アドナの思い
その日、アトラスは一人の兵士の葬儀に立ち会った。
「ああっ、やっと海が見られる」
それが亡くなったルージ兵の最後の言葉だったという。アトラスと共に海を越えてフローイ国に上陸して以来、激戦をくぐり抜けてきたが、聖都開放の最後の日に傷ついた。その傷が癒えぬまま時が過ぎて、帰国を前に亡くなった。
戦が終わった今、アトラスは兵士たちを早く故郷に帰してやらねばならないと考えていた。
そんな王の心情を察したようにテウススが尋ねた。
「兵士たちをどうするおつもりで?」
「故郷へ帰してやらねばなるまい」
そう答えながらも、アトラス自身はこの地でやり残した事があると考えている。彼のルージ島への帰国は早ければ冬、王妃の容態次第では来年の春の終わりになると考えていた。
スタラススがそんな心情を察しながらも言った。
「しかし、我らが王は、未だこの地に留まるおつもりでは?」
スタラススがそう言ったのは、母国から連れてきた兵を帰せば、王の身辺を守る兵が少なくなりはしないかと言う事である。
「護衛ならば、ギリシャ兵たちが居る。旧王都に行けば、ラヌガンたちの兵もな」
聖都攻略前、聖都の西に位置するシュレーブ王国の王都を攻略した。その後、彼が最も信頼する将のラヌガンとその叔父のマリドラスに五百の兵を与えて守らせた。その兵がまだ残っていると言うのである。
しかし、兵を故郷へ帰すというなら、そのラヌガンの兵も帰してやらねばならず、ギリシャ人たちもいつまでも兵士の身分に縛り付けておくわけには行くまい。
三年間うち続いた戦で、アトラスは配下の者たちに果敢な判断を示し続けた。しかし、今のアトラスは別人のように、戦の気配には目をつむり続けていた。
「いつか目覚めてくださる」
「しかし、間に合えばよいのだが」
「我らは王を信じるほかあるまい」
近習たちは祈りを込めてそんな自問自答をしていた。
ルージ兵を故郷に帰すのと同時にもう一つすることがある。アトラスにとって眉を顰めたくなるやっかいな仕事だった。しかもその相手は勘が良く、今も不信そうにアトラスを眺めていた。
アトラスは言った。
「アドナよ。ラステスと共にルージへ渡れ」
ラステスとは戦死したサレノスの側に仕え続けてきた男で、サレノスの養子ゴルススの成長も見守り続けてきた。目だたず控えめな男だが、言葉を発すればサレノスへの敬愛とゴルススを見守る言葉があふれ出す。アトラスの見たところ、ラステスの態度に仕える主を失った哀しみと同時に、アドナに包容力のある父のような視線を注いでいることに気づいていた。彼ならアドナを支えてくれるだろう。
ギリシャ人を領主にするという前例はないが、忠誠と戦功は充分だった。ただ、奴隷上がりの女は礼儀を知らず、言葉が荒っぽく、不満を隠さない。
「また、私を遠ざけるつもりかい」
ギリシャ兵部隊が大きな被害を被って指揮官が不足した時、アトラスは身辺の護衛に付いていたアドナを指揮官の身分にして百名の兵を預けた事がある。見方によっては昇進だが、王の護衛を自認する彼女は王から遠ざけられたと不満なのである。
「いや。アイネアスが何故そなたを指揮官から解任し、私の元へ戻したのか考えてみよ」
聖都を強襲する危険な戦いの前、ギリシャ兵の総指揮官のアイネアスはアドナをアトラスの護衛に戻すよう意見具申し、アトラスはそれを受け入れて今の彼女は王アトラスの傍らにいる。
アドナは言った。
「大勢の仲間が死んだ。でも私は生き残った。人の命は軽い。軽い命なら信じる者のために尽くしたい」
「戦をするのは男でいい。女は女として生かしてやりたい。アイネアスはそう考えたのではないか」
アトラスの説得にアドナは頑固に言い放った。
「いいや、そんな言葉は聞けない。私は、ゴルスス様の所へ行きたいのだ」
「ゴルススの元へ?」
「ゴルスス様はアトランティスのお人で、亡くなったら静寂の混沌に召されるという。私はギリシャ人で、奴隷の身分だった。死んでもゴルスス様の所へは行けないのでは? でも、ゴルスス様との約束を果たせば私だってゴルスス様の所へ行けるかも知れない」
滑稽で単純な考え方だが、彼女は信仰のように一途にそれを信じようとしているらしい。普段はアドナをからかうスタラススも、いまは彼女の言葉にそっと耳を傾けていた。
「わかった。王都まで同行させよう。ただし、私がルージへ帰る時にも同行するのだぞ」
「分かった」
アドナは機嫌を直してにこりと笑った。アトラスや近習たちも彼女に吊られて笑うほかない。
アトラスがアドナや近習たちと並んで、故郷に帰るルージ兵の隊列を見送ったのは明くる日だった。多くの兵が戦死して静かになったと考えていた陣も、ルージ兵が去ると更に広々として寂しい。
二日の間をおいて、アトラスはその陣にギリシャ兵たちを整列させた。