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エルグレスの剣

 アトラスはヴェスター国王レイトスに使者を送ろうと考えて、改めて負傷したテウススの存在感を感じた。戦闘の指揮でも、他国との使者の役割も、地味ながら剛胆な性格で無難にこなす男だった。

 彼に代わる使者を考えると、スタラススやレクナルスは忠実でアトラスの意をよく理解はしていても、若く経験が浅い。適任はラヌガンにも思えるが、彼を使者にすればパトローサの統治が疎かになる。長く続いた戦で多くの者たちを失い続けて、使者に立てる人物が思い当たらない。

 アトラスは重い気分を振り払って考えた。王宮に戻ったアトラスには、もう一人会いたい友が居る。愛馬アレスケイアだった。その物言わぬ友はアトラスが幼い頃から近習にさえ語れない愚痴を素直にはき出せる相手だった。その友も老いて、馬屋に繋がれている。しかし、アトラスには誰にも語れない本心を相談するのに絶好の相手だった。使者について思いめぐらすのに良い話し相手に違いない。


 アトラスが宮殿の片隅の馬屋に向かったと知ったラヌガンたちもその後を追った。

「王よ。我らも参ります」

 王の性格から見て一人で遠乗りするつもりだろうが、王の命を狙う者が居るかも知れない。大勢の兵士を連れて行かなくとも、信頼できる近習だけでも供をするという。

 馬屋から手綱をつけた愛馬を曳きだしていたアトラスは不機嫌そうに答えた。

「無用にせい。一人で行く」

 アトラスは妥協のない視線を彼らに向けた。ラヌガンたちはアトラスの命令に抗う事は出来ず、アトラスを見送るしかない。

 

 空を見上げれば良く晴れて、陽は未だ中天に間がある。アトラスは街道を南へと進みながら、囁くようにアレスケイア声をかけた。

「私を残して行くなよ」

 愛馬の荒い息づかいに老いを感じ、他の多くの者たちのように彼の元を離れるなと言うのである。

 そんな仲の良い主従に街道の人々の視線が冷たい。アトラスの顔を知らなくとも、乗馬と言えばルージ国の人間で、片腕の武人と言えば、それはルージ国王アトラスに違いがない。パトローサに住まう人々にとって、アトラスは彼らが敬愛するエリュティアの夫であると言うより、過去にこの町を戦火に晒し民の身内の命を奪った悪鬼ストカルという印象だろう。

 アドナたちが護衛に同行しようとしたのも、アトラスを憎み命を奪おうとする者たちが何処に潜んでいるか分からないからである。

 命を狙う刺客はともかく、民の憎しみの視線は耐え難い。アトラスは愛馬の腹を軽く蹴って駆けよと命じた。


 王宮からアトラスの姿が見えなくなって間もなく、アドナが一頭の馬に手綱を付け始めた。王の命令には誰より忠実なラヌガンが文句を言った。

「アドナよ。我らが王は一人で行くと申されたのだぞ」

 アドナは悪びれもせずに答えた。

「王は乗馬の訓練をしてはならぬとは申されなかった。私は乗馬の訓練に行かねばならない。王と出会ってもそれは偶然」

 彼女は偶然を装って王の後を追うという。ラヌガンとレクナルスは顔を見合わせてアドナの悪知恵に感心した。


 アドナが悪知恵を実行に移した頃、アトラスはパトローサ市内の街道を南へと駆けていた。パトローサの中心を離れるにつれて、周囲にまばらになる家々が、やがて一軒になりそれも遠ざかった時、気づいてみればアレスケイアの吐く息が白くが激しい。

「私は疲れた。アレスケイアよ、少し私を休ませてくれ」

 アトラスは愛馬に休憩を求める形を取って、久しぶりに懐かしい主人を乗せて張り切る愛馬をいたわろうとした。

 大地に冷たい風が吹き渡っていた。休息には風を避ける場と、出来れば温かい焚き火が欲しい。パトローサの南西部とルードン河の間には広大な森林が広がっていて、森を貫いてフローイ国から聖都シリャードへ続く巡礼道が通っていた。

 

 男はそんな巡礼道が森に入る入り口の樹木を背にして座り、小さな薬缶に湯が沸くのをじっと眺めていた。何故か無視できない雰囲気をまとう男だった。

「火に当たらせてもらってかまわぬか」

 アトラスは穏やかにそう言ってアレスケイアの背を降りた。人の目を避けてきたアトラスが、どうしてこの旅人に声をかける気になったのか自分でも分からない。知恵を求める者が賢者に惹かれるように、アトラスはその男が、巡礼姿の内から滲ませる雰囲気に、わけもわからず惹かれていた。

 アトラスは愛馬から降りる時にもその旅人の視線を感じていた。彼はアトラスの片腕のない姿を目にしているだろう。男は悪鬼ストカルという異名を持つ片腕の武人との突然の出会いを驚きはしても、恐怖を感じている様子はない。

 男はカップに湯を注いで差しだした。

「貴人にお勧めする飲み物など無いが、せめて白湯などいかがですか」

 貴人にと言う言葉で、男がアトラスの正体に気づいている事が知れた。その姿と物腰の柔らかさにアトラスは警戒を解いた。

「この寒空に体を温める事さえ出来れば何よりのもてなし。本来は私がもてなしをせねばならぬ所だが……」

 アトランティスには、旅の巡礼を丁寧にもてなせば幸運が訪れるという伝承がある。今はアトラスがもてなされている。

 地面に腰を下ろし、差し出されたカップを受け取ろうとした時、アトラスの眉がピクリと動いた、アトラスはその視線を愛馬へと移した。アトラスの剣が鞍に吊したままになっていた。

 そのアトラスの表情に気づいたのかどうか、男は傍らの包みに手を伸ばした。その細長い包みの中から見えているのは、明らかに剣のつかだった。アトラスの死を望む者は多い。この男が殺意を露わにすれば、アトラスは愛馬の鞍に付けた剣を手にするより先に斬られる。

 アトラスは思った。

(これも運命か)

 自分の命は運命のニクススに任せようと考えた。そんなアトラスを勇敢と評する事は出来ない。彼は多くの者たちを死に追いやってきたという罪悪感があり、その償いをするように、自分もまたいつか死の運命に見舞われると考えている。その運命がこの瞬間に訪れたのかも知れないと言う事である。

 旅人はそんなアトラスの心情を察するかのように、静かに剣を差しだして、その束を見せた。

「この束に刻まれた紋はご存じか」

「いや知らぬ。それが何か?」

「私も存じませぬ。それを探し求める事が私の生きる目的になりました」

「そう言うそなたは誰だ」

 正体を問うアトラスに、男は名前ではなく経歴を明かした。

「私はボルスス王の元で戦い、イドポワの門ではアトラス王のお父上の勇壮なお姿を目にしました」

 目にしたというが、その戦いはアトラスの父リダルが、フローイ軍の奇襲を受けて戦死した戦いだった。アトラスの父が戦死した場に敵として居合わせたという男は言葉を継いだ。

「グライス殿の元ではネルゴーラ川の河畔で、フローイ軍の陣に攻め込むアトラス様の兵士と戦い、リーミル様の元ではアトラス様のお味方として戦い、リーミル様の最後にも立ち会いました」

 アトラスはこの男に惹かれた理由の一つを理解した。男は生まれと立場は違っても、アトラスと同じ戦場経験とその哀しみを積み重ねた男だった。

「フローイ軍の者だったのか。その者がどうして?」

「忠誠を尽くした方々が次々に亡くなり、自分は何のために生まれてきたのかと考えた時、この剣が私の新たな道標になりました」

「それは?」

「アトラス様はご記憶にありましょうか、フローイ軍がリマルダの地でリウダの町を包囲した折のこと」

「どういうことだ?」

「私も十名の兵を率いて、その中に居りました。」

 男は記憶を辿り続けた。今はアトラスの王妃で、当時は敵国の姫エリュティアが、領主の妻の奸計で町を脱出したこと。彼女を捕らえようと追ったときのこと、おそらくは彼女の護衛が追跡者を足止めして逃がす時間を稼ぐため、僅か十数名のシュレーブ国の兵が彼らの前に立ちふさがったこと。その兵士は逃げもせず恐れもせずフローイ兵の剣に倒されるまで戦ったこと。それはまるで若い指揮官を守るような死に様だったこと。最後に残った若い指揮官も勇者にふさわしい最期を遂げた事。

 男はその記憶を締めくくるように言った。

「剣を見る度に、あの若者の最後をご遺族に伝えねばならぬと思うようになりました。それが私の生きる使命だと」

「剣を交わしたと言う事か」

 アトランティスでは尊敬する勇者と自らの剣を交換する習慣がある。アトラスは男が若者の忠誠と勇敢さに感銘を受けたのかという。男は大きく頷いて言った。

「剣の造り見れば名のある貴族の持ち物。しかし、リマルダの地では紋章が分からず、シュレーブ国の旧臣の集まるこの地なら分かるかと参った次第であります」

「それで分かったのか?」

「私などよそ者。どうやって旧臣の方を探せばよいのやらと、途方に暮れておりました」

 ここで男は思いついたかのように言葉を継いだ。

「王にこの剣を託す事はできませぬか」

「私はルージ国の人間だぞ」

「王はルージ国の方とはいえ、シュレーブ国の旧臣にも顔が利く。この紋を知る者を見つけるのも容易かと」

 アトラスが男に共通点を見つけたように、男もまたアトラスに知古のような親近感を抱いていた。いつしか二人は穏やかな雰囲気の中、身分差を感じさせない言葉を交わしていた。

 アトラスは頷いた。

「分かった。引き受けよう。他に何か望みはあるか」

 アトラスの言葉に、男は首を横に振って充分だと伝えた。

「この剣をアトラス王に託した事で、私の命にもその価値があったのだと」

「私は、そなたが仕えるには役不足か? そなたほどの歴戦の勇士なら喜んで配下に迎えたい」

 アトラスの誘いに、男は言葉を選ぶ短い間をおいて、話題を逸らした。

「僭越ながら、もし私がアトラス様のお命を狙う暗殺者ならどうされました?」

「そなたが私の命を狙うと?」

「先ほど、アトラス様は避けられぬ運命を受け入れるように、死をも覚悟なさったようにもお見受けいたしました」

 確かに、アトラスはこの剣を見た時に、自分の命を運命のニクススゆだねて迷わなかった。男は大切な物を捧げるように、剣をアトラスに差しだして言葉を継いだ。

「あの若者は、自らの使命に巡り会ってそれを果たしたとき、自らの命に幕を引いたのでしょう。この剣は人が自分の使命に巡り会い、それを果たすまでは生かしてくれるような気もいたします。今のアトラス様に必要なのは、私ではなくこの剣でありましょう」

 男はアトラスが生きる目的を見失っているのではないかという。アトラスは素直に頷いた。

 男はこの出会いを締めくくるように、薬缶に残った湯を焚き火にかけて消した。煙とも湯気ともつかぬ物が辺りに漂った。彼は僅かな荷を背負い袋に片付け始めた。再び旅を続けるつもりだろう。アトラスは男を引き留めなかった。男が去る方向を眺めれば森を抜けて西。巡礼の目的は果たして故郷に帰るつもりか。アトラスが与えられた剣に目をやっている内に、まるで男は森に融けたかのように姿を消していた。ただ、確かに男が存在した。その証拠に、焚き火の跡に手をかざせば温かい。燃え残った薪が浴びた湯に陽の光が反射して輝いていた。

「輝きの精霊ルヒニか」

 冬の門を司る女神シミリラが吹かせる風に潜む精霊で、その姿は見えず、光を受けた水や氷の輝きの一粒ごとに輝きの精霊ルヒニが居るとされていた。輝きと共に生まれその消滅と共に死ぬ。短い命の象徴だった。

 短いと言えば、アトラスはパトローサの方向から接近する二人の姿を見つけて苦笑いと共に文句を言った。

「考え事をする暇もない」

 誰を使者に立てるか、未だ思いつかない。王に叱られるのではないかと、遠慮がちに様子を窺うアドナとレクナルスに、アトラスは手招きして尋ねた。

「ラヌガンはどうした?」

 考えていた使者の候補者の姿がないことに首を傾げたアトラスに、アドナが言った。

「エリュティア様に客が来た。ラヌガンもその応対をせねばならぬと言った」


 思いもかけない来客がエリュティアを訪れていた。

この物語はアトラスとエリュティアの人生を軸に、他の多くの人々の人生が絡み合っていく構成です。今回はゴダルグの領主エルグレスの剣についての伏線を回収するエピソードなのですが、伏線を入れてからずいぶん経つので、読者の皆様に忘れられて居るでしょうか。男がエルグレスのレンを手に入れるエピソードも読み返していただけるとうれしいです。

「反逆児アトラス第二部」第341話「エルグレスの死」

https://ncode.syosetu.com/n1223cb/341/

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