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ギリシャ兵たちの思い

 クセノフォンは突然に駐屯地に姿を見せたアトラスに気づいて兵士に王のための幕舎を用意するように命じた。

 兵士たちの中からアドナの声が響いた。

「ああっ。無事でいたんだな。心配していたんだ」

 言葉は優しくとも、王に対する口利きは荒っぽい。しかし、いつもの事で誰も注意せず、アトラスは彼女の素直な人柄を愛でていた。しかし、今のアトラスは彼女との別れを思った。

(アドナも、彼女が望むどこかで、解放してやらねば)

 アトラスは元奴隷身分のギリシャ兵の解放を約束している。彼女もまたその一人のはずだ。しかし、アトラスは滑稽な事にその思いを否定もしているた。

(いや。彼女はルージ島に連れ帰り、サレノスの領地を与えねば)

 サレノスの領地どころか、アトラスが生まれ育った故郷は既に海に沈んでいる。この時の彼は心の中で知らせを知りながらそれを拒絶しても居た。

「休む」

 アトラスは短く命じた。その疲労を感じさせる表情に、王の命令に口を挟む者も居なかった。幕舎の奥には固いベッド、中央に小さなテーブルと椅子が二脚。テーブルの上の小さなランブがそんな狭い世界を照らしていた。

 スタラススとレクナルスはアトラスが甲冑を脱ぐのを手伝った後、顔を見合わせてアトラスの休息を邪魔してはならないと頷きあって、アトラスに一礼すると幕舎を出ていった

 疲れているが緊張感が抜けず眠くはない。アトラスは椅子に腰掛け、テーブルの上の灯りをじっと眺めた。

 その炎が揺れた。

「またか」

 アトラスは不快そうに呟いた。時折、アトランティスの大地が揺れる。アトランティスの人々は一回、二回と数える事も意味が無くなった大小いくつもの揺れを経験している。ただし、苦渋の決断の時の揺れは、あたかも神々が人間の愚かしい決断をあざ笑っているように気がして眉を顰めたくなる。

 

 やや夜が更けた頃、近習のレクナルスがアトラスの幕舎に顔を見せて来客を伝えた。

「デルタス様が面会を求めて居られます」

「デルタス殿が? お通し申せ」

 間もなく案内されてきたデルタスは、アトラスに微笑んで歩み寄り、後方に控えた従者が抱えた酒壺に視線を向けて誘った。

「アトラス様。今宵は月も冴えて美しい。どこかで酒でも酌み交わそうと」

 彼の言葉にアトラスは苦笑いして言った。

「残念ながら、私はあまり酒をたしなまぬ」

 アトラスの素直な言葉に釣られてデルタスも苦笑を浮かべて素直に答えた。

「実は、私も……」

 アトラスの真っ正直さには小細工が通用しにくい。アトラスはデルタスの意図を察した。どこかで余人を交えず話をしたいと言うのだろう。

 アトラスはデルタスに椅子を勧めながら、レクナルスに人払いを命じた。デルタスは勧められるまま椅子に腰掛け、王の住まいと思えぬほど簡素な幕舎の中ををゆっくり見回した。アトラスは旧知の相手に笑顔を浮かべていたが、デルタスを注意深く眺めてもいた。幕舎の外には不審者が王の幕舎に近づく事を妨げるためにかがり火が明るく焚かれている。幕舎の外に人がいればその影が映るだろう。

 アトラスの命令は良く実行されて幕舎の周囲に潜む人はいない。納得したデルタスはゆっくりと口を開いた。

「アトラス様は、今のフローイ国をどうお考えで」

まつりごとに信頼のおける重臣たちがおり、国を守る忠誠心のある武人たち、皆先代の王の頃からこの国を支えた者たちも多い」

「だから、国の安寧が守りきれるとでも?」

 その言葉に頷いたアトラスに、デルタスが言った。

「ボルスス王の血筋もグラシム殿で途絶えた。王家の血筋を辿れば後継者候補など十やそこらは居りましょう。その者たちが入り乱れて権力を争う。それは宮殿の内部だけでは収まりがつかず、フローイ国全土で剣を交わす血まみれの争いになる。それがお分かりか」

「自らの運命は自ら選ぶもの」

「自ら選べぬか弱き者どもはどうなるのです?」

 デルタスが優しく、しかし信念を込めて語る言葉にアトラスは答えられなかった。


 アトラスはふと思い出したように話題を変えた。

「デルタス殿。私は貴方によく似た男を知っている」

「それは、どなたで?」

「亡くなった我が兄、ロユラスだ」

「それは光栄な事」

 アトラスの兄ロユラスはリダル王の長子だが、母親がギリシャ人であるため王位継承権が無く、母と共に漁村で生まれ育った。デルタスは王の長子として生まれたが小国の悲しさ、留学という名目で幼い頃から人質として育った。

 二人は王としての才覚は感じさせながらも、自分の生い立ちを自虐的に考え、権力と距離を置く厭世的な気質を持っていた。

 今ひとつ共通点があるとすれば、権力や支配に興味はないが、持って生まれた自分の才覚を確かめたいと願う事か。ただ、アトラスは二人の違いを指摘した。

「どちらも、私が及びもつかぬ策略を思いめぐらしている。ただ、違いがあるとすれば、ロユラスはいつも笑顔で民の中にいた」

「なるほど。私には真似できません。しかしどうでしょう。アトラス王がロユラス殿に及ばぬと言う策略が、私にはある。ロユラス殿を失ったアトラス様を支える事も出来ましょう」

「それ故、デルタス殿の進言に従って、このフローイ国を奪えと? 私には出来ぬ」

 首を横に振って拒絶するアトラスに、デルタスは過去を振り返って説いた。

「三年前、ボルスス王は、孫娘リーミル様をアトラス様に輿入れさせて、国を一つにしようと図った。わかりやすく言えばルージ国の乗っ取りを図ったわけですな。ボルスス王が生きておられれば、今二つの国が一つになる事を苦笑いで眺めているのでは?」

「ボルスス殿とは敵同士になった。敵にそのような事を望むことはあるまい」

 苦渋に満ちた記憶を絞り出すアトラスに、デルタスはその後の経緯を語った。

「ボルスス殿の後を継ぐはずだったグライス殿は、敵だったアトラス殿を尊敬はしても憎んではいなかったとも聞く。血筋が途絶えた今、尊敬しあったアトラス様に後を託したいとも考えるのではありませぬか?」

「確かに、グライス殿は勇者だった。尊敬しているが、当時は後を継いだ姉君のリーミル様が居た」

「そのリーミル様こそ、拡大した領地、ひょっとしたらアトランティス全土をアトラス様と共に治める事を夢見ておられたのでは?」

 デルタスの言葉に、アトラスは答える事が出来なかった。しかし僅かな心地よさがある。アトラスが今まで心に封じて話せず、心の中で澱んで吐き気だけを感じ続けていた思いが、デルタスとの会話で吐き出して心が軽くなる気分だった。

 しかし、気づいてみれば、その心地よさの中で、アトラスがこのフローイ国に君臨する流れに乗っていた。

 アトラスは拒絶した。

「デルタス殿。こんな昔話など意味はあるまい。フローイ国の事は忠誠のウィランと運命のニクススに任せよう」

「では、国の行く末は神の差配に委ねるとして、アトラス様はグライス殿の妻とご子息の葬儀で、人として何を語るおつもりで?」

「人として?」

「左様。亡くなった者たちがアトラス様にどんな思いを残したのか、お考えになっては?」

 デルタスはそれだけ言うと静かに微笑んで立ち上がった。


(全く。変わらぬお人だ)

 去っていくデルタスを眺めてアトラスはそう思った。初めて出会った時もそうだったが、気がつけばするりと心に忍び込んでいるように自然に存在する。去る時も同じだった。気が付けば幕舎の中にアトラスが一人。

 アトラスは兄ロユラスとデルタスが似ていると称したが、むしろアトラス自身とデルタスの方が似ているかも知れない。デルタスは幼い頃に実質的な人質として、他国で自分の本音を隠して育った。アトラスは父に愛された兄の影で、自分も愛されようと本当の自分を偽って生きてきた。自分を隠して生きる哀しみが人生に漂うという点で二人はよく似ている。

 アトラスは薄暗いランプの灯りに思いを定めるようにじっと見つめていたが、やがて決意を込めて短く呟いた。

「帰ろう」

 そして、少し考える間をおいてもう一度呟いた。

「帰る前に、約束も果たさねばならぬ」

 

 アトラスはクセノフォンに命じて兵を整列させて語りかけた。

「私は間もなく王都カイーキを去る。その前に望む者がいれば、今までの働きに応じて褒賞を与え、ここで兵としての任を解く。剣と甲冑は置いて立ち去れ。ただし、盾は持ち去り、我が配下として戦い、自由を得た証とするがいい」

 アトラスの言葉にギリシャ兵たちが沸いた。命がけの戦の中で自由が与えられると聞いていても、それがいつになるのか分からなかった。それが突然に実現した。

 しかし、指揮官のクセノフォンは眉を顰めて疑問を呈した。

「我らが王よ。本当にそれで良いのですか?」

 護衛のアドナの言葉はもっと正直で激しい。

「なんと馬鹿な事を言うのだ。王を守る者たちが居なくなるぞ」

「くどいぞ。もはや決めた事」

 アトラスはそんな短い言葉と兵士たちを残して疲れ切ったように自分の幕舎に姿を消した。

 六百を越える大半の兵が解放を選ぶだろう。アトラスは帰りはアトラスとわずかな護衛の自由な旅を想像していたし、クセノフォンやアドナは同じ状況を想像して不安を隠せなかった。ただ、アトラスの命令を守るしかない。明日の朝、解放を選んで剣と甲冑を捨てた者を整列させて従軍期間に応じて褒美を与える。


 明くる朝、クセノフォンがアトラスの幕舎を訪れて言った。

「兵たちを整列させました」

「何人だ?」

「百人ばかり」

 クセノフォンが答えた数の少なさに、アトラスは兵士としてアトラスの配下に残った者たちの事かと考えた。アトラスは肩をすくめて笑った。

「残るのはせいぜい十人かと思っていた。やれやれ、我が軍のギリシャ人たちはずいぶんの好きな者が多い」

 そして、念を押すように言った。

「クセノフォンよ。そなたも自由なのだぞ」

「俺は残った者たちの面倒を見てやらにぁなりません」

 クセノフォンは素に戻ったような口調でそう言ったのは上下関係抜きで本音を言いたかったからかも知れない。彼は言葉を継いだ。

「俺は今回の件で思い知らされました。この地には多くの命を守るために、自らの腕を血に染める者が、まだ必要だと」

 アトラスに対して批判じみた表現は避けたが、本当の平和を望むなら、未だ戦は続く。その先頭に立つのはアトラスだという。

 その意味を考える前に、アトラスは目の前の光景に驚いて目を見開いた。百人ばかりの甲冑を脱ぎ捨てた者の横に、甲冑姿の兵士たちの数は五百を超えた。大半の兵士たちは兵士としてアトラスに戦いを求めていた。

 アトラスはその光景に呟くように言った。

「私が間違っていた。この大地に平和をもたらすため、多くの者たちが死んだ。私がその死を償うとしたら、その者たちの思いを引き継ぐ事。私は悪鬼ストカルでなければならぬということか」

 クセノフォンの目配せで、スタラススが言った。

「我らが王よ。自由を選んだ者たちが、もう一つ望みがあると申しています」

「何か?」

「このまま王の元で戦い続けたい。ただ、家族を連れてくる時間が欲しいと」

 甲冑を脱いだ者たちも家族を連れてアトラスの元へ戻る事を望んでいると言う。アトラスは理解した。今この国は乱れている。家族を安全な国に逃がしたいと考えるのは当然だったし、次の為政者が彼らの自由を保障する確証はない。為政者の都合で再び奴隷身分に戻されるかも知れない。庇護が受けられるアトラスと共にルージ国への移住を考えているのである。

 アトラスはその求めを受け入れて言った。

「良かろう。あと十日、ここに留まろう。家族のある者は連れてくるが良い。私もその間にフェミナ様とグラシム様の死を悼むとしよう」


 そのアトラスの決断を讃えたのかあざ笑ったのか、この時、整列する兵士たちの足下が揺れた。慣れっこになった出来事だが、彼らが首を傾げるほど大きく小さく揺れが続いた後、突然に兵士たちは尻餅をついたり片膝をついた。そして思考力を取り戻した時、想像もつかない激しい揺れの中にいる事に気づいた。


 彼らの目の前で王都カイーキを囲む頑丈な城壁がぐずれ落ちた。千の十倍の人の力を合わせてもかなわぬほどの巨大な力は、アトラスたちの無力感を煽るようだった。地の揺れが轟音と共に終わると、今までかき消されていた人々の恐怖や苦痛の叫びが聞こえ始めた。


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