新たな混乱の始まり
アトラスは様子を恐る恐る見に来た村長に命じた。
「荷車の荷をここに残し、負傷者と遺体を運んでくれ」
「どこへ?」
「王都の東の城門に。我らルージ軍は先行して敵の包囲を解く」
「まさか……」
村長は周囲を見回した。彼が眺めたアトラス指揮下の兵士の数は、今や二百を下回る。敵は三千の兵で王都を囲んだという噂も聞いていた。戦には素人だが、その兵力差で戦を挑むなど自殺行為ではないかと不安を抱いたのである。
しかし、アトラスには経験があった。ルージ国を筆頭に四カ国連合軍が聖都を二年にわたった囲んだ。大軍だが広大な聖都を囲めばあまりに薄い網だった。そして、今の王都を囲む敵の兵の数は今や千を少し越える程度。しかも、指揮官を失い、新たな体制を整える余裕もあるまい。
東の城門付近の敵だけなら今のアトラスの手兵で蹴散らし、続いてくる村人たちが城門をくぐって中にはいるまで支えていられるだろう。王都に入れば、これから先の目処も立つ。
アトラスは思い悩む時、胸のお守りに指先をあてる。今はそのお守りに二つの約束を込めている。
「必ず、フェミナ様とご子息をお守りする。そして、聖都で待つエリュティアと共に故郷へ帰ろう」
アトラスはそれだけを目的にしようとした。滑稽なことに、彼はこの後に及んでもルージ島が海に沈んだと言うことを心の底で受け入れられずにいたのかも知れない。
アトラスは兵に休憩を取らせ、携行食で軽い食事をすませた後、夜を徹して兵を進める判断をした。王都まで幅広い街道が続いていて道に迷う事はない。ただし、アトラスたちがこの街道を通って来る事は敵も承知で、どこかに兵を伏せて待ち伏せをしているかも知れない。
彼はクセノフォンに出発を命じると共に軽装の兵を物見に出した。いつしか日は暮れて松明の明かりが必要になった。東を振り返れば、闇の中に村人たちが距離を置いて追ってくるはずだった。その東の空にチッチネの三つ星が輝いて見えた。アトランティス人たちが親子を象徴する三つの星だった。
アトラスは思った。
(フェミナ様がこの夜空を眺めていれば、夫グライス殿の思い出を、グラシム殿に語っているだろう)
ただ、その伝説の親子は死によって結ばれたという。アトラスはその不吉な思いは振り払った。
アトラスたちが危惧した敵の待ち伏せもなく、行軍は順調に進んだ。チッチナの三つ星も、今や中天に差し掛かる時刻になった。
物見に出した兵が捕虜を捕らえて戻った。アトラスは休憩を兼ねて部隊を停止させた。いくつかの小さな勝利を積み重ねて生じた余裕の中で、敵の捕虜には新たに確認したい事があった。
アルム国と言えばレネン国に併合されて消滅した。ゲルエナサスはフローイ国の北にあった島で勢力を広げていた蛮族の族長だがその島も海に沈んだ。国が無くなったという共通点はあっても、アルム国の兵とゲルエナサスの繋がりが見えない。
「アルム国の兵がどうしてゲルエナサスに付き従っているのだ?」
「我らはセキュラス殿に仕える者。ゲルエナサスはその同盟者です」
「セキュラス殿とは?」
「レネン国のデルタスに誅殺されたオウネルス王の忠臣で、アルム国の再興を図るお方。山に籠もり、国を取り戻すための兵を募られていたが、強大なレネン国に抗う術はない」
捕虜の言葉にアトラスも納得した。
「兵を養うには食料が要る。兵に与える武具もいる。忠臣とはいえ国を失った者には難しかろう」
「しかし、ゲルエナサスが現れました。フローイ国を奪い、分け合って北に新たなアルム国、南をゲルエナサスがフローイ国として統治するという約定が結ばれました」
「しかし、ゲルエナサスの配下など五十に満たない。千を越える兵を有するセキュラスと対等の盟約が結べるものか」
「ゲルエナサスにはフローイ王家に取り入る術があり、数千の兵を養う糧秣も有しておりました」
「ゲルエナサスにそのような財が何処にあったという?」
首を傾げて疑問を呈したアトラスにかまわず、捕虜は当然の事のように語った。
「その財で流民たちを兵士として加えました」
「セキュラスはどうしたのだ? 未だ別の部隊を率いて北にいるのか?」
「いえ。突然の病に倒れられお亡くなりに。ゲルエナサスが我らの指揮官となりました」
捕虜が嘘をついている気配はなかった。しかし、その言葉を聞くほど、新たに生じる疑念は尽きない。ゲルエナサスが三千の兵を得て、それを養っていた不自然さに、誰かの思惑が見え隠れしているようにも思える。
クセノフォンが言った。
「ともかくも、今は敵も混乱している様子。この隙を突いて王都へ」
「そうだな」
アトラスは頷くしかなかった。小休止とはいえ立ち止まっていれば、戦でかいた汗が冷たく凍り付くかと思うほどの寒さだった。彼は出発を命じた。
その後、幾人かの物見が戻って前方の様子を知らせたが、敵の待ち伏せも戦闘の気配も薄れていくようだった。時を経てチッチネの三つ星は既に前方の西の空に輝いていた。やがて夜明けの明るさの中に消える。
その前にもう一つ、アトラスたちは前方に王都の灯りを眺めた。
「王都の灯りです」
アトラスと共に隊列の先頭にいたクセノフォンの言葉にアトラスが頷こうとした時、前方の闇の中から声が響いた。
「誰か?」
闇の中、その声と松明の灯りに照らされた男の姿に見覚えがある。
「その声はロットラス殿か」
アトラスの言葉に、ロットラスもまた闇の中から現れた片腕の男の名を親しげに呼んだ。
「アトラス様ではありませぬか」
アトラスは意外なところ王都への案内役が出来た。共に歩きながら、二人はここ数日間の事情を語り合った。
「なるほど打って出たか。敵の包囲が大きく崩れたと聞いていたが、それで合点が行った」
南の城門の外に居た敵を蹴散らしてフェミナと幼い王を脱出させるのに成功したというロットラスの話しに、アトラスは相づちを打ち、ロットラスも言った。
「いや。私の方こそ、何故、敵の包囲が緩んだのか、合点が行きました」
彼はアトラスが僅か二百の兵でゲルエナサスに挑んで包囲を崩壊させたと言う事に率直な敬意を見せた。
アトラスは念を押すように尋ねた。
「フェミナ様とご子息は無事だということか」
「敵の包囲を破りルウオの砦へとお逃がし申し上げたところ」
ロットラスの立場で言うと、フェミナと幼い王を王都の外へ逃がした後、敵の包囲が緩やかになるばかりか、包囲網が崩壊している様子に驚いて、彼自身が物見に出てところだった。戦意のある敵に出会えず、出会ったかと思うと少人数で逃げ去る敗残兵たちだった。そんな状況の中、整然と隊列を組んで東から王都に接近する部隊を見つけた。敵なら北に救援のレネン軍を阻む敵の一隊が居るはずだった。その敵が来るなら北からのはず。東から敵が来る可能性はほとんど無い。声をかけて所属を確認すればアトラスの部隊だったということである。
一行が王都の東の城門にたどり着く頃、空は白んで世界は色を取り戻した。ロットラスはアトラスの髪や鎧の赤黒い汚れに気づいて、王自ら敵の返り血を浴び続けるほどの激戦をくぐってきた事を知った。
ロットラスの帰還とともに、敵の包囲は解けて王都が解放されたと言う知らせが、安堵と喜びを伴って王都に広がった。ただ、その立役者がルージ国のアトラスだと知った人々の多くは眉を顰めた。人々は三年前にアトラスがこの都を戦火に晒した事は忘れていないし、その戦の折りに家族を失った哀しみや憎しみも言えぬ者も多い。
アトラスはそんな民の憎しみと侮蔑の視線を避けようともしないまま、王宮から迎えに出た重臣たちに求めた。
「まずは負傷兵の手当を。他の兵にも休息を取らせてやりたい。連れてきた村人たちにも食べ物と休息を」
アトラスは感情を交えず淡々と言った。ルトラスはアトラスの表情のない顔と声に、彼の疲労を感じ取った。
「お疲れのようですな」
アトラスは黙ったまま無表情で頷いた。背負った責任の一部を果たし終えかけた時、忘れていた疲れが病魔のように襲ってきたと言うところか。悪鬼と恐れられていても、人並み以上の緊張感に喘ぐ生身の人間だった。
「まずは眠りたい。ぐっすりと」
ロットラスやルトラスも武人としてアトラスの様子を見れば、この数日間にアトラスがどれ程の緊張感の中、兵士たちにその緊張を隠し続けてきたのかが分かる。
ロットラスとルトラスはアトラスに寝室を提供し、充分な睡眠を約束した。アトラスは後の処置をクセノフォンに任せ、就寝前の湯浴みの勧めも断ってベッドに入った。しかし、微睡む間もなく、ロットラスの従者が寝室に現れて用件を告げた。
「アトラス王。スタラスス殿が王に緊急の面会を求めております。既に広間にお通しし、我が国の重臣たちも顔を揃えております」
「スタラススが? 緊急の面会とは大げさな奴。おおかたフェミナ様とグラシム殿を護衛してきたか」
アトラスは苦笑いしてベッドから起き上がったが、この国の重臣たちが広間に集ってアトラスを待っているとなれば無視するわけにも行かない。彼はテーブルの上に置いていたお守りを身につけながら、妻に語りかけるように思った。
(エリュティアよ。あとはフェミナ様とグラシム殿の土産話を持って帰るだけだ)
彼は血まみれの衣類に換えて新しく準備されていた衣類を身につけたあと、急ぎ足で案内する従者の後に続いて、宮殿の中を広間へ向かった。
広間に一歩入ると、戦勝に不釣り合いな重々しい雰囲気がアトラスを包んだ。その雰囲気の中心にスタラススの姿を見つけたが、彼の表情も笑顔で挨拶を交わす雰囲気ではない。
アトラスの入室を待って、スタラススが慎重に口を開いた。
「我らが王よ。フローイ国の重臣の皆様。我らルージ軍部隊は王都に向かう途中、グラシム様とフェミナ様らしき遺体を発見しました。間もなくここへ到着するかと……」
広間の人々は信じられない知らせに凍り付くようだった。
注釈と解説です
『チッチナの三つ星』 反逆児アトラス第二部から
現代にオリオン座として伝わる冬の星座の中央の三つの星である。アトランティス人たちにも、美しく冬の夜空を彩る星にまつわる伝承がある。ただ、フェミナはシュレーブ国の伝承は知っていても、フローイ国に伝わるそれは知るまい。彼女は気晴らしに空を眺めて伝承を語った。 戦の女神が一人の勇者の死を悼んで勇者の魂を星に刻んだという。夫を失った妻は空を見るたびにその悲しみを忘れる事が出来ず、冬が来るたびに空を見上げて嘆き悲しんだ。幼い娘チッチネは自分の命と引き替えに、母を父の元へ送り届けるよう、戦の女神に願い出た。戦の女神は少女の願いを愛でて夜空に親子が住む場所を与え、親子は仲良く手を繋いで暮らしているという。




