不穏な空気
アドナとユリスラナの二人は、夫婦の会話を聞き取ろうと耳を澄ませた。エリュティアの言葉が聞こえた。
「ルージへはいつ行かれるのですか?」
「帰るのは未だ先だ」
エリュティアの行くとい表現に、アトラスは帰ると言う言葉で応じた。この地の支配は確立していて、この地を故郷と思い定めても良いはずだが、若い夫アトラスには未だその気分は淡い。
アトラスは妻のエリュティアに勧められるままテーブルの向かいの椅子に腰掛けた。テーブルの上に丁寧に折りたたんだ緑色の布があり、その下にはその布に包まれていたに違いないスクナ板が見える。アトランティスの人々は、通信文を記した腕で抱え込めるほどの大きさの薄い板をスクナ板と呼んでいる。それを包んでいた布の色はフローイ国からの書簡という事である。事実、緑の布の隅にフローイ王家の紋が付いていた。
アトラスはスクナ板の差出人を察して尋ねた。
「フェミナ様とグラシム殿はお元気か?」
「ええ、二人とも元気で、王都と、水害にあった北の村々の再建に忙しいと」
エリュティアがアトラスにスクナ板を差し伸べたため、アトラスは優しく微笑んで拒絶した。いまはアトラスと結ばれてルージ国王妃となったエリュティアと、フローイ国王妃フェミナは互いをよく知る親しい幼なじみである。男性として、その二人の間に荒々しく踏み込む事は避けたい。
三年前、シュレーブ国王女だったエリュティアと、リマルダの地を治める領主ガルラナスの娘フェミナの運命は、政略結婚の道具として利用されて大きく変わった。フェミナは隣国のフローイ国の王子に嫁いで王妃の身分になり、息子グラシムを授かった。今はその幼いグラシムが王位に就きフェミナはその息子を支える立場だった。エリュティアはアトランティス大陸の東にある島国ルージ国の王子アトラスに嫁ぐという意識をすり込まれた直後、両国は敵味方に分かれ、三年後に亡国の王女と戦の勝利者として、再会して結ばれた。年格好がよく似た二人には立場が逆なる運命もあった。もし、エリュティアがフローイ国に、フェミナがルージ国のアトラスと結ばれる運命だったら、今の二人の王妃を取り巻く状況はどう変わっていただろう。
エリュティアはスクナ板に視線を落として不安そうに眉を顰めて言った。
「でも、不安な事があるのです」
「何が?」
優しく問う夫に、エリュティアは答えた。
「書いてあるのは、昔の楽しい思い出話ばかり」
「楽しい思い出があるのは良い事だ」
「でも、彼女は幼い頃から不安があると、不安から目を逸らすように子どもの頃の思い出に浸ります」
エリュティアはそんな些細な兆候から、幼なじみの心情を正確にくみ取っていた。フェミナとその幼い息子の身辺に、楽しい思い出で覆い隠したい辛く不安な出来事があるのかも知れない。
アトラスは王妃の不安を振り払うように言った。
「フェミナ様も、今や幼い王の母君の立場。言いたくとも言えぬ事もあるのだろうよ」
この時のアトラスやエリュティアは、フェミナと幼い王の身に危険が迫るという事態は想像もしていなかっただろう。
アドナとユリスラナはそろって窓から身を乗り出すほど熱心に、漏れ聞こえる王と王妃の会話に一言も聞き漏らすまいと耳を傾けていた。二人の心は一致している。二人は顔を見合わせて、王と王妃の関係が深まるようにと祈った。
しかし、街道に面した庭園の入り口が突然に開いて三人の男が侵入してきた光景に、二人はそろって眉を顰めた。アドナは王と王妃の水入らずの場所に踏み込んで乱した侵入者を露骨に罵った。
「あの馬鹿者どもが」
罵られた三人が慌てる様子に、アトラスが面白そうに声を掛けるのが聞こえた。
「慌て者のスタラススにレクナルス。テウススまで、その仲間入りか?」
三人はアトラスに急用があって来たに違いないのだが、踏み込んではならない場所に踏み込んでしまっただけではなく、王に密かに伝えたい情報だが、王の傍らに王妃まで居る。
アトラスはそれを察して言った。
「かまわぬ。言え」
スタラススが言った。
「我らが王よ。グラト国がラルト国へ攻め入ったそうです」
「トロニス殿が……、何故だろう?」
この三年間、同盟国として戦ってきたグラト国王の人柄を思い出しながら、アトラスは首を傾げた。アトラスの感覚では、平和を迎えるべき大地だった。しかし再び戦火が広がろうとしている。その理由が分からないという。
しかし、アトラスを見守るようにいる近習たちは、いくつもの戦火をくぐってきた王に分からぬはずがないと信じていた。テウススが今のアトランティスの状況について、念を押すように言った。
「トロニス殿は、次のアトランティス議会を有利に運ぼうと考えているのでしょう」
聖都の解放後、戦勝国の王はアトランティス議会で、アトランティス各国を新たに統合する仕組みを相談しようと約束して別れた。その会議の折りに少しでも自国を有利に謀ろうと、会議の開催を待たずに動き出していると言う事である。アトラスが成し遂げた聖都開放は戦の終わりではなく、新たな戦と混乱の幕開けだった。
この時、アトランティスの大地が揺れた。テーブルの上の水差しが揺れて床に落ち、地に立っていた者たちは膝を屈して地に手をつけて倒れるのを防いだ。館の外からは女や子どもの悲鳴が聞こえる。地の底から突き上げるような揺れに人々は地下の邪悪な冥界の神を思い起こして、それぞれが信じる神に加護を祈った。
冥界の神。アトランティスの人々の神話によれば、元は大地を支配する神だったらしい。弟の海の神と相性が悪く、争いが絶えなかった。ある時、兄の調停の神たちの調停にも関わらず、二神はいよいよ争いが高じて、互いを消滅させるほどになった。海と地が揺れ騒ぐ中、敗北を悟った冥界の神は地の底深く逃れて冥界を支配する神となり、代わって調停の神が大地を収める神になった。
恨み、憎しみ、哀しみ、人々が嫌悪する感情が交じり合い固まった地の底深く、冥界の神は邪悪な神に変貌した。それ以来、真理の女神は冥界の神を地の底深く封じて、神々の系譜からも抹殺した。神々を祀るアトランティスの神官たちは、その名を邪悪として口にする事もない。
その冥界の神は、時折、人々にその名を思い起こさせるように、地を揺らし、山から火を噴かせる。
今の大地の揺れは冥界の神が、アトランティスの大地の上で生きる者たちの運命をあざ笑っているようだった。