コモラミアの春の精(カワラネ)
一行は旅の予定の四日から遅れて、五日目の昼過ぎにレネン国国境にたどり着いた。その行程で数回の地の揺れに遭遇していたが、ピメルサネばかりではなく、アトランティスの人々は足下が揺らぐ程度の揺れは日常の出来事として受けいるようになっていた。
繰り返される地の揺れにも関わらず、一行の人々の間に安堵の表情が浮かんだ。
「ここまでたどり着けば、一安心」
トステルの言葉に一行の者たちは頷いた。レネン国が良く治められていて治安が良いというのは噂だけではなかった。国境に近い町セキュタルには活気があり、露天商も陽気な売り声をあげ、街道を行き交う人々の表情にも陰りがない。ただアトラスから密命を受けた身の上では、ここは他国で気を抜く事が出来ない。
そう、気を引き締めるピメルサネの姿に気づいて声をかけてきた者が居た。
「コモラミアの春の精ではないか」
ピメルサネには懐かしい呼び名だった。彼女をその名で呼ぶ者は一人だけである。彼女は振り返ると思わず懐かしげな笑顔を浮かべて男の名を呼んだ。
「デルタス」
彼女はそう言って勘違いに気づいて、頭を垂れて言い直した
「デルタス様」
元は冗談を交わし合う相手だったが、今のデルタスは一国の王である。トステルとオルガスは行き交う者たちが男に示す敬意を重ね合わせて、気さくな笑顔を浮かべる男の身分を察して、地に片膝をついて頭を垂れて敬意を表した。
デルタスは微笑みながらピメルサネと男たちとの関係を尋ねた。
「この者たちは?」
「私と旅を共にしている友人です」
彼女の説明に、デルタスはトステルらに視線を向けて声をかけた。
「では、その友人たちも立つがよい。コモラミアの春の精の友人となれば、我が友人も同じ」
「お変わりはありませんね」
ピメルサネはデルタスの気さくさを評した。見れば大勢の供を伴う事もなく、気さくに町を散策している姿で、行き交う人々もデルタスに気づいても敬愛の眼差しは示しても恐れる様子はない。
彼は、国境の町を検分に来たところだと用件を明かした後、ピメルサネにも尋ねた。
「それで。ここには何用で? 春の精が姿を見せるには、未だ季節には間がある」
トステルは思わずぎくりとした。ピメルサネの正体を知るデルタスに、用意していた嘘は通用しない。彼女がアトラスの使者だという事が、他国の王に漏れれば不都合な事も起きるかも知れない。親しい関係らしいが、親しさ故、彼女が隠しておかねばならない事実を漏らしてしまうかも知れないと危惧した。
事実、彼女ははっきりと行く先を告げた。
「はい。ヴェスター国のレイトス様もとに、急ぎ参ります」
その行く先を聞いた瞬間、デルタスの人の良さそうな笑顔の中で眉がピクリと動いた。ピメルサネは話しを続けた。
「私は幼い頃からレイトス様には懇意にしていただいています。我が養父の領地ゴダルグも今はレイトス様の支配下となりました。しかし、デルタス様もご存じの通り、戦で荒れ果て、民は生活に困窮しております。ここはヴェスター国王レイトス様のお慈悲にすがり、税と労役の減免をお願いしようと、荷車に貢ぎ物を積んで参りました」
彼女はアトラスの使者という本当の任務を、別の事実で見事に覆い隠した。
「なるほど、よく分かった。急ぎの所、引き留めてすまなかったな。しかし、帰りには我が宮殿に立ち寄ってくれ。昔話などして歓待しようぞ」
一礼して立ち去るピメルサネ一行を見送りながら、デルタスは苦笑いして呟くように言った
「はてさて、祭りの前にコモラミアの春の精の登場とは。もう一計案じねばならぬか」
この時、地が揺れた。冥界の神が、デルタスが祭りと称した謀略に気づいて腹を抱えて笑うようだった。
背後を振り返ってデルタスの姿が遠ざかったのを確認して、トステルが言った。
「冷や汗をかきました。しかし、ピメルサネ様がアトラス王やレイトス王ばかりか、デルタス王とも懇意だとは」
いまは別名を使う必要もなかった。ピメルサネは懐かしい過去を振り返って言った。
「あの方が私をコモラミアの春の精と呼んだのは、訳があるのです」
「聞かせてもらいたいものです」
好奇心を隠さず尋ねたオルガスにピメルサネは語った。
「あの方は幼い頃からシュレーブ国の客人としてパトローサの王宮で生活されていました」
トステルも噂で聞き知っている。デルタスは、留学生という肩書きで幼い頃からパトローサのシュレーブ国の王宮で過ごした。実質上の人質だったが待遇は悪くない。後にシュレーブ国の王位を継いだジソーにとっても、他国の王位継承者デルタスを傍らに侍らせて、領主や他国の王に引き合わせるのは自分自身の権威を高める役に立った。
ピメルサネもパトローサの王宮でデルタスと出会った。
「私はコモラミアで生まれ育って、毎年の春の終わりに、父に連れられてジソー王のご機嫌伺いと同時にパトローサで開かれる真理の女神の祭り見物に行く習慣でした。私と出会ったあの方は、毎年春になると姿を見せる私を、コモラミアの春の精と呼ばれているのです」
「なるほど、ひょんなところで、人と人が繋がっていくもので」
「トステルさん。オルガスさん。貴方たちもきっとその大きな繋がりの一人でしょう」
「そうありたいものですな」
「たぶん、だから人を信じたいと思うのよ」
数日ぶりに一行の表情に笑顔が漏れた。この日、レネン国とヴェスター国の国境にある町で宿を取り、明日の早朝に出達すれば、明後日の夕刻にはレイトスがいる王宮に着く。
今、その王宮では失望と怒りが籠もったレイトスの怒鳴り声が響いていた。




