ゴダルグの地
ピメルサネが心配したのは、まずは国境を越える事だった。夫の消息を求めて国境を越えた時、国境には関所が設けられ、出入りは厳しく詮議されていた。そんな関所に注意深く接近した彼女はふと気づいた。関所からヴェスター国の訛りが聞こえず、警備につく役人たちの緊張感も感じられない。
そんな関所の中から声が響いた。
「ピメルサネ様では?」
ピメルサネには記憶はなかったが、役人はこのゴダルグの領主の長子に嫁いできた娘の特徴をよく知っていた。彼女はその言葉をごまかす事も出来ないまま頷いた。初老の役人は親切そうに言った。
「最近はこの辺りも物騒でございます。お屋敷までお送りいたしましょう」
しかし、物騒とは何の事か。この時の彼女は深く考える余裕はなかった。彼女は感じたばかりの疑問を口にした。
「関所の出入りが緩やかになっているのは、どうしてなの?」
「オルエデスの奴が、ヴェスター国から連れてきた子飼いの兵士をかき集めて行ったので、ここにはゴダルグの役人ばかり残ったと言うわけです」
ピメルサネは理解した。オルエデスがオスアナへ攻め込んだという。領主たちに兵を出すよう命じたが、士気も低く忠誠心も定かではない兵に不安を抱いたのだろう。新たな占領地に監視のためにばらまいていた兵を、自分の手元にかき集めた。関所に残されたのは、もともと関所の設置に反感を抱く地元の役人たちだけで、人の出入りを厳しく監視しようという意志などなかった。
彼女が関所の役人に先導されて、嫁ぎ先、ゴダルグの領主ストラタスの舘に到着したのは陽が中天に達する前だった。
ストラタスはピメルサネの帰還を知って、病弱な体を家臣に支えられながら、妻のシミルネと並んで舘の門まで出迎えた。
「おおっ、ピメルサネ。我が娘よ、良く戻った」
彼は実の娘に向けるような屈託のない笑顔でピメルサネを迎えた。夫の傍らにいた妻のシミルネは、何も言わずピメルサネを優しく抱いた。
ストラタスは家臣の目を避けて、ピメルサネを居室に招き入れ、シミルネは侍女たちに人払いを命じた。義父、義母、ピメルサネの三人だけになった事を確認し、シミルネは母親としてもっとも気がかりな息子の消息を尋ねた。
「それで、エルグレスの消息は分かったのですか」
ピメルサネはうつむいて黙ったまま、抱きしめるように持っていた長い荷の包みを解いてストラタスに差しだした。
「ルージ国のアトラス様から、この剣を託されて参りました」
ピメルサネに差し出された剣を眺め、夫婦は悪い予感を振り払うように首を横に振って絶句した。剣の束に刻まれた家紋はストラタス一族の物に間違いはない。
「アトラス王が、何故この剣を」
ストラタスの静かな口調の質問に、ピメルサネはアトラスから伝え聞いた巡礼姿の男の話を静かに語った。語り終わった部屋に沈黙が続いた。戦が終わったあと、帰って来ない息子を待つ時間が過ぎる中、希望が薄れ涙も枯れた。この夫婦と同じ経験をしたピメルサには年老いた夫婦の心情が分かる。
ストラタスは最後の確認のように尋ねた。
「では、間違いないのだな」
「あの折り、私はガルラナス様の奥方とリーミル様の陣へ行き、夫はエリュティア様の護衛を。アトラス王が巡礼姿の男から聞いたという話は、その場に居合わせた者しか知らぬ事」
シミルネはすすり泣きの声を抑えていた。ピメルサネは話題を転じて言った。
「お願いがございます」
「何か? 何でも言うてみよ」
ストラタスの言葉に頷いて、ピメルサネは首に駆けていたメダルを取りだして見せた。表に審判の神の姿が刻まれ、裏にはルージ国の紋章がついていた。
「アトラス王から、レイトス様への使者の任を託されました。無用な戦は避けねばならぬと。お義父上さまに、ヴェスター国まで参る便宜を計らっていただきたく……」
「使者とは、そなたにか?」
シミルネが非難する口調を隠さずそう尋ね、頷くピメルサネに言葉を続けた。
「何と惨い。あの男はそなたにそのような過酷な使命を課したのですか」
この地でもアトラスは悪鬼として名高い。ピメルサネは首を横に振って答えた。
「いえ。もし、エルグレス様が生きておいでなら、戦を止めようという申し入れを伝える任を喜んで引き受けられたかと存じます。何よりこのゴダルグの民のため。私はエルグレス様の妻です。夫亡き後、その思いを引き継ぐのは妻の勤め」
ピメルサネが決意を込めて語る姿を、ストラタスは静かに眺めた。ピメルサネ知らないのかもしれないが、領主たるストラタスは知っている。そのメダルは、王の言葉と呼ばれる品だった。普通は通信文を記したスクナ板を通信手段にする。ピメルサネが持っているメダルは、使者に持参させた時、その使者の語る言葉が全て王の意志だと言う事を証明する品で、アトラスがピメルサネにかける期待と信頼が分かった。
ストラタスは静かに言った。
「分かった。何か考えよう。とりあえず今日はもう陽が暮れる。湯浴みし、食事を取ってぐっすり寝て、旅の疲れを取るがいい」
明くる日、ストラタスはピメルサネを居室に呼んで一人の男を紹介した。
「これは我が家に古くから出入りする商人で、トステルと申す。誰よりも信頼できる男じゃ。この者がそなたをレネン国からヴェスター国へ送り届けてくれる」
レネン国からヴェスター国へというのは商人の旅の行程で、ピメルサネの目的地はヴェスター国である。ピメルサネは回り道は避けたいという意味を込めて言った。
「お父上の紹介状があれば、私一人で各地の領主を頼りながらレイトス様の元へ参ります」
トステルが静かに微笑んで口を開いた。
「今、治安が乱れているのはゴダルグだけではございません。盗賊のたぐいが横行し、商人が腕の良い護衛を伴う事も珍しくありません」
「でも。私は早くヴェスター国のレイトス王の元へ行かねばならないのです」
行く先を明かして後悔しかけたピメルサネだが、ストラタスはこの男を信用して良いと微笑んでいた。トステルはヴェスター国へ直接に向かうルートを避けねばならない理由を語った。
「旧シュレーブ国の領地を辿ってヴェスター国に行くには、イドポワの門と呼ばれる隘路を通らねばなりません。もしもピメルサネ様のご用の内容が漏れて、誰かに追われれば逃げ道はございません」
そんなトステルの言葉に命を賭してでも、ピメルサネを守るいう配慮と気迫が感じられる。提案を受け入れて頷くピメルサネに、トステルは言葉を続けた。
「数日の旅になります。急ぎすぎるのは避けるのが肝要。宿で疲れを取る方が旅がはかどるというものです」
旅に慣れた商人の経験だった。
「ゴダルグの民ばかりではない。ヴェスター国に占領された地の民のために頑張っておくれ」
それがピメルサネを見送るシミルネの言葉だった。
ピメルサネに同行するのは、商人トステルと商品を積んだ荷車を曳く使用人が三人、その周囲に五人の護衛がつくという一行だった。
トステルはピメルサネに寄り添うように一行の先頭を歩きながら言った。
「では、ピメルサネ様は今からイルスネ。レネン国の親類を訪れるため、レネンに取引に向かう私たちと同行していると言う事で」
ピメルサネは使者の身分を隠し、名もイルスネと偽って無用な危険を避けると言う事である。
嫁ぎ先のゴダルグの地はピメルサネにとって未だ珍しい。嫁いで間もなく夫と生き別れになり、夫の消息を求めて各地を彷徨った。彼女が彷徨ったのはルージ軍の占領地であり、今はルージ国の版図に組み入れられた地だった。
今の彼女の周囲に広がる光景は、紛れもなくゴダルグの地の姿だった。眉を顰めた彼女にトステルが言った。
「三年前は、もっと豊かでありました。ヴェスター軍に荒らされまでは」
「でも……」
彼女は首を傾げた。彼女が夫の消息を求めて彷徨ったルージ軍の占領地の人々が、元の生活を取り戻し始めているのに比べれば、目の前の人々の生活はあまりに貧しい。
フローイ国という盟友がおり、補給路も保たれていたルージ軍と違って、イドポワの門と呼ばれる隘路を補給路として、本国からの物資不足に悩まされ続けたヴェスター軍は、戦場や占領各地で物資を徴発、様々な労役を人々に課した。兵士の民への略奪や暴行は横行し、その治安は低下した。
彼女が彷徨ったルージ軍の占領地に比べれば、ヴェスター軍の占領地は人々は貧しく、男手は兵士や労役に狩り出されたまま帰らず、耕す者を失った畑は荒れている。
街道を北へと歩きながら前を眺めると、松葉杖にすがって歩く若者が怒りを表情に込めていた。戦場で負傷し、もはや戦えなくなった元兵士だろう。街道に沿って露店が並んでいるのだが、露天商の売り声にも陽気さはなく不満と怒りが籠もっているように見えた。
トステルがふと気づいて視線を向けた左の方向を眺めると、行き止まりになった細い路地の奥に隠れ潜むようにいる幼い男の子と女の子の姿があった。幼子たちがピメルサネと交わした視線に、ぼんやりと力が無く生きる気力も失っているように見えた。
背後の露店で怒鳴り声がして振り返ると、パンを抱えた少年が駆けて来るのが見えた。その子どもたちがやせ細っていた。飢えて露店のパンの一つを盗んだものか。彼は人混みをかき分けるように駆けてきて、追っ手から身を隠すつもりか路地に逃げ込んだ。
「先を急がなくては」
今は日常的な光景になった出来事に惑わされずに、旅を続けようと急かすトステルにピメルサネは首を横に振って、出来事を見守りたいと伝えた。
間もなく泥棒を追ってきた露天商と仲間が、路地の奥に潜んでいた泥棒を捕らえて引きずり出してきた。パンを持った幼い男の子と女の子が少年を庇うように出てきた状況で事情が知れた。少年は飢えた弟と妹に食べさせるためにパンを盗んだ。面白い見物に見物客が彼らを取り囲んでいた。
地面に這いつくばりながら殴られ続けている少年を眺めて、ピメルサネが叫ぶように言った。
「お止めなさい」
この町でピメルサネの顔を知るものは少なく、質素な身なりの彼女が領主の長男の妻だと気づく者は居ない。しかし、彼女の凜とした声音に、少年を殴っている者たちも手を止めた。
「これをそのパンの代価に」
彼女は懐から小さな革袋を取り出し、口を縛っていた紐を解いた。しかし、慌てていた彼女はその革袋を取り落とした。中に入っていた銀の小粒が地面に散らばって輝いた。どの一粒をとってもパンの代価には多すぎる。トステルが慌てて地面の銀をかき集めた。もし、彼がかき集めるのが遅れれば、今はその価値に驚いてため息をついているだけの見物客が奪い合って、誰の懐に入ったのか分からなくなっていただろう。その証拠に、今の見物客の視線は欲にくらんで小ずるく光っていた。地面に這いつくばっていた少年もまた目の前に転がった銀に目を光らせた。あれが一粒でもあれば、幼い弟や妹が飢える事もなく、温かい寝床で眠る事もできるはずだった。
トステルは荷車の荷の中から、塩が入った拳大の革袋を二つ取り出して露天商に渡しながら言った。
「どうだ。パンの代価として充分すぎるはず」
強引に押しつけて取引を成立させると、銀の入った革袋をピメルサネに返した。
「さぁ、我らは先を急がねばならない」
トステルは配下の者たちにそう命じながら、眉を顰めて考えていた。
(拙いことになった)
状況を察した護衛の者たちにも緊張感が走っていた。




