エリュティア、命の価値
(やりにくくなった)
聖都からパトローサへとエリュティアが戻ると聞いた時、パトローサの管理を任されているラヌガンとマリドラスの率直な感想だった。民に慕われるエリュティアの人柄は知っているし、彼女がアトラスに向ける信頼も理解している。ただ、今のラヌガンとマリドラスは、彼女にアトラスの母リネの印象を重ねていた。
アトラスの父リダルの勇猛さはアトランティス全土に鳴り響いていた。ただ、その王が住まう舘は他国から女の舘とも哄笑されていた。王妃リネが自分が嫁いできたヴェスター国の権威を背景にルージ国の政に口を出した。今、ヴェスター国の突然の侵入で混乱する中で、エリュティアにあれこれ口を差し挟まれる事は避けたい。
そんなラヌガンとマリドラスが戦況を論じている広間に、侍女頭のハリエラナが姿を見せて二人に告げた。
「エリュティア様がご帰還なさいました」
ラヌガンはハリエラナも信頼する旧臣の名を挙げて答えた。
「ライトラスにお出迎えの準備をさせておりますが」
彼らはエリュティアのために、まずは湯浴みや食事で旅の疲れを取ってもらい、その後に帰還の宴を開くという準備を整えていた。しかし、ハリエラナの背後からエリュティア本人が現れて尋ねた。
「フローイ国の騒乱がどうなったのか分からぬ間に、我が国でも戦の気配が起きていると聞きました」
王宮の会議室に旧シュレーブ国の地図が掲げられていた。敗戦と共に今は四カ国に分割されている。エリュティアはそんな地図を見上げていた。兵の指揮を任されているとは言え、王妃を無視するわけにも行かず、ラヌガンとマリドラスは今の状況を説明せざるを得ない。
ラヌガンが説明した。
「オスアナ領主エゴイナス殿からヴェスター軍侵入の知らせがあったのは五日前。今はニアハ、ガレナル、パリナルの領主が兵を率いてオスアナへと救援に向かっているところ」
エリュティアにしてみれば、そのどの領地も元はシュレーブ国の一部で、その領主たちの名と顔を記憶している。彼女にとって幼い頃から良く知る領主や民が血みどろで争う姿だった。
「この後、どうなるのでしょう」
エリュティアの哀しげな問いに、マリドラスが答えた。
「私の手兵にルナイロスから来るラクナル殿の兵を加えラマカリナへと兵を進めます」
エリュティアに兵の指揮などは分からないが、マリドラスが指さす先が、今、戦場になっている場所ではない事は理解できる。戦火は拡大するという危惧である。
「オスアナばかりか、ラマカリナの民にも戦火が降りかかるのですか」
戦場を広げようというのかと非難じみた口調のエリュティアに、マリドラスが説いた。
「敵はラマカリナに兵を集め、そこからオスアナへと進めました。今も食料や武具をラマカリナから調達しております。残る兵は五百そこそこ。その五百が街道の村々に散らばっております。我が手兵とラクナル殿の兵を合わせれば一千にはなります。敵の後方を脅かすに充分」
ラヌガンが指さす先をラマカリナからオスアナへと移して言った。
「オスアナに侵攻した敵も背後を脅かされた事を知れば、ラマカリナへと引きましょう。我らも機を見てラマカリナから兵を退けば、流す血も憎しみも最小限ですみましょう」
そう言った二人の民の評価は悪くはない。敵地だったパトローサの占領統治を任され、大きな争いもなく治めている。その経歴を通じて信用するに足る。何よりエリュティアには兵の進退は理解しがたい。
エリュティアは同意せざるを得ない。
「そう祈っております」
そんなエリュティアを眺めて、マリドラスは密かに考えても居た。もし、彼がラマカリナへ進軍するのと機を合わせ、エリュティアがその民に蜂起を促せば、ヴェスター国の統治下で圧政に耐えている民は立ち上がるだろう。ラマカリナの地は容易にルージ国の手に転がり落ちてくる。しかし、多くの民の血が流れる。
マリドラスはエリュティアに献策することなく言った。
「では、行って参りましょう」
三百の兵を率いてラマカリナとの国境の町に向かう。そこでいかにもこれから攻め込むぞと脅しをかけて敵の動揺を誘い、西から来るラクナルの兵を加えて、国境を越える。
叔父マリドラスの背を見送りながらラヌガンが言った。
「では、叔父上、必要なら私も駆けつけます」
ラヌガンの率いる騎馬兵はパトローサに残る。敵が侵攻したオスアナに増援を送りつつ、敵の背後を脅かすというのは理にかなった最善の戦術に見える。ただ、敵がラマカリナに兵を集めてオスアナを襲うというのは、一見すれば戦術上未熟だった。ルージ軍をおびき出そうとする裏の意図があるのかも知れない。その戦況の変化に応じるために、ルージ軍の中でもっとも機動力と打撃力のある騎馬兵を残すのである。
侍女頭ハリエラナはそこまでの事情は理解できなかったが、会話が一区切りついた事は理解できたし、何よりエリュティアの疲れた表情も気にかかる。彼女はエリュティアを休ませる事に決めて、ラヌガンに一礼し、エリュティアの手を曳いた。
エリュティアは久しぶりに戻った王宮の居室を懐かしく眺め回した。
「ここだけは、あの時のままね」
彼女の記憶は二年以上遡る。当時敵だったアトラスの攻勢を避け、王宮を離れた。彼女はリマルダの地のガルラナスの館を経て聖都へと脱出した。ただ、彼女が浮かべた寂しげな笑顔は、この場所に欠けている者を思い起こしたからだった。彼女の父、シュレーブ国王ジソーも聖都へと脱出したが、ここに戻ることなく亡くなり、国も失われて今はルージ国の一領土となった。
ユリスラナも懐かしむように言った。
「叔母様が生きていたら、エリュティア様の帰還をどれほど喜んだか」
ハリエラナも同僚だったルスララの口まねをした。
「全く。殿御たちの戦好きな事」
エリュティアを守り育てるためなら、歯に衣を着せぬ物言いをする女性だった。その言葉も今の状況に良く当てはまる。
ユリスラナが大きく頷いて言った。
「男って本当に戦好き。アトランティスもギリシャも関係ないんです。こっちの気持ちなんか気にもとめないんですから」
突然に出てきたギリシャという言葉にエリュティアが思い当たる名を尋ねた。
「エキュネウス殿のことなの?」
ユリスラナが返答に戸惑う様子を眺めたエリュティアが念を押した。
「そうなのね」
最近、エリュティアはこの種の感情に聡い。
「湯浴みの支度が調っているか、見て参ります」
ユリスラナはそんな言葉を残して部屋から逃げ出した。
ユリスラナはギリシャという遠い海の向こうには思いが及ばず、エキュネウスの人物像をルージ島のアトラスに置き換えて考える事がある。
(お父上のお血筋?)
ユリスラナはアトラスの事を考えた。悪鬼という恐ろしげな異名はともかく、男女の愛について無愛想と言っても良い。ただそのアトラスが細やかな心遣いを見せる事がある。
アトラスがエキュネウスにエリュティ宛てのスクナ板を託したのもその心遣いと言えたのかも知れない。普通の使者なら王妃に近づく事など出来ないが、アトラスの親書を携えた使者なら面会を求める事が出来る。その面会の取り次ぎをするのは侍女のユリスラナである。遠く離れた町でアトラスもまたエキュネウスの微妙な感情に気づいていた。
王宮の門で深呼吸して気分を落ち着けたユリスラナにとって、エキュネウスが王宮に姿を見せたのは突然の事になった。エキュネウスは、アトラスの使者としてエリュティアへの取り次ぎを求めた。
エリュティアは噂をしていた二人が顔を並べて現れた事に笑顔で驚きを見せた。しかし、エキュネウスの表情に用件の内容を察して彼女もまた表情を曇らせた。
エキュネウスは布に包まれたままのスクナ板を胸に抱いたまま言った。
「フローイ国のフェミナ様とご子息のグラシム様ご両名の事、スクナ板で持参いたしました。しかし、『約束は守れなかった。すまぬ』と口答で伝えてくれとの事でした」
文字では書き尽くせない思いだったのだろう。エリュティアは差し出されたスクナ板を受け取りながら尋ねた。
「二人は亡くなったと?」
エキュネウスは小さく頷いて言った。
「詳しくは、そのスクナ板に書かれているかと」
彼女はスクナ板を通じて亡くなった者に謝罪するかのようにそれを強く抱いて言った。
「フェミナ。許して頂戴。私はアトラス様の消息が途絶えた後、私の虫の良い約束など眼中になく……。あの方の無事ばかり考えていました」
頻繁に連絡をよこしたアトラスが山岳地帯に踏み込んで音信不通になった時の事だろう。彼女はエキュネウスに視線を注いで言葉を継いだ。
「あの方のご無事を知った後、私は運命の事を考えていました」
「運命の事?」
「二人は入れ替わって、フェミナがルージ国に嫁ぐ運命もあったはず」
歳が似た二人は共に男たちの政略結婚の道具だった。エリュティアが西の大国フローイの王子グライスに嫁ぐ運命もあった。
「ご覧の通り。私は不覚にも矢傷を負いました。矢があと僅かにずれていれば、胸を貫かれて私も生きては居なかったでしょう。今、私が生きている。私の運命はそれだけです。他に選びようはありません」
「でも、私は考えたのです。人は誰でも、いつかは死ぬ。それなら、大事な事は、誰かを幸福に出来たかどうかだと。フェミナとグライス殿は互いを幸せにし、幼いグラシム様は母を慰め短いながらフローイ国の民にも希望を与えた。皆、価値のある命だったのではないかと。では、私の命に価値はあるのでしょうか。以前はシュレーブ国の姫として、今はルージ国の王妃として崇められてきただけ」
「お一人ならそうお考えになるかも知れません。しかし、エリュティア様は、つい先ほど申された。アトラス様の無事ばかり考えていたと。その思いによって、アトラス様の命には価値がある。そのアトラス様を支えて居ると言う事で、エリュティア様の命にも価値があるのだとお考えになってはいかが」
「二人なら命の価値も生まれるのですか」
エリュティアはそう呟きながらふと振り返って気づいた。普段はさりげなくエリュティアの様子を気づかっているユリスラナは、今だけはエリュティアなど眼中になく、目の前のエキュネウスの一挙一動を注意深く眺めていた。エキュネウスもエリュティアと言葉を交わしながらもその視線はユリスラナに向けられている。
エリュティアが消息の途絶えたアトラスの安否を気づかうように、エキュネウスが負傷したという僅かな知らせは、ユリスラナの心をかき乱し続けていたのだろう。エキュネウスを眺めれば、彼は平静を装っているが左腕の動きが鈍い。二人いれば命の価値も生まれるというのは、この二人にも当てはまるだろう。エリュティアは命じた。
「ユリスラナ。エキュネウス殿の手当をして差し上げて」
この命令で、エリュティアの側に侍るユリスラナの任は一時解かれ、二人だけの時間がうまれる。




