ゲルエナサスとの対面
もともと敵からも湖に浮かぶ舟は見えているだろう。ただ、その舟に乗っている者が、残酷な意図を持っていたと気づいたのは、アトラスたちが火矢を放った時だったろう。四隻の舟から放たれた十五の火矢は、村の入り口にある障害物を燃え上がらせて、敵の退路を絶った。
敵が探索している家の中ではなく、湖に面した家の外には油を掛けた木ぎれや藁束が積み上げたあり、油を含んだ樹皮で葺いた屋根は火がつけばそのままでも良く燃える。村の西からもクセノフォンが率いる兵士たちが家に火をかけているだろう。
今や業火と呼んで良いほどの熱気と煙の中から数え切れない怒号と悲鳴が上がっていた。火だるまになった敵兵が、家と家の隙間を通って、駆けてくるのが見えたが、湖の手前で力尽きた。湖にたどり着いた敵兵も、飛び込んだ後に身動きもせず死体になって浮かんでいた。
アトラスは味方を一兵も損なわず、敵を殲滅したが、目の前の残酷な景色を眺めていれば、完勝の喜びではなく、虐殺の罪悪感が浮かんできた。アトラスは命を心に刻むように、炎の中から響く悲鳴を聞いていた。炎と煙の勢いは増していたが、敵の声はか細くなり消えた。
街道を眺めても新たな敵の増援は姿を見せていない。アトラスは他の舟にも合図をし、仲間たちの所へ戻るぞと伝えた。
西の王都から続く街道が途切れ、景色が村から森に変わる辺りで、クセノフォンが油断無く周囲を見張りながらアトラスの帰りを待っていた。クセノフォンが戦勝の祝いを述べる間もなく、アドナが進み出て言った。
「次は、次はどうするんだい?」
アトラスは直接に答えず考え込むように言った。
「敵は飢えている様子に見えたが」
アトラスと共に舟に乗っていた兵士も言った。
「私にもそう見えました、敵兵に覇気が無く、指揮官も腹を減らして焦って怒鳴り散らしているように」
「では、食い物を奪い戻しに来たってわけかい?」
アドナの言葉にアトラスは首を傾げ続けていた。
「我らが敵の食料を焼き払ったとは言っても、当面の物資だけ。全線で物資が不足していれば、即座に後方からの補給物資も届くはず。しかし、何故か分からぬが、その補給が途絶えているようだ」
「では、我らはいかがいたしましょう」
クセノフォンの問いに、アトラスは敵を演じてみた。
「私がゲルエナサスなら、飢えて動けなくなる前に兵を退く。今の私は悪鬼だ。これ以上評判を気にする必要はないからな」
「我らは王を信頼しております」
クセノフォンの言葉にアトラスは考え続けた。
「しかし、奴の兵にはその信頼がない。奴は兵に飯を食わしてやらねば兵に見放される。臆病だと言われれば兵は逃げる。奴は戦いを求め、食料を得るしかあるまい」
ゲルエナサスが王都を総攻撃するだろうということである。
「それは拙くはありませんか。敵の数は減ったとは言え、我らの増援は王都には入れず、王都の守備隊は少ない。敵の総攻撃を受ければ……」
クセノフォンの言葉を最後まで聞かず、アトラスは思いついたように言った。
「私が挨拶に出向いて、千の兵が焼け死んだお悔やみを伝えてこよう。私を見れば王都攻めの気分を変えるだろうさ」
アトラスは彼自身か囮になると言った。
「我らが王よ。危険すぎるのでは」
「言うな。策がある」
アトラスは彼が口にした策に従って、一人の漁師が操る舟で湖の西の岸辺に近づいた。アトラスが敵の物資の貯蔵場所を襲った後、敵は即座に反撃の兵を送ってきた。その素早さを見れば敵の本陣は王都の北で湖の西の岸辺の向こうにある。ゲルエナサスもそこにいるだろうというのがアトラスの考えだった。既に岸辺にいる敵の兵士たちの姿が見え、その背後にいくつかの幕舎も見えた。
アトラスが舟を止めさせたのは、岸辺にまで声が届く、しかし弓のねらいは付けにくい距離だった。アトラスはマントを脱いだ。彼の片腕の姿を見ればその正体も知れる。事実、岸辺にいた兵士が船上のアトラスに気づいて、叫び声を残して逃げるように姿を消した。その驚きと恐怖の叫びは他の兵士たちにも広がっていった。ただ、敵の兵士の表情や腰を抜かしたような動きには本物の恐怖がうかがえるが、その恐怖がどこか鈍い。
「やはり飢えているようだな」
敵の兵の姿を眺めてそんな確信を深めながら、アトラスは敵兵が面会相手を連れて戻るのを待っていた。
間もなく、一人の男が兵を従えてやってきた。周囲の兵に比べて頭一つ分背が高く、広い肩に筋肉が盛り上がって首が見えぬほど。蛮族が棍棒を持っているイメージを抱いていたが、男は剣を携えていた。ただ、その剣も普通の兵士たちの持ち物より一回り大きい。その巨大な剣を自由に振り回せるほど男の胸板は分厚い。
男は舟の上の青年が片腕だという特徴を眺めて言った。
「お前がアトラスか。片腕のない哀れな姿よな」
怒鳴ったようには見えなかったが、空気がびりびりと震える声だった。アトラスは笑いながら声を張り上げて言った。
「そうだ。死ぬ前にこの悪鬼の姿を目に焼き付けておくがいい。お前が村によこした千の兵は、私の姿を目に焼き付ける前に業火に焼かれたぞ」
ゲルエナサスは村が炎上している気配は察していたが、アトラスの言葉で部隊が全滅したと言う事を知った。彼はその驚きを隠して笑顔で誘った。
「こちらに来い。戦場で殺す前に、酒でも飲ませて歓待してやろう」
「いや遠慮させてもらおう。お前の周りの兵を見よ。皆、悪鬼の姿に怯えているであろう。ほらっ、そこの兵よ。我が姿を見よ。次に私にのど笛を食いちぎられて血をすすられるのはお前かも知れぬぞ」
アトラスの言葉に、ゲルエナサスは腰の剣の束を叩いて言った。
「お前が大口を叩いていられるのも今の内だ。まもなく、その小賢しい首も胴体から切り離してやろう」
「その前に食い物の心配をしたらどうだ。兵が飢えているようだな。ラフローイ島が海に沈んでもはや一年以上、兵に与える食料も尽きたか」
アトラスの挑発に応じて答えれば、彼がどこから食料を得ているか分かるだろう。しかし、ゲルエナサスは話題を逸らして言った。
「故郷を無くしたというなら、お前も同じ。エリュティアとかいう女に取り入って兵と食料を得ているのであろう」
アトラスは眉をピクリと動かしただけで心の動揺を抑えた。彼の故郷ルージ島が海に沈んだという知らせは聞いていても否定する気持ちの方が大きい。しかし、この蛮族の頭領は遠く離れたルージ島の様子を正確に知っていた。
アトラスも話題を逸らして叫んだ。
「兵を何処で得たかは問うても詮無き事。悪鬼の軍団五千の前には、お前の兵など抗う術などあるまい。既に二百の兵を切り裂き、千の兵を業火の間かで焼き尽くしてやった。お前の兵も残るは僅かだ」
会話をしながら互いの腹を探る。そしてアトラスはゲルエナサスの様子を眺めながら、彼の周囲の敵兵にも気を配っている。
アトラスはゲルエナサスの存在を無視して兵士たちに言った。
「我が兵士は、お前たちの血をすすって腹一杯だ。それに引き替え、その男はお前たちに飯も食わせていないようだな」
食べ物の話題に反応してアトラスに視線を向けた兵士たちにアトラスは言葉を続けた。
「そこのゲルエナサスは、王都を包囲するしか戦の術を知らず、なすすべもなく私に食料庫を焼かれた。その男が村に送り込んだ五百の兵は皆殺しになった。更に二千の兵が我が業火に焼かれて全滅だ。口先だけの蛮族は負け戦を繰り返し兵を飢え死にさせるだけ。無類の戦下手な男の姿をよく見よ。」
アトラスが語る数字には誇張がある。しかしそう言われれば、彼らの飢えば事実だった。幾人もの仲間が死んだが、ゲルエナサスはそれに見合う戦果も挙げていない。兵士たちの不審な視線がゲルエナサスに集まった。
余裕を見せていたゲルエナサスも、兵を煽られて慌て始めた。
「ええいっ。奴を射殺してしまえ」
その命令で十人ばかりの兵士が矢を放った。しかし、もともと弓の射程の距離を空けているうえ、飢えて力のない敵兵の矢は、アトラスの手前に飛沫を上げて落下した。アトラスは笑いながら言った。
「お前たちは我が噂を知らぬのか。悪鬼に矢は届かぬ。我を傷つける事など出来ぬぞ。お前たちは我が軍団に食いちぎられ、血をすすられる事しか出来ぬ。そのゲルエナサスとやらに連れられて、我ら食われるためにやってくるが良い」
アトラスは舟を操っていた漁師に命じて船首を東に向けさせ、ゲルエナサスをあざ笑うように笑い声を残して去った。
岸辺に取り残されたゲルエナサスは、即座に部下を呼びつけて命じた。
「タジミルザス。五百の兵を任す。湖の北側から奴らを追え。俺は焼き払われた村を通って湖の南を回ってあ奴を追う。お前が先に戦っていれば、俺が奴らの背後から襲う」
「我が王が戦っていれば、俺が悪鬼を背後から襲う」
「そう言う事だ。ぬかるなよ」
ゲルエナサスは千の兵を王都の包囲に残して、残りの兵を全てアトラスに向けると決断した。千の兵を残すとは言え、広い王都を囲めば包囲網に穴が開くかも知れない。それでも、目障りなアトラスを先に片付けねば、その包囲網にもっと大きな穴が開く。何よりアトランティス全土に悪鬼の異名で恐れられているアトラスを討ち取れば、ゲルエナサスの武名はアトランティス全土に鳴り響く。彼は自信満々でほくそ笑んだ。
ゲルエナサスは出撃準備に立ち去ったタジミルザスから視線を逸らし、陣の中を見回して忌々しそうに叫んだ。
「ええいっ。デルタスの奴はまだ食料を送ってこぬのか」
その名を聞けばアトラスもよく知っている。レネン国の国王の名だった。アトラスは気づかぬうちにデルタスの大きな謀略の中にいた。




