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再び、パトローサへ

 アトラスは戻されたスクナ板を地に叩きつけたかと思うと、激しい口調でレクナルスに命じた。

「パトローサのラヌガンに返事を。『我が領地を荒らす者を、断固叩き出せ。ラクナルら領主の兵を再度招集し、統一指揮をマリドラスに任す』と」

 スタラススたち、アトラスの側に仕える者はその言葉に息を飲んで、アトラスの真意を探るようにその表情を眺めた。この王は常に戦の先頭にいた。そして、その戦は明確な目的があり、兵の命を無駄にすり減らす事も避けていた。しかし、今のアトラスはもっとも信頼する者に裏切られた怒りを露わにし、その命令は自分を見失っているように見える。

 首を傾げたスタラススたちに、デルタスがアトラスを支持して言った。

「アトラス様の言われるとおりだ。戦火は大きく燃え広がる前に叩きつぶすが肝要」

 アトラスは近習たちの疑問を振り払うように言った。

「そうと決めたぞ」

 そうと決めたというのはアトラスの父リダルの口癖で、最終決定は下してもはや判断をひるがえすつもりはないと言う事である。デルタスとロットラスは、牙狼王と呼ばれて恐れられたリダルの血筋を眺めた思いだった。

 アトラスは矢継ぎ早に命じた。

「クセノフォンとダミアノス、それからマカリオスを呼べ」

 アトラスはレクナルスに視線を転じて尋ねた

「今、我が陣に馬は何頭いるか?」

「物資の運搬に五頭ばかり連れてきております」

「それで充分。スタラスス、レクナルス、アドナ。そなたたちは私と共に馬でパトローサへ」


 アトラスは駆けつけたクセノフォンとダミアノス、マカリオスの三人の姿を眺めて命じた。

「ダミアノス。そなたはこのフローイの地に長い。家族も居よう。同じくこの地に家族の居る者たち二百をそなたに預けてここに残す。ロットラス殿の元で家族の保護と避難民の救援に当たれ」

 アトラスは視線を移して言葉を継いだ。

「クセノフォン。そなたの指揮は頼りにしている。残念だがここで解放してやるわけにはいかぬ。残りの兵を率いてパトローサに向かう私に追従せよ」

 クセノフォンはもちろん王に従うと言うように頷いた。


 明くる日の朝、亡くなったフェミナと幼い王の遺体が、王宮の瓦礫の中から見つかったという知らせが王都カイーキの外に駐屯するアトラスに届いた。

 アトラスは出発の予定を遅らせて、二人の遺体に帰途につく挨拶をして行く事に決めた。既に最後の別れは済ませたつもりだったが、再び対面する気になった理由は自分でも分からない。約束を守れなかった罪滅ぼしを僅かでも果たそうとしたのだろうか。


 王宮だった廃墟の一角に簡素な祭壇がしつらえられて、顔を除く全身を白い布にくるまれた母と子の遺体が安置されていた。宮殿の広間では壁や天井が大きな瓦礫になった。二人の遺体はその大きな瓦礫の隙間にあって奇跡のように傷ついては居ない。

(このように美しい方であったのか)

 レクナルスはそう思った。フェミナの安らかな死に顔から、恨みや憎しみを感じ取る事は出来ない。その傍らの幼い王の遺体には王の地位を示す冠と指輪が置かれていて、この国が指導者を失った事を改めて教えてくれた。

 アトラスは遺体が安置された祭壇の前に片膝をついて頭を垂れたが、二人の遺体に何を祈ったのか分からなかった。静かに立ち上がったアトラスにロットラスが語りかけた。

「グライス殿の傍らに仮埋葬し、本格的な葬儀は準備が整った後に行う予定です」

 彼が悪気無く口にしたグライスの名はアトラスの心に刺さった。その人物は目の前の母と子の父親で、アトラスが死に追いやった。アトラスは短く答えただけだった。

「そうか」

 宮殿を囲んだ塀も大半は崩れ去り、その外を通る街道の人々の姿も見える。人々も仮の祭壇に安置された遺体の正体を知るように丁寧にお辞儀をして通って行く。いまやフェミナと幼い王の死は民の噂になって広がっていた。

 アトラスはそんな民の冷ややかな視線を浴びながらロットラスに一礼して背を向けた。

「では、私はパトローサへ戻る故、これで失礼する」

 そんなアトラスの背にデルタスが言葉をかけた。

「では、このフローイの地は、アトラス様に代わって私が一時お預かりしておきましょう」

 主を失ったフローイ国が既にアトラスの所有物だと言わんばかりだった。しかし、今のアトラスはそんなニュアンスに気づく事も出来ずに、寂しい笑顔を浮かべただけだった。

「デルタス殿がロットラス殿の手助けをしていただけるなら心強い」

 

 廃墟となった王宮から南の城門まで両側に様々な商店が並ぶ幅広く賑やかな街道だった。今はその商店の大半も原形を留めずに街道へ崩れ、その幅を狭めている。帰途についたアトラスはそんな狭い街道を障害物を避けて歩きながら、民と至近距離ですれ違っていた。

 マントから覗く片腕。その武人の姿と名を民もよく知っていた。子どもを抱いた女はその姿を避けて路地に逃げ込み、男は露骨に地に唾を吐いて嫌悪感を示した。悪鬼ストカルというのが、人々がアトラスに抱く恐ろしげで不吉な印象だった。

 最初に姿を見せた時にはこの王都カイーキを戦火に晒し、今また蛮族ゲルエナサスの襲来に合わせて姿を見せたかと思うと、王都カイーキが壊滅するほどの地の揺れも連れてきた。

 アトラスはそんな王都カイーキと人々に背を向けて、ゲルエナサスをそそのかし、援助を与えて王都カイーキを攻めさせた者の存在を考える事を忘れていた。


 王都カイーキから馬を飛ばし、途中の村で疲れのない馬に乗り継いでパトローサまで二日の距離。


換え馬のないアトラスたちは、馬を乗り潰さないよう休ませながら進まねばならない。冬に入って夜明けは遅く日暮れは早い。一日に進む距離は削られている。それでも四日もあれば到着する距離である。

 ルウオの砦を抜け、フローイ国の領地となったシフグナも通り過ぎて、今はルージ国になった土地にたどり着いた。街道が森を通るところでアトラスは休息を命じた。

「この馬たちはアレスケイアほど強くはない。ここいらで休ませていこう」

 彼は愛馬の名を挙げてそう言った。幼い頃から心に秘めた思いを吐き出す事が出来る物言わぬ親友だった。その親友も今は老いてパトローサの馬屋にいる。

 幼い頃からの親友というと今一人、負傷しているテウススが居る。スタラススが首を傾げた。

「どこかでテウススと会えると思って居りましたが」

 負傷の傷を癒すために戦場から後方の町に下がっている。アトラスたちがパトローサに向かう途中に出会えるはずだが、未だ出会えていない。アトラスはその通りだと残念そうに頷いた。

 レクナルスが話題を変え、笑顔で旅を評した。

「旅が順調すぎると、何か不吉な気もします」

「森の悪霊ツツミスに聞かれてしまうぞ」

 アトラスがそう言って笑ったのは、森には人の言葉を聞いて不幸をもたらす悪霊ツツミスがいるという冗談である。

 果たして、もたらされた不幸が悪霊ツツミスによるものだったのかどうか、彼らは森を通過したところに小さな村を通りかかった。

「あれは?」

 アドナが気づいて指さしたものをレクナルスが評した。

「ルージの軍旗に、入り口にいる兵はエキュネウス殿の兵」

「ここに居ったのか」

 アトラスは懐かしげにそう言った。小さな宿に掲げられた印は、そこで負傷したテウススが静養していると言う事だろう。

 そのアトラスたちの来訪を知ったエキュネウスが宿の入り口で出迎えた。左肩に固く巻いた包帯の内から血が滲んでいる。そんな左腕を肩から吊っていた。

「おおっ、エキュネウス。我が友よ。テウススを救ってくれたとか、礼を言う」

「いや。敵の矢を盾で避けきれず、肩をかすっただけ」

「テウススは?」

 アトラスの笑顔の問いに、エキュネウスは表情を曇らせて答えた。

「本来はルウオの砦で静養を続けるべき所、パトローサの異変の報に接して、パトローサに戻らねばならぬとここまで来ました。怪我の容態も考えてお留めしたのだが」

「彼は頑固だ、私よりもな」

 そんな会話を交わしてエキュネウスに案内された小部屋に、アトラスはベッドに力なく横たわったテウススの姿を見つけた。

 テウススもまたアトラスに気づいた。

「このような醜態。申し訳ありませぬ」

 アトラスは状況を報告しようと起き上がろうとするテウススを制して言った。

「いや。体を労れ。戦況はスタラススたちから聞いている。無事で何よりだった」

 少し間をおいてテウススが力なく言った。

「フェミナ様とグラシム様がお亡くなりになったとか」

「そうだ」

 アトラスは寂しそうに微笑んで短く言い、テウススを休ませるよう背を向けて言葉を継いだ。

「そなたは急ぐ必要はない。ここでしばらく静養していくがいい」

 テウススは立ち去ろうとするアトラスを引き留めるように声をかけた。

「我らが王よ」

「何か?」

 アトラスの短い問いにテウススは念を押すように言った。

「デルタス様には油断なさいますな」

 パトローサと王都カイーキを往来する使者から状況を聞くにつれ、アトラス自身が考えたように王都カイーキを攻めた蛮族ゲルエナサスには黒幕が居る。ベッドに横たわって考えるだけの日々、テウススの頭に浮かび上がってきたのは、余りにもタイミング良く登場したレネン国王デルタスだった。

 アトラス自身もそれを考え、もっとも信頼する叔父に裏切られて信頼する者も居なくなった中で、何とか信じるものを求めて黙っている名だった。彼は短く答えた。

「わかった。記憶に留めておこう」

 アトラスは頼る者を求めるように胸に手を当てた。妻のエリュティアから彼女の願いと共に与えられたお守りがその指先の下にある。その妻が居るパトローサに到着するのは明くる日の事である。

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