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命の一粒

 アトラスは使者の任を願い出たピルメサネに驚いた。確かに使者の人選に困っている。ただ、和平の使者とはいえ、王の息子オルエデスの非道を訴える使いになる。オルエデスに気づかれれば使者の命も危険にさらされるかも知れない。

 アトラスは彼女を怯えさせないよう、別の表現で彼女の申し入れを拒絶した。

「そなたの思いはよく分かった。ありがたい申し入れだ。しかし、そなたは女で未だ若い」

「若くともレイトス様の事はよく存じ上げています」

「そなたが知っているだけで駄目だ」

「レイトス様も、私の事を良くご存じです」

 アトラスは首を傾げた。一国の国王が隣国の一領主の娘と懇意だというのは、にわかに信じがたい。

 しかし、ピメルサネから事情を聞けば、その言葉ももっともだった。二年に一度、各国の王は聖都シリャードに集い、真理の女神ルミリアの元、アトランティス議会でアトランティスの安寧を議論するのが通例だった。ヴェスター国王レイトスもまたその参加者だった。彼はヴェスター国から南へ下り、ピメルサネの生まれ故郷コモラミアの地からルードン河に沿って聖都シリャードへと移動するのが常だった。

 レイトスはコモラミアを通る時に領主ブレヌスの舘に招かれて歓待を受けた事があり、領主の家族を挙げた心づくしが心地よく、聖都シリャードへの行き帰りには領主の舘に立ち寄って過ごすのが習慣となった。領主ブレヌスも気の合うレイトスを心から歓待した。

 王レイトスはブレヌスの妻が子どもを授かったと聞いた時には自分の事のように喜んだし、二年に一度の往復の都度、ピメルサネと名付けられた娘の成長を見守ってきた。

 ピメルサネは数多くの記憶の一つを語った。

「私の婚約を知ったレイトス様は祝いに、ヴェスター国とコモラミアの家紋が入った髪飾り(シャル)をくださいました」

「レイトス殿は、そういう心配りが出来るお人だ」

「そうお考えになるのでしたら、私に使者を任せていただけますね」

「しかし、他に使者の経験もある老練な者もいる。命がけの修羅場もくぐれる者たちだ」

「若くとも、私はあの方、エルグレス様の妻です。あの方の思いを引き継ぎたい」

 彼女のきっぱりとした物言いに、アトラスも頷いて断言した。

「分かった。では護衛を付けてそなたを無事に送り届けよう」

「ご配慮は無用に。護衛など連れて目立てば、疑われます。オルエデス殿の息がかかった者が何処にいるやも分かりません」

 彼女は微笑みながら言ったが、その言葉は任務に命をかける覚悟も出来ていると言う事だった。アトラスは彼女の考えを問うた。

「では、どうするのだ?」

「レイトス様に頂いた髪飾り(シャル)を付けてゴダルグへと嫁ぎました。まずはゴダルグの義父の元へこの剣を届けて、エルグレス様の最後を伝えようと思います。レイトス様に頂いた髪飾りを持参していれば、レイトス様との面会を求める何よりの身分の証。義父もまた、知古の領主たちに手を回して旅の安全を図ってくれると存じます」

 この時、王宮が大きく揺れて人々に緊張が走った。アトラスには大地のアナラスか地下の冥界のエトンが、ピメルサネの申し入れへの決断を求めたかのようにも思えた。この大地の揺れも間もなく収まって、パトローサの町の人々を安堵させたが、アトランティス中原の僅かな揺れもアトランティスの南岸では大地を破滅させるほどの揺れだった事に気づく者は居なかった。

 アトラスはピメルサネの申し入れを受け入れた。

「なるほど。それがよいかも知れぬ」

 この夜、エリュティアはピメルサネのために貴婦人の衣装を用意させたが、ピメルサネは微笑んで拒絶した。ヴェスター国までの途上、目だつ事は危険だった。


 明くる日、アトラスとエリュティアは主だった家臣を連れて王宮の門でピメルサネを見送った。順調にいけば女性の足で十日の旅になるだろう。

「吉報を待っているぞ」

 そう言ったアトラスの傍らでエリュティアが言った。

「貴女の旅に運命のニクススのご加護がありますように。愛の女神リナシアの息吹が不安を吹き払いますように」

 ピメルサネは病弱なエリュティアを気づかって、町の端まで見送ろうという申し出を断って王宮の門を別れの場にした。深々とお辞儀をすると、彼女は決意を込めたように振り返らず立ち去った。後ろ姿を眺めるアトラスたちは、彼女が吉報どころか思いもかけない悲報を持ち帰る運命だと気づいてはいない。


 ピメルサネの出発から二日後、アトラスの元にヴェスター国に攻め込まれていたオスアナの領主エゴイナスからの知らせが届いた。王宮の広間に顔を揃えたアトラスと家臣たちを前に使者が語るところによれば、オルエデスに率いられて侵攻したヴェスター軍を、国境まで押し返した。その過程で五百の敵を討ち取り、その三倍の兵を捕虜にしたという。

 アトラスは彼らの戦ぶりを褒めた。

「さすがは歴戦の強者つわものたちよな」

 使者が語る報告で、捕虜が多いという実態を知って、傍らにいたラヌガンに尋ねた。

「オルエデスは新たな領地で兵をかき集めたと言う事か」

「左様でしょう。未熟な兵故、士気も低い」

 およそ二千五百の兵を率いてきたという報告だったが、その大半は新たに得た領地からの徴募兵で士気も低い、ひょっとすれば剣を持った経験すらない者まで居たかも知れない。

 しかし、アトラスが見逃していた事がある。聖都シリャードを解放する戦の中でシュレーブ国は勝利者たちに分割されて消滅した。オスアナを守って戦った者たちと、オルエデスに率いられて攻め込んだ者たちは、元はどちらもシュレーブ国の者たちだった。身内同士にも近い親しい友人であり、時に家族が嫁いだ親類縁者でもある。友人同士で殺し合う凄惨な戦闘だったろう。


 使者は最後にエゴイナスたち領主の提案を付け加えた。

「我らが王の許可を頂ければ、さらに兵を進めてラマカリナをります」と。

 機嫌良く報告を聞いていたアトラスは顔色を変えた。

「帰って伝えよ。忠誠と勇猛は認めるが、ラマカリナへの侵攻はならん」

 ラヌガンが異論を唱えた。

「しかし王よ。マリドラスによればラマカリナの領主ブルクドル殿は我らルージ国に恭順と内通の申し入れをしております。これこそ、運命のニクススが我らに示した幸運の証。これを見過ごすのは戦の女神パトロエの不興も買うのでは」

 ラマカリナに兵を進めて占領したとしても理由は何とでも付けられる。何よりその領主がそれを望み、ヴェスター国の圧政に苦しむ民も歓迎するだろう。

 しかし、アトラスは拒絶した。

「いや、いかん。次の春のアトランティス議会。我らの安寧の礎はそこにある」

 家臣たちの失望の視線がアトラスに集まり、重い沈黙が広間を包んだ。そんな雰囲気を振り払うようにアトラスは使者に命じた。

「さっさと帰れ。帰って、一言一句、たがえず、エゴイナスたちに伝えよ」

 使者は叩き返されるように去った。間もなく地が揺れ王宮の中の壁掛けが揺らぎ、テーブルの上の水差しがかたかたと鳴った。しかし、地の揺れに慣れてきた人々にはその不安よりも、アトラスの決断がもたらす結果への不安が大きい。


 そんな不安が的中した事を知ったのは、その四日後である。オスアナに侵入したヴェスター軍の背後を攪乱するために、ラマカリナの南へと兵を進めていたマリドラスが役割を終え、兵を率いて帰還した。

 アトラスは王宮の広間の奥に妻のエリュティアと並んで立って、マリドラスを迎えた。そのマリドラスが賓客を連れていた。エリュティアもよく知る人物だった。マリドラスは短く言った。

「ラマカリナの領主ブルクドル殿のご家族をお連れいたしました」

 帰還の準備をしていた時、領主の身内の者たちが、領主の舘があるイラダルの町から脱出してきて庇護ひごを求めたという。

 彼は一歩進み出た初老の女性を紹介して言った。

「ブルクドル殿の奥方ノルネア様」

 アトラスの傍らでエリュティアも頷いていた。領主の夫と共に王宮に挨拶に来る事があって幼い頃からよく知っている。彼女はアトラスの前で片膝をついて頭を垂れ、努めて感情を抑えた声で挨拶した。

「アトラス王には初めてお目にかかります。家族共々、お見知りおきを」

 エリュティアが彼女と視線を交わして微笑みかけたが、ノルネアはそれに応えず、固い表情のまま静かに後ろへと下がった。マリドラスが次の若い女性を紹介しようとした時、若い女性は幼い二人の子どもの手を曳いて進み出て、心に留め切れない思いを吐いた。

「王よ。お恨みいたします」

 エリュティアはその女の名を呟きで、アトラスはその呟きで女の名を知った。

「パラミサネ」

 領主の長男の妻だった。エリュティアは女の名を呟いただけではなく、二人の子どもの名も知っている。パラサミネは二人の子を抱きしめ、泣き崩れた。

「王が我が義父の申し入れを受け入れてくだされば、我が義父も夫も、ラマカリナの民もこれほどの災厄に見舞われずにすんだでしょう」

 エリュティアは言葉の意味が分からず、首を傾げてアトラスの表情を窺った。そのアトラスは何か思い当たる事でもあるように、顔を背けてパラミサネとエリュティアの視線を避けた。

(もしも、マリドラスの進言を受けて、ブルクドルの内通の申し入れを受け入れていたら)

(もしも、エゴイナスたちの進言を受けて、ラマカリナに侵攻させ、町を占領させていたら)

 アトラスの心に過去の判断の後悔が入り乱れていた。ただ、状況はアトラスの想像を超えて凄惨だった。

 マリドラスは避難民から聞き取った内容をアトラスに告げた。オルエデスは聖都シリャード包囲戦の時、飢えや病から逃れて聖都シリャードから脱出する人々を捕らえて惨殺し、その死体を見せしめに杭に縛り付けて晒した。その数は女子どもを含めて百を超えた。

 今、オルエデスは帰還したイラダルの町でその残忍さを発揮した。彼にとって必要な事は、敗戦の責任を押しつける相手と、その相手を厳しく罰する自分という立場だった。各地の領主の元からかき集められて戦わされ、ようやく生還した五名の指揮官が捕らえられ、広場に立てられた杭に縛り付けられた。彼らは不忠、無能を罪状として両腕を切断された上、死ぬまで放置された。足下には血だまりが出来、苦痛のうめき声が聞こえなくなっても、その死体は杭に縛り付けられたまま晒された。

 オルエデスにとって処刑に強硬に反対した領主ブルクドルが民の支持を集めているのが目障りになった。ブルクドルは家族を逃がした事を裏切りの証拠として、その息子とともに処刑されるに至った。民の敬愛を集めた領主とその息子の死で、ヴェスター国の圧制下で苦しんでいた民が蜂起した。オルエデスは反乱を収めるために、更に数百の虐殺で民の蜂起を憎しみと恐怖で鎮圧した。オルエデスが町に戻って僅か三日間の出来事だったという。

 虐殺と圧政を逃れてイラダルの町を脱出する民が後を絶たず、国境に近い町で、ブルクドルの家族の者たちは避難民から夫の最後を聞かされた。

 ノルネアが再び進み出てアトラスに慈悲を乞うた。

「不躾な振る舞い、申し訳ございませぬ。しかし、戦に出向いた二人の息子のうち次男は行方知れず。戦から帰った長男で、このパラミサネの夫、そして私自身の夫も殺されました。その哀しみ、ご理解くださり、不躾な振る舞いをご容赦くださいませ」

 エリュティアはそんな光景を黙ったまま瞬きをする事も忘れて眺めていた。しかし突然に支えるものを失ったかのようによろめき、膝を床についた。広間の隅に控えていたユリスラナたち侍女が駆け寄ってきた。

「エリュティアを寝室に運び、薬師も呼べ」

 アトラスは侍女たちにそう命じ、広間の人々を眺めて次の命令を発した。

「ブルクドル殿のご家族と避難民の者たちを手厚く遇するように」

 アトラスはそれだけ言い残して、眉をひそめて不機嫌そうに広間を去った。実際に彼は不機嫌だった。ただ、怒りを誰に向けるべきかが分からない。自分の判断が多くの犠牲を生んだという罪悪感の裏に、国家間の和平の仕組みを作り上げねばもっと多くの犠牲者が出るはずだという自分を正当化する思いもある。

 彼は広間で彼に注がれた失望と疑問の視線を思い起こして腹立たしく思った。

(これほど皆の事を考えているのに)

 アトラスは誰にも理解されない孤独感を深めていた。


 ユリスラナが肩を貸して歩いても足下がおぼつかないエリュティアを見て、アドナが抱き上げて寝室へと運び、ベッドにエリュティアの体を横たえた。ユリスラナたちが危惧しているのは体調を回復しないまま聖都シリャードからパトローサへ来たエリュティアが、再び体調を崩し始めたのではないかと言う事である。

 アトラスの姿を見つけたエリュティアはベッドの中でよろりと上半身を起こして切なそうに言った。

「貴方をお支えしたいとここまで来たのに、足を引っ張る事ばかり」

「もう言うな」

 制止するアトラスに、エリュティアは泣きながらパラミサネが抱いた二人の子どもについて語った。

「あの少女の名はアルネア。ブルクドル殿とノルネア様が孫を紹介したいとお連れになったのを覚えています。あの男の子の名はネルスニス。お父上とお母上に連れられて初めてこの王宮に来た時はまだよちよち歩きでした。皆、私が大切に守らねばならない臣下の者たちです。イラダルの町の民も、私の姿を見れば笑顔で手を振ってくれた者たち。そっと手を振り返してみると飛び上がるほどの大喜びでした。でも、私はその守るべき民を守れなかった」

 大勢ではなく一人一人だった。一人の人間に命があり、エリュティアの心と繋がっていた。

 アトラスはベッドの脇に片膝をついて、妻と視線の高さを合わせ、そっと妻の髪を撫で、その上半身を抱いて呟いた。

「エリュティアよ。私が間違っていたのだろうか」

 アトラスは大局的な視点という言い訳で、戦に疲れた身を慰めてきたが、その中で目の前の一人一人の命の輝きをないがしろにしていたのかと感じたのである。全ては静寂の混沌ヒュリシアンの一部。ないがしろにできる命はなかった。

【用語の解説】

○愛の女神リナシア

ピメルサネを見送ったエリュティアの言葉に愛の女神リナシアが出てきます。

過去に二柱の愛の神の名が登場しています。

愛の女神リナシア:癒しの女神リカケーの娘で、親子、兄弟、友人など自分と近しい人たちとの愛情や繋がりを司ります

愛の女神フェイブラ:真理の女神ルミリアの娘で、夫婦など既に結ばれた男女の愛を司る

恋愛のフェリン:愛の女神フェイブラの子ども(性別のない中性の神です)。気まぐれないたずら者で男女の恋を司ります。悪戯を厳しく叱る母親が苦手です。


○髪飾り(シャル) 第一部や第二部で登場した言葉ですが

アトランティスの貴婦人の正装に使う品です。髪を結った後、額から後頭部に回して結ぶ飾り紐。特徴的な事は小さな宝石が左右どちらかのこめかみの辺りにぶら下がっている事で、未婚者は右、既婚者は左という習わしです。

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