思った。夫がアトラスに向ける視線には息子を眺める父親のような包容力が漂っていたし、侍従に案内されて姿を見せたピメルサネを眺めるレイトスの表情は、遠方に嫁いでいた実の娘の里帰りを待つ父親の笑顔だった。
「久しぶりだの。いつの間にか、美しさに磨きがかかったようだ」
レイトスは半ば驚きを込めてそう言い、ユマニとレイケもまた同意して頷いた。レイトスは彼女の面立ちに懐かしさを覚えながらも、彼女を包む雰囲気の変貌が理解できずに首を傾げた。
三年前に、彼女は幼い頃から思いを寄せていた青年と結ばれた。しかしその幸福の絶頂で、運命に引き裂かれた。生死不明の夫の消息を探し求めた後、その最後を知り、哀しい運命を受け入れた。今の彼女はその哀しみを乗り越えて、夫の意志を継ぐ人間になろうとしている。レイトスを驚かせたのは、彼女が運命を背負っている事だったろう。
彼女はそんな運命を飲み込んで、静かに一礼して笑顔を浮かべて言った。
「お久しゅうございます」
「紹介が遅れたの。こちらが私の母レイケ、そしてこちらは私の妻ユマニだ」
「御母堂様とお后様には、お初にお目にかかります。ゴダルグの地をお預かりする領主ストラタスの長男、エルグレスの妻ピメルサネでございます。お見知りおきくださいませ」
レイケとユマニは、彼女の優美な一礼と礼儀正しい物言いを愛でるように微笑んだ。ただ、ピメルサネは二人から視線を逸らしてレイトスに言った。
「失礼ながら、ルージ国王アトラス様からのご伝言を承って参りました。お人払いを」
訪問者の口から出た意外な人物の名に驚きながらも、東屋にいた三人は、ピメルサネが懐から取り出したものの意味を理解した。
「ルージ国の王の言葉……」
ルージ国の王の紋章がついたメダル。レイケにとって愛しい孫アトラスの持ち物である。そして、アトラスがそのメダルを託した彼女が語る事は、アトラスが語るのと同じ重さを持ち、アトラスは彼女を信頼しているという証拠でもある。
レイトスは事の重大さを受け入れながらも、彼の心痛を察する母や妻を追い払うことは躊躇した。
「そなたも良く知っての通り、私はアトラスの叔父である。こちらの二人はアトラスの祖母であり、叔母である。ここにいる者は、全てアトラスの身内である。身内に遠慮は不要である」
その言葉にピメルサネは意を決して語った。
「アトラス王からのお言づてでございます。オルエデス様が新たな領地で兵を集めて、ルージ国のオスアナに侵攻されました」
東屋にいた三人はその言葉に凍り付くように言葉を失った。レイトスがようやく言葉を絞り出した。
「やっと戦も終わったというのに、オルエデスめ、新たな戦を始めおったのか……。それで、アトラスはいかがした?」
「アトラス王はオスアナに増援を送って反撃をお命じになりました。もう一方、オルエデス様の退却を誘うために、別の部隊をリマルダからラマカリナへと派遣なさいました」
背後を脅かされたと知れば、オルエデスも兵を退く。レイトスはその戦術の正しさと、即座にそれを行動に移した事を褒めた。
「さすがは、我が甥よ」
「双方の兵が血を流しましたが、もとよりアトラス様は戦を避けただけの事。その証拠に、ラマカリナに入ったルージ軍も今は帰還しております」
「もう、オルエデスには国を任せてはおけぬ」
それがレイトスの決断だった。彼はピメルサネに向き直って言葉を続けた。
「ピメルサネよ。急ぎヴェスター国を離れ、アトラス王の元へ。『用件は承った。審判の神に誓って。アトラス王の決断に感謝と賞賛を捧げると』」
彼は少し考えて、左手の中指にはめていた指輪を抜き取ってピメルサネに託した。
「これを王の言葉の代わりに持参し、アトラスに渡してもらいたい」
ヴェスター国王の地位を証明する品で、それを託したと言う事は、アトラスに国を任せると決断したに等しい。
ここから先は血なまぐさい権力闘争の話題になる。それを察した王母レイケは椅子から立ち上がり、ピメルサネの手を曳いて居室に誘った。
「後は殿御のお話。私たちは席を変えましょう。向こうの部屋でアトラスの近況など教えておくれ」
レイケはレイトスを振り返って、ピメルサネの応対は任せて、自分がすべき事をしなさいと目配せした。
ピメルサネが言った。
「でも、私の案内人が宿で私の帰りを待っています」
「もう、陽が暮れます。宿に帰っても、出立は明日の朝でしょう。夕食と湯浴みの支度をさせますから、今夜は王宮に泊まっていらっしゃい。私にも貴女の話を聞かせて頂戴」
そんな王妃ユマニの説得を受け入れて、ピメルサネが頷いた時、騒動が起きた。侍従の一人が火災の発生を告げに来たのである。宮殿で人々の食事をまかなう厨房から出火したという。
「大丈夫。すぐに消し止められるでしょう。早く部屋で寛ぎましょう」
侍従が語る火災は小規模だし、何より彼女たちの居室は王宮の中でも厨房室とは反対の安全な位置にある。レイケの居室で寛いで世間話をしている内に、火災もすぐに消火されるだろうという。
同じ頃、宮殿の中のルタゴドスの執務室では、ルタゴドスが声が外に漏れないよう気づかいながらも、部下を激しく叱咤していた。
「ええいっ。デルタス王は何をしている? 使いを出せ。もう一度出せ」
既に隣国の王に使いに出した部下が王デルタスと面会を果たしているはずだが、デルタス王率いるレネン軍は国境に張り付いたまま動く気配がない。
彼の実子オルエデスは、数々の失態を繰り返してレイトスを失望させている。レイトスがオルエデスを養子に迎えたとは言え、まだ王位を継がせると宣言した訳ではなく、このままでは別の者を王位に就けると言い出しかねない。レイトスがそう言ったとたん、世継ぎの実父というルタゴドスの権威を裏付けるものは消滅する。彼はその消滅前に動こうとした。
彼の謀略は、国内ばかりか隣国にも及んでいた。もちろん、叛乱を起こして王位を奪うなどとは言えないが、それとなく使いを出してレネン国の王位に就いたばかりのデルタスに接近を図った。ルタゴドスの見たところ両者の関係は良好で、デルタスはルタゴドスを支持し、叛乱の時にはその支援もするとまで言った。
実際に、今、デルタスは両国の国境に兵力を集めている。ルタゴドスの決起に呼応してヴェスターへ攻め込めば、一日と経ずにその兵で都を囲む事も出来るかも知れない。しかし、この期に及んでデルタスは何故か動こうとしないと不満を募らせていたのである。
その同じ頃、国境沿いの町でデルタスに叛乱の加勢を求めるルタゴドスの使者は、デルタスと面会が既に二日に及んでいた。使者は主人が求める色よい返答が得られず、ずるずると時間を引き延ばされているだけという苛立ちも感じていた。
デルタスは相変わらず、のらりくらりと言葉をいじっていた。
「使者殿は勘違いしているのではないか。私は叛乱で手を汚すとは申しては居らぬ。誰がヴェスター国王であれ、協力は惜しまぬと申しただけ」
「しかし、陛下は時が来れば加勢すると仰った。そして、今、兵をこの国境に進めておられるのでしょう」
「馬鹿な事を。家臣が王位を狙う戦に、この私が荷担できようか」
「しかし、陛下はルタゴドス殿に助力すると申されたのではありませぬか」
「ルタゴドスがヴェスター国の王ならば、内乱を治めるのにご協力させていただくのもやぶさかではないと言う事だ」
使者はデルタスの回りくどい言い回しを読み解いて尋ねた。
「では、早急にレイトスを討ち取ば、その王位は世継ぎのオルエデス様の物。しかし、我らに刃向かう者どももいるはず。その時には力をお貸し願えましょうや」
ルタゴドスの兵でレイトスを討ち取ったとしても、まだ王に忠実なメノトルたちの兵が残っている。その兵を除くために加勢が欲しいという。しかし、デルタスはレイトスを殺害する事に関わる事について言及を避けた。
「レイトス殿を討ち取るかどうかではない。一つの国に二人の王は要るまいよ。その一人の王には、及ばずながらご協力申し上げよう」
「分かり申した。その言葉、主人にお伝えいたします」
「そなたの仕える主人とは、誰かな?」
デルタスはそんな皮肉な言葉で、腹立たしさを隠さず帰途についた使者を見送った。
そしてまた、同じ頃。火災が起きていたヴェスター国の王宮に舞台が戻る。
ルタゴドスが自らの地位と権威を確立する謀略を知り巡らせた謀略は、上は重臣から、下は王の世話をする従者、そして厨房の調理人にも及んでいた。
そんな者たちも、王とルタゴドスの険悪化した雰囲気は敏感に感じ取りながら、自分が果たすべき役割に神経を研ぎ澄ませ、大きな心の負担も感じている。一つ間違えば、自分ばかりか家族まで反逆の罪を問われて死を免れない。
ルタゴドスが幾重にも張り巡らした謀略と、その犠牲になった者たちの心痛が、厨房の火災で暴走した。
もともと、宮殿に火をかけて混乱を引き起こすというのは、ルタゴドスの謀略の一欠片だった。陰謀の片棒を担ぐ者たちは、偶然の火災をルタゴドスの命令と勘違いし、無人の倉庫や馬屋の藁束などあちこちに火を付けて回った。宮殿に幾筋もの煙が上がった。
それを行動を開始する合図と信じたルタゴドスの兵が、喚声を上げて都になだれ込んできた。ルタゴドスはこの期に及んで事を留める術はなかった。叛乱が誰も望まぬ機会に始まった。
同じ頃、ピメルサネをヴェスター国の都レニグまで護衛してきたトステルとオルガスたち護衛の者は、旅の商人たちが利用する安宿でピメルサネが戻るのを待っていた。
おそらく、異変に気づいたのは、宮殿の中の人々より彼らの方が早かっただろう。屋外の喧噪を感じ取って探りに行ったオルガスが戻って告げた。
「トステル殿。街道に兵が」
「どういうことだ?」
「都の衛兵ではない。完全武装で殺気まで感じます。何者かの叛乱やもしれません」
暴動でも起きて兵を鎮圧に向かわせるなら衛兵だろう。衛兵でもない兵が都に乱入しているなら都に叛乱が起きていると言う事である。
トステルは即座に決断した。
「もう、ここに留まるのは危険。まずはピメルサネ様のお戻りを待って、早急に出立しよう」
「それでは、準備を整えます」
オルガスはそう言ったが、用意周到な男で既に部下を帰途の街道の様子を探らせに送っている。この都からパトローサに戻る道筋はふたつ。来た時と同様に西のレネン国を通過して帰るか、イドポワ街道と呼ばれる山岳地帯の隘路を抜けて南へと移動するか。
しかし、戻った部下は二人をひやりとさせる報告をもたらした。その両方の街道が反乱軍兵士によって封鎖されているという。都にいる者たちは出口を塞がれていた。




