レネン国王デルタスの提言
スタラススはその状況を語り続けた。
「物見の報告で王都の包囲が弱まったのを知り、王都に加勢に駆けつける途中、小規模な戦闘があったと思われる場所を通りました。二十人ばかりの兵士の遺体に混じって、女性の遺体を見つけました。私は何度かフェミナ様にもお会いした事がございます。遺体はフェミナ様に間違いないかと」
スタラススの言葉に、一人の重臣が尋ねた。
「グラシム様は、グラシム様はどうされた?」
「フェミナ様の遺体の傍らに幼子の遺体がありました。歳格好からグラシム様ではないかと」
「フリトミス殿は?」
「フリトミス殿?」
初めて聞く名を問い返すスタラススに、フローイ国の最高神官スサロスが言った。
「グラシム様とフェミナ様の護衛だ。お二人をルウオの砦まで無事に送り届けると約束されて、行動を共にされているはず」
「倒れていた御仁の中に、その方が居られたかどうか、私には分かりませぬ。まずは女人と幼子の遺体を検分していただかねば」
スタラススはこの緊急事態を告げるために、十数人の護衛と共に馬を飛ばしてきた。本隊が遺体を運んで到着するには未だ時間がかかる
アトラスは時が制止したように表情を失ったままでいた。配下の兵士たちの中に多くの戦死者を出しながら、彼はフェミナとその息子を守るという約束が果たせなかった。そしてその戦死者はアトラスが目撃した者たちばかりではなかった。
スタラススがアトラスに向き直って言った。
「我らが王よ。今ひとつ報告せねばならぬ事が」
「まだ、何か悪い事でも?」
「最初に王都を目指した時に生じた戦いでテウススが負傷し、それを救おうとしたエキュネウス殿も負傷」
アトラスは心の動揺を必死で押さえて、確認を求めた。
「それでテウススの容態はどうなのだ」
アトラスの問いに、スタラススは話題を逸らして答えた。
「テウススが負傷した折の戦闘で、われらが出会ったのは、思いもかけぬ大軍でした」
もし、テウススが軽傷ならスタラススは負傷を笑い飛ばす。死に瀕する重傷ならその状況をアトラスに隠す事はあるまい。テウススは命には別状はないものの、長期の静養が必要な傷を負ったということか。アトラスはテウススへの労いと自戒を込めて、その責任に言及した。
「さもあろう。私の責任だ」
アトラスは戦いの前に敵の兵力を過小に見積もっていたばかりか、王都に入るまで敵の妨害はないという虫の良い想定を立てていた。しかし、アトラスが山の峰から眺めた敵の総数は、想定より遙かに多い。
そんな不利な戦になった本隊の指揮を任せたのは、寡黙だが誰よりアトラスの命令を忠実に実行しようとするテウススだった。アトラスの側に仕え続けて、彼の考えを実行できる男である。
しかし、アトラスの周囲を見回して兵士の指揮を任せられる人材を探してみると、スタラススやレクナルスは未だ若い。ギリシャ人の中に数十人の兵を預けられる者は居ても、数百の兵の指揮を預けられるほど戦の駆け引きの経験を積んだ者も居ない。
過去の三年間の激戦で、アトラスが失った者は数千の兵士だけではなかった。その兵士を指揮する有能な指揮官もまた失っていた。
スタラススはようやく笑顔を取り戻して言った。
「我らが王も、よくぞご無事で。テウススもそればかり気にかけておりました」
「お前もゆっくり休むがいい」
スタラススの表情に拭いきれない疲労が感じられる。しかしスタラススは首を横に振って答えた。
「いえ。後続の部隊に王のご無事を知らせてやらねば。味方の部隊は、日暮れ前には到着いたしましょう」
スタラススはそれだけ言い残して一礼すると王宮を去った。
目を閉じ、耳を塞ぎたい事がある。王宮の広間に残された者たちの間に、そんな重い沈黙が満ちた。その沈黙が混乱に変わる寸前、ロットラスが広間に声を響かせた。
「この場に集う重臣たちよ。事の次第が判明するまでは慌てふためくまいぞ。そして今ひとつ。この場における事は、決して外に漏らしてはならぬ」
戦巧者らしい判断だった。この場で重臣たちが慌てふためいては、この重大事に何もできなくなる。そして王と王母が死んだという情報が漏れれば、国内は一挙に混乱のるつぼに陥るだろう
そんな広間に伝令が駆け込んできてロットラスに告げた。北に所属不明の軍勢が姿を見せたという。北に敵が現れるとすれば、反乱を起こした領主たちだった。しかし、重臣たちには未だにその反乱の首謀者たちの名を掴んでいない。突然に王都が大軍に攻められた事と相まって、北部に反乱を起こした者が居るに違いないと考えているだけである。
しかし、極限まで高まった緊張感も、間もなくレネン国王デルタス自ら兵を率いて姿を見せて、北からやって来た兵士が、王都の救援に来た味方だと知れて安堵に変わった。
その安堵の隙をするりと抜けるように、デルタスは兵を率いたまま王都の城門をくぐった後、兵を王宮前の広場に留めて、十数人の従者を伴って王宮の入り口で型通り、王宮の主人、フローイ国王グラシムへの謁見を揉めた。
もちろん、グラシムは母フェミナと共に安否不明だった。対応に出た大臣シアギルはそれを伝える事は控え、急な病と称して謁見を断るしかなかった。
デルタスはそんな事は先刻承知だと言わんばかりに、面会相手を変えた。
「では、アトラス殿に取り次ぎを願えるかな。まずはアトラス殿と相談したい事もある」
彼の言葉にシアギルは判断を変えざるを得なかった。王宮にルージ国王アトラスが居る事を否定は出来ない。重臣たちが隠したグラシムの安否不明の情報がアトラスから漏れては拙い。そして、現在の不安定な情勢で、デルタスがアトラスがどんな相談をするかも知っておきたい。シアギルは今までの状況をデルタスにも伝えながら、彼を広間に案内するしかなかった。
王宮の広間にレネン国王デルタスが加わった。アトラスとは旧知の間柄だった。デルタスは神妙な表情で広間に集う者たちを見回した後、ゆっくり口を開いた。
「まずは一言、我が家来フリトミスのこと、詫びねばなるまい。フェミナ様とグラシム殿を守ると大言壮語しながら、その言葉も守れぬなど、お詫びの言葉も見つからぬ」
その謝罪を誰も責める事は出来なかった。フリトミスにフェミナ母子の身を預けたのは広間にいる重臣たちだったし、アトラスに至ってはフリトミスと同じく二人の身を守ると固く約束している。
アトラスは短く言った。
「あとは我が部下を待つしかないようだな」
広間に集う者たちは、その言葉が意味するのは、運ばれてくる遺体の事だと察して黙ったまま頷くしかなかった。
スタラススが二人の遺体を運ぶ兵士たちを連れて戻ってきたのは、間もなく陽が暮れる頃だった。遺体は重臣たちが広間の上座に用意した細長い台座に安置された。白い布でくるまれた遺体は、未だその姿を見せていない。ただ、その布に真新しい血が滲んでいた。重臣たちの表情に、スタラススが見たという者が間違いであって欲しいという願望がうかがえた。
ルトラスが決意を固めた重い表情で台座に歩み寄り、ゆっくりと遺体を包んでいた布を剥いだ。彼は女人の遺体を確認して息を飲むように手を止めかけたが、意を決して幼子の遺体の布も剥いだ。その人物を確認したルトラスは台座の前に片膝をついて、貴人にするように頭を垂れた。
広間に絶望と嘆きの声が広がっていった。
「フェミナ様……」
「グラシム様も」
すすり泣きの声も上がり始める中、アトラスは思い詰めた瞳で二つの遺体を眺めていた。彼が約束を守れなかった何よりの証だった。
デルタスは、そんな光景を静かに眺めていたが、やがて重々しく口を開いた。
「フローイ国の重臣の方々に、申し上げたき事がある」
何事と視線が集まる間をおいて、彼は言葉を続けた。
「早急にグラシム殿に代わる王を立てねばならぬでしょう」
混乱と哀しみの中、重臣たちは顔を見合わせた。デルタスが言うとおりだった。大臣のシアギルが言った。
「しかし、正統なお血筋はグラシム殿が最後の一人」
「それなればこそ。誰を王に立てるにしても、それまでの間、国が乱れる」
重臣たちは再び顔を見合わせたが意見はない。家臣たちが軽々に決める事など出来ない問題だった。
デルタスは意外な者の名を挙げて提案した。
「いかがか、ここに居られるアトラス王を頼られては」
「頼るとは?」
怪訝そうな表情のロットラスにデルタスは言った。
「アトラス王に一端この国を預かって頂き、その間に次の王をきめればよろしかろう」
デルタスはアトラスに視線を向け、それに釣られるように重臣たちの視線もアトラスに集中した。アトラスは失望から抜け出せないまま、思いもかけない展開に返す言葉がなかった。
デルタスが言葉を続けた
「アトラス王は長く先代の王リーミル様の盟友関係にあり、それはリーミル様が亡くなった今でも続いておりましょう。フローイ国の重臣の皆様にとってもっとも信頼できるお方です」
重臣たちの心に様々な思いが駆けめぐっていた。アトラスは盟友であると同時に、その前はフローイ国に戦火をもたらした仇でもある。重臣たちがアトラスに向ける視線は複雑だった。
この時、重臣たちの視線を受け止めていたアトラスの心の中で、自分自身に対する失望と苛立ちが怒りへと変わった。彼は激しい言葉で心中を吐き出した
「しかし……。まずはフェミナ様とグラシム殿をこの国の儀礼に則って葬る事が先ではないのか。フローイ国はフローイ国の民のもの。私が口を挟む事ではない。お二人の死を悼む者が居ないのなら、私はここには不要。葬儀の事は改めて話を聞かせていただこう」
アトラスはそう吐き捨てて不愉快そうに広間を去った。
デルタスはそんなアトラスの背を見送りながら重臣たちに言った。
「私とアトラス王の違いがお分かりか?」
彼は重臣たちを見回して驚くべき事を言った。
「私の兵は王都の中にいる。野望があれば、この機に乗じてフローイ国を奪う事も容易い」
広間に驚きと緊張が広がった。彼の意図を探るように首を傾げる重臣たちに、デルタスは言い聞かせるように言葉を継いだ。
「アトラス王の兵を見よ。アトラス王はその兵を王都の外に留めておられる。フローイ国に野望無き事がお分かりでしょう」
デルタスの言葉に、重臣たちがアトラスに抱いていた疑念は薄れていった。
*敬称の使い分けとアトランティスの人々について*
この物語には会話の中に、「~様」、「~殿」という敬称が出てきます。基本的に目上の者には「~様」、同格の者には「~殿」をつけます。それ以外に、男性が貴族の女性を呼ぶ時や、神の使いたる高級神官を呼ぶ時には敬意を込めて「~様」と呼ぶことがあります。
例えば、アトラスが幼い王グラシムや、その父グライスを呼ぶ時は同格の「殿」を付けています。グラシムの母フェミナを呼ぶときには敬意を込めて「様」を付けて呼んでいます。




