喜びと絶望
ユリスラナは自分の迂闊さを恥じた。思いもかけない再会に驚いて、エキュネウスの上着の肩の辺りに僅かだが血が滲んでいるのに気づかなかった。おそらく、エリュティアとの面会を求めるために王宮に訪れる前に固く巻いていた包帯を解いて平静を装っていたのだろう。
「さぁ。こっちへ来て」
ユリスラナはエキュネウスの手を曳いて宮殿の奥の小さな部屋に案内した。簡素なベッドが一つあり、棚に小さな壺がいくつもあって、部屋の中に漂う薬草の香りから、何かの薬だと分かった。部屋の奥にある小さな祭壇にある女神像は、アトランティスの人々が信仰する健康の女神だろうと想像がついた。
エキュネウスは部屋の中を見回して言った。
「薬師はどこだ?」
こういう場所には患者の治療に当たる医師やその補助をする巫女が居るはずだ。しかし、ここは宮殿の奥で、必要に応じて貴人が薬師の診察や治療を受けるためだけの部屋。普段は薬草を保管しているだけで人はいない。
ユリスラナは微笑んで言った。
「私、子どもの頃に怪我をした牛の手当をした事があるの」
その子どもの頃の経験を生かして、エキュネウスの肩の包帯を取り替えると言う。もちろん冗談である。彼女は聖都攻防戦の折、エリュティアと共に多くの負傷兵の手当をした。兵士の苦痛の呻きや手足を失った絶望感ですすり泣く大勢の兵たちに、痛む傷口から包帯をはぎ取り、薬を塗り、再び新しい包帯を巻く残酷な経験をした。
エキュネウスは素直に上着を脱ぎ、上着の下に薄い包帯を巻いた上半身を露わにした。いつにない彼の素直さと、じっとユリスラナを眺める視線に、ユリスラナは首を傾げた。
「なあに?」
「先ほど、エリュティア様が運命の話をされた」
彼はそう言いながら、彼女が包帯を解きやすいよう左腕を挙げて傷の痛みに眉を顰めた。矢が肩の筋肉を指一本分ほどの長さに抉った傷だった。大きな出血は止まっていても傷は赤く、ふさがりきらない部分に血が滲んでいた。
ユリスラナは眉を顰めて思った。
(全く。この男は)
全軍を指揮するアトラスは聖都にいたエリュティアにこまめに近況を伝えていた。その細やかな愛情に比べれば、このエキュネウスは、負傷したらしいと言う情報だけで、その安否が分からないままユリスラナをやきもきさせていた。彼女はその恨みを込めて指先に力を込めて傷に油薬を塗り込んた。新たな痛みに眉を顰めてユリスラナを眺めたエキュネウスは、彼女がじっと涙を堪えているのに気づいて、何も文句は言わなかった。
彼は温和しくユリスラナに身を任せて包帯を巻かれながら言葉を続けた。
「初めて出会ったときのこと。その後、交わした言葉。それから私が生きて戻って、今、そなたの目の前にいる事。これは運命だと思わぬか」
微妙な愛の告白に、ユリスラナは顔を背けて指で涙を拭ってから拗ね見せた。
「エリュティア様のことが好きだったくせに……」
本心を見抜かれたエキュネウスは驚きと戸惑いを隠さず言った。
「そんな事がわかるのか」
「分かるわよ。貴方のことは全部ね」
包帯を巻き終わった時、二人を阻む距離は頭一つ分。そんな距離で二人は次の言葉を探すように黙りこくった。先に心の整理が突いたエキュネウスが慎重に言葉を吐き出した。
「しかし、憧れると言うのと、愛するという事が別だと分かった」
「別ですって?」
「エリュティア様は、お美しく、お優しい。すばらしい女性だ。ただ神殿の女神像とおなじ。自分一人のものにしていい存在ではない。しかし、お前は暴力的でがさつだが、側にいると心が安らぐ。一緒に生きたいと思うのが女性を愛するという事なら、愛する相手は……、ユリスラナそなただ」
素直すぎる愛の告白だが、暴力的とか、がさつとか余計な表現が混じっていた。一瞬、眉を顰めたユリスラナの肩に、エキュネウスは優しく包帯をされた腕を回して引き寄せた。
それは、今までに二人が経験した偶然や悪戯のようなキスではなかった。この相手が自分と共に生きる人だという幸福な思いを込めて唇を合わせ腕に力を込めて互いの体を抱いた。
一時、ユリスラナはエリュティアの事を忘れて、濁りのない透明な愛欲におぼれた。体をかわす事が淫らではなく、二人を結ぶ愛しい赤児を想像させる幸福な瞬間だった。
二人が結ばれた明くる日、アトラスが王宮に戻った。体調が思わしくないテウススを気づかって、エキュネウスにスクナ板を持たせて先行させた後、一日の間をおいてスタラススを介護に残して、アドナとレクナルスを伴って馬を飛ばしてきた。
(これこそ、愛というものだわ)
王宮に帰還するや否や、妻の元に駆けつけたアトラスを眺めてユリスラナはそう思った。あの女への優しさに鈍いエキュネウスも、この王から女性の扱いを学ぶと良い。そのアトラスの傍らでアドナがやや満足げな表情で居る。
パトローサからの知らせによれば、ラヌガンとマリドラスは滞りなく作戦を進めているし、その戦術にもアトラスは異存はない。
王宮に入るアトラスに、アドナがしっかり教え聞かせていた。
「ラヌガン様とマリドラス様は滞りなく事を進めている。それなら、王は王宮に戻ったらまず愛している妻の元へ行かねばダメだ」と。
アトラスはその意見を受け入れる形を取ってエリュティアの居室を訪れた。アトラスの傍らにはアドナ、エリュティアの傍らにはユリスラナが居る。二人はこの部屋に漂う雰囲気に首を傾げあった。
二人の目から見て、アトラスとエリュティアは離れていれば互いに素直な愛情を示すのに、向き合っている時には微妙な距離感がある。
(愛していると言わねばダメだ)
アドナは何度言ったか分からぬ事をもう一度言い聞かせようとした時、ユリスラナがその言葉を察して首を横に振った。
(今はこの二人に何を言っても無駄。しばらくそっとしておきましょう)
ユリスラナのそんな思いを察したアドナも了解した。二人はアトラスとエリュティアに一礼すると、肩を並べてエリュティアの居室を出て、廊下と部屋を仕切る分厚いカーテンを閉じた。二人はそのままカーテンの左右に立っていた。ユリスラナはエリュティアの侍女として、アドナはアトラスの護衛として、主人の求めに応じて即座に駆けつける事が出来る位置。部屋の中の声が漏れ聞こえるが、二人は決して盗み聞きをしているわけではないと考えている。
二人の目論見通りカーテン越しにアトラスとエリュティアの会話が届く。
「すまぬ。約束が果たせなかった」
「アトラス様こそ、ご無事で何より」
「フェミナ様とご子息は、グライス殿の墓の横に埋葬するそうだ。これから国を治めると言う時に、無惨な事だ」
その寂しげな景色を想像して味わうように、僅かに沈黙が続いた。エリュティアが哀しみを逸らすように話題を変えた。
「昨日、エキュネウス殿と、フェミナの話をいたしました。フェミナにとって、父上に命じられた結婚でしたが、愛する方に恵まれたとの事。ひょっとしたら、今は静寂の混沌で、ご子息を挟んで夫婦仲良く幸せに過ごしているのやもしれません」
すこし沈黙を置いてエリュティアが続けた。
「私も思いました。私も幸福になって良いのかなと」
そのカーテン越しの言葉に、ユリスラナは大きく頷いた。続いてアトラスの言葉が響いてきた。
「それは、私がそなたに幸福にしてもらっても良いと言う事だろうか」
漏れ聞こえたアトラスの言葉に、アドナも頷いた。エリュティアとアトラスの会話が続いた。
「私にその力がありますなら、是非ともアトラス様と共に……」
「私も、そなたと共に……」
それを聞くユリスラナとアドナの想像では、愛し合う男女は優しく抱き合い、唇をそっと重ね合わせている。
しかし、順調に愛が深まる会話が続く中、ユリスラナとアドナ、二人がそろって眉を顰める邪魔者の足音が近づいてきた。ラヌガンだった。自分がどうしてユリスラナとアドナに睨まれているのか分からぬまま、カーテンの向こうへ声をかけた。
「我らが王よ。ここに居られると聞いてお伺いしたのですが……」
ややあって、部屋の中からアトラスの声がした。
「ラヌガンか。入れ」
厳格な王の口調だった。ユリスラナとアドナは舌打ちしたい思いで、もう一度ラヌガンを睨み付けてから、ラヌガンと共に部屋に入っていった。
姿を見せたラヌガンに、アトラスは機嫌良く言った。
「ヴェスター国の問題はさっさと片付けて、エリュティアを連れてルージに戻るぞ」
その言葉に部屋の時間が凍り付いた。
ルージ島がそこに住む人々と共に海に沈んだ。僅かに生き残った者たちがそれを伝えていたし、ラヌガンたちは軍船を遣わしたが故郷を見つける事は出来なかった。その知らせはアトラスにも伝えては居たが、日々の出来事に忙殺されてきたアトラスには、未だ受け入れられない出来事だったのだろう。
周囲の沈黙を察したアトラスは短く尋ねた。
「では、あの件は事実に間違いがないのだな」
ラヌガンは頷いた。沈黙の哀しみや絶望の表情が複雑に入れ替わる間を置いてアトラスは話題を変えた。
「用件とは何だ?」
「我らが王よ。マリドラスより使いが参り、戦況を伝えて参りました。ラマカリナからオスアナに侵攻したヴェスター軍は二千五百。オルエデス殿が指揮を執っているとのこと」
「それは確かか?」
兵士の数やその兵士をヴェスター国の王子が率いているとなれば、国境の小競り合いではなく、本格的に侵攻を試みていると言う事である。ラヌガンは情報の正確さを言った。
「ラマカリナの民はヴェスター国の圧政に恨みを抱いております。その民が語る事、嘘はありますまい」
ヴェスター国は聖都を攻めた折、各地で食料を徴発し、土地の男たちを労役に狩り出し、女たちを犯した。シュレーブ国を分割して自国の版図に組み入れた後も重税や労役に苦しんでヴェスター国への怨嗟の声が途絶えていない。
ラヌガンは更に報告を続けた。
「今ひとつ。ラマカリナ領主ブルクドル殿が、我が国に内通したいと。王よ。これは好機ですぞ」
敵は兵力の大半をオスアナに注ぎ込んでラマカリナの防御は空に近い。攻め込めばその地は容易に奪えるばかりか、領主や民もそれを望んでいるだろう。そして、オスアナに攻め込んだオルエデスの軍は補給路も退路も断たれて自滅する。
しかし、この時のアトラスは目の前の状況ではなく過去の口約束に拘った。
「レイトス殿が何故オスアナを狙ったのか分からなかった。しかし、オルエデス、あの戦下手なら欲に駆られて無謀な戦をするのも合点が行く」
「では、どうされるおつもりで?」
「この戦。レイトス殿の意志ではない。ヴェスター国へ使者を立て、今一度、先の聖都での約定に従い、次のアトランティス議会を迎えるよう伝えねばならぬ」
故郷と家族を失った。その事実と向き合わざるを得なくなったアトラスの心は乱れ、今はただ一人になりたい。彼の頭の中には過去の口約束だけのアトランティスの安寧という選択肢しかなかった。
そのアトラスの判断にラヌガンが首を傾げて言った。
「しかし、ブルクドル殿とラマカリナの民を見捨てるので?」
マリドラスの報告によればブルクドルは内通に向けて行動を起こしている。当然、その裏切りはヴェスター国王や王子の知るところとなる。領主は死刑、その民には今までより更に重い弾圧が待っている。
アトラスは言い訳をするように叫んだ。
「見捨てるのではない。レイトス殿にお任せするということだ」
「しかし、王よ」
食い下がるラヌガンにアトラスは不機嫌さを隠さなかった。
「くどいぞ。既に決めた事」
アトラスはそう言い捨てて部屋を後にした。残された者たちは無言だった。この判断はアトラスにとって大きな哀しみと後悔を伴う結果になった。




