審判の神(テツリス)と審判の神(ジメス)
レネン国の国境を越えるまで三日と見込んだ旅だが、一日目の宿を取るつもりでいた村は村人の気配は無く、民家は荒れ放題だった。村人たちは繰り返される徴税や労役から、住処を捨てて逃げ出したに違いない。井戸があったのを幸いにして、トステルはピメルサネのためにテントを張った。
その夜、ピメルサネは関所の役人が物騒だと表現し、トステルが護衛が必要だと言った本当の訳を知った。
突然にテントの外で怒号が響いてピメルサネは目を覚ました。宿営地は男たちが激しく争う物音に包まれていた。戦の経験のないピメルサネにも五人や十人の争いではない事が理解できた。
テントの入り口の幕を上げてトステルが姿を見せて安心させるように言った。
「静かに隠れていなさい」
しかし、外の焚き火に照らされたトステルの顔は、血を浴びたように赤く、手にした剣から滴るものが血に見えた。
間もなく怒号は収まって、トステルが配下の者たちに駆ける命令や労いの言葉に置き換わった。そのトステルが手ぬぐいで顔を拭きながらテントに姿を見せて言った。
「もう、ご心配は無用。夜盗は護衛たちが撃退いたしました」
「盗賊が旅人を襲うのですか」
「左様。最近は物騒になりました」
トステルはそう答えたが、おそらく襲われた原因は、ピメルサネが町で革袋に入った銀を持っている事を知られてしまった事だという事は伏せた。
未だ月は西の空高く見えていたが、ピメルサネはもう一度眠る気にはなれず、男たちが死体を片付ける中、焚き火のそばで黙って炎を眺めて過ごした。元は兵士だった護衛は武器の扱いにも長けて、襲ってきた盗賊の半数を殺し、逃げ去った盗賊も無傷で逃げる事が出来た者は居ない。
やがて東の空が白んで、一行は何事もなかったように焚き火に鍋をかけ、煮立った湯に塩漬けの魚を入れてスープにする。ピメルサネも朝食の手伝いをしようと、よろりと立ち上がった時、盗賊の死体が目に入った。その数、十数体。
ピメルサネは口元に手を当ててその残酷な光景に悲鳴を押さえた。
「そんな……」
よろけた彼女の体を一人の護衛の隊長オルガスが支えて言った。
「私にも、あの年頃の子どもがおります」
二人の視線の先に、十数体の死体に混じって、昨日、パンを盗んだ少年の死体があった。大人に混じって商隊を襲う盗賊の中にいたのである。改めて死体を眺めれば、どの死体も町に戻れば、良き夫であり、優しい父親だろうという者たちばかりで、手にした武器も
棍棒や斧など生活の中にある物ばかりで、盗賊が手にする本格的な剣や盾を持つ者など居ない。
「今は、誰が盗賊になるか分かりません。誰かを殺して家族のために食い物を得る。果たして何か正義なのか……」
「その少年の弟と妹はどうなるのです」
護衛たちも盗賊として死んだ少年の飢えた弟と妹の姿を記憶している。もう一人の護衛が、首を横に振って言った。
「運命の神にお任せあれ。あのような幼子が、今、何人いるとお思いで? 百のそのまた百倍はいるかと」
トステルが旅の間だけの名で彼女を呼んで語りかけた。
「イルスネ。民が笑って過ごせるようにするのが旅の目的であろう。それを忘れてはならぬ」
彼女はじっと考え、哀しげに頷いた。彼女に何かできるとすれば、ヴェスター国王レイトスに面会してアトラスの言葉を伝える事だけだった。彼女は祈るように呟いた。
「レイトス様がこのような事を続けさせるはずがない」
その日、北へと歩む一行の目の前に広がったのも、貧しい光景だった。既にゴダルグを抜け、隣の領主が治めるラマリアの地へと足を踏み入れ、夕刻には更に北のイリロスの地へ入って町で一夜を明かす予定だった。
レネン国から聖都へと続く街道は、商人や巡礼者が頻繁に行き交う賑やかさに満ちていた。しかし、今は人の往来も珍しく、たまに行き交う人々とも、互いに不審者ではないかと距離を置く始末だった。
トステルは護衛の隊長オルガス、ピメルサネの三人で一行の先頭を歩きながら心の中の不安を口にした。
「しかし、逃げた者たちから我らの事を聞いた者たちが居るはず」
昨夜襲ってきたものの目的を果たせず逃げた者たちが、新たな仲間を募って再び襲ってくるのではないかと言う事である。
「諦めてくれればよいが、そうでなければ」
オルガスの言葉に、ピメルサネが尋ねた。
「そうでなければ?」
彼女の言葉に答えようとしたトステルに、荷車を曳いていた使用人の一人が恐ろしそうに肩をすくめて言った。
「旦那、それ以上はいけねぇ。森の悪霊に聞かれちまわぁ」
アトランティスの人々は、言葉にした悪い予感を森の悪霊が聞きつけて現実にすると言う神話に由来する迷信を信じている。事実、使用人が眺める街道の前方は広大な森へと続いていた。あの森を抜けてしばらく行くと、隣のイリロスの地である。
ただ、森は悪霊以外にもう一つ気にかけねばならない事がある。隊長オルガスが一人の部下に顎をしゃくって命じた。
「おいっ」
命令を受けた部下は頷いてコートを身に纏って腰の剣を隠し、足早に森へと入っていった。そのさりげなさは、宿営地で使う薪を拾い集めに行くようでもある。そして、オルガスは手振りで一行を道ばたに停止させるよう指示し、トステルもそれに従った。護衛たちは荷車の周りで休息を取る準備をしている振りをしながらも、時折、前方の森に注意深く視線を向けていた。
ピメルサネは男たちの好意が理解できずに首を傾げていたが、森は街道を往来する旅人を待ち伏せにも絶好の場所だった。しかし、敵意を持った人間が森に潜んでいれば、向こうからはただっ広い平原にいる一行は、その人数ばかりか、商人と護衛に女性が一人混じっていることまで明らかに見えるだろう。
一行の者たちが革袋に入っていた干しイチジクを食べ、水を飲んでいる間に、森に姿を消していた護衛が薪になる枯れ木を束にして抱えて戻ってきた。
オルガスは彼の報告を聞いた。
「姿を隠している者が二十ばかりいるように見えました。気配を隠しきれぬ未熟な者に混じって、待ち伏せに良く配置されているところを見れば兵士崩れも多いかと思います」
飢えて食い扶持を稼ぐ当てもない民が武器を手にした者たちに、実戦経験のある元兵士たちがおり、それを指揮する者もいる。
物見に出た男は報告を続けた。
「私の姿に気づいていたはずですが、襲ってこなかったところを見れば、我々が休息後にこのまま荷車を曳いて森にはいるのを待っているのでしょう」
その報告の内容をオルガスは短く表現した。
「手練れを含めた二十人か」
昨夜のように戦闘経験のない民が人数を頼りに襲ってきたのとは違う。前方の森に隠れ潜んでいる者たちの中には、戦闘経験を積んだ兵士崩れが混じっている。
この状況を盗賊側の立場で見れば、街道上に見つけた獲物が順調に罠に入ってくるかと期待していると、獲物は足を止めて、一人を森に派遣した。その一人も森を散策しながら薪を拾い終わって仲間の元に戻ったが、その仲間たちは薪を必要とする宿営の準備どころか食事の準備すらしていない。と言う事は薪を抱えて戻った男は森の中の様子を探っていたと言う事だ。
一方、護衛の隊長オルガスは、トステルに言って、街道を引き返す素振りをさせた。この姿は森に隠れ潜む者たちからもよく見えるに違いない。森に隠れ潜む者たちには、先ほどの男が盗賊の気配を察知して戻り、隊商は行く先を変えたように見える。罠に飛び込むはずだった獲物が逃げ去っていく。森に潜む野盗の指揮官は決断した。
突然に森の中から喚声が響き、剣を構えた男たちがかけてくるのが見えた。その数は二十数人。護衛の指揮官はその動きを読んでいたように命じた。
「弓。準備」
護衛の者たちは、それぞれ荷車に隠していた弓を手にして矢をつがえた。剣を構えた敵が射程にはいるのを待って、指揮官は命じた。
「一の矢、放て」
隊長オルガスが放った矢も含め五本の矢が、敵の五人を捕らえた。敵は身を隠す者もない場所で矢を避ける術がない。
たじろいで逃げ出して、避ける事も出来ず背に矢を浴びる者がいる。戦経験のない者たちだろう。手練れは突き進むしかないとを知っている。
オルガスは続け様に命じた。
「二の矢、放て」
敵が迫る間に、五人の護衛は慣れた動作で、五回、矢を放った。隊商に迫る盗賊は今や四人に減り、その中の二人は負傷しているようにも見える。敵の顔が表情まで見える距離になった。敵の先頭にいた男と隊長オルガスは、互いの姿と顔を認識してピクリと表情を動かした。もはや弓を放てる距離ではない。
隊長オルガスは部下に命じた。
「剣を構え。突撃せよ」
五人の護衛に、剣を手にしたトステルと棍棒を持った使用人たちも加わって敵に襲いかかっていった。
ピメルサネは恐ろしさに震えながらも、荷車の影から血なまぐさい戦闘を眺めていた。彼女にとって目の前の信じられない光景だけが世界の全てになった。視覚以外の五感は麻痺して、言葉を発する事は忘れ、聞く事も忘れた耳に剣戟や男たちの怒号は届かず、首を斬られた野盗が吹き出した血の飛沫を浴びた時の暖かさも感じなかった。やがて感情も麻痺してただの人形のようになった。
そんなピメルサネの目にとまったのは、隊長オルガスの姿だった。彼の足下に先頭を駆けてきた野盗の男が倒れ伏していた。オルガスはその男の傍らに片膝をついて何か言葉を交わしていたかと思うと、男の胸を剣で刺し貫いた。
「イルスネ。イルスネ。大丈夫ですか」
両肩を捕まれて揺さぶられてピメルサネは我に返った。目の前にトステルの顔があった。トステルの肩越しに見える景色に彼女は息を飲んだ。
周囲を見回せば、護衛の男たちが傷ついて地に伏して動けない野盗たちを殺している光景が目に入った。
「やっ、止めさせて」
ピメルサネの悲鳴のような求めに、血まみれの剣を持った隊長オルガスが近づいてきて静かに言った。
「敵とは言え、人間。死までの苦しみを長引かせろと仰るのですか」
「でも……」
「盗賊は斬首の定め。次の町まで運んで役人に斬首させろと?」
矢傷を受けていても逃げられる敵は追わず、逃げ切るか矢傷で死ぬかはその男の運命に任せた。しかし、逃れられない死まで苦痛と死の恐怖に喘ぐしかない者の苦しみは、自分の手で終わらせる。
ピメルサネが抗議して言った。
「人が審判の神の代わりをすると?」
正義と邪悪を審判する神に代わって、人がその役割をしようとするなど驕慢ではないかという。アトランティスの人々にはもう一柱、審判の神がいる。隊長オルガスはその神の名を挙げて言った。
「いいえ。審判の神に誓って。神が彼らにその運命を示し、彼らはその運命を受け入れて生きた」
トステルは実の娘に言い聞かせるように語りかけた。
「イルスネ。もし、夫の思いを背負い、引き継ごうとするなら、この光景も受け入れねばなるまいよ」
オルガスの視線の先にある死体を眺めたトステルが尋ねた。
「知り合いか?」
「ええっ。いくつかの戦場で共に戦い、命を救ったり救われたりした仲です。何処で審判の神が運命を分かったものやら」
運命を受け入れて静かに語る彼を眺めてピメルサネも思った。彼女の夫も、正義だけでは語れぬ世界で生きて死んだ。オルガスも彼女の夫と同じだった。
トステルがため息をつくようにオルガスを眺めて言った。
「さて、この後はどうしたものか」
このまま危険な森を通る事が出来ないのなら、引き返して別の道をたどるかということである。オルガスは首を横に振った。
「野盗なら縄張りを持っているでしょう。ここが奴らの縄張りなら、もう他の野盗は居りますまい。戻れば昨夜の生き残りたちが仲間を増やして追ってきているやもしれません。ここは予定通り、森を抜けて行くのが安全」




